ノート:討幕の密勅
本文の記述内容の合意形成を目的とした議論
[編集]ShikiHでございます。
この記事に関して活発な議論がつづき、ついには編集合戦と見なされて、保護が掛けられました。そこで提案があるのですが、ここにShikiH版を書いておきます。これへのご意見をお書きになってください。もちろん変更してはなりません。下に書き加えてください。議論の結果、合意にいたれば大変喜ばしいことです。そういうものができあがることを願っています。しかし何の意見もないようならば、下記のShikiH版で合意に達したものとして、これを記事にいたしたいと思います。
- 記
- 討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に薩摩・長州両藩に下された江戸幕府追討の詔書を指す。日付は、薩摩藩に下されたものが13日、長州藩に下されたものが14日であり、いずれも中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。
- 正親町三条邸にて、大久保利通、広沢真臣に手渡され、賊臣・慶喜の討伐を命ずる内容となっている。偽勅だと言われているが、その理由は
- 明治天皇及び摂政の署名がない。
- 署名した3人の名前の下に本来あるべき花押がない。
- 天皇の外祖父・中山忠能が密勅に終始及び腰だった。
- などである。
- この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書である。
- しかし、10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷がこれを受理したため、討幕の大義名分が消滅し、21日には薩長両藩に対して、討幕実行延期の沙汰書が下された。そのため岩倉・大久保ら討幕派は王政復古クーデターを画策することになった。
カテゴリ: 江戸時代 | 幕末
以上--ShikiH 2008年7月30日 (水) 11:19 (UTC)
「岩倉具視らと結んで受けた」に関しては、きままさんのノートに書いたように、高校レベルの内容で出てくる歴史的な事実で、なおかつ信頼できる出典を示した上での記述なので、これについても加えてください。それ以外の点については全く異論はありません。--彩華1226 2008年7月30日 (水) 13:45 (UTC)
- 岩倉が加担していたことを書くのはかまいませんが、「岩倉具視らと結んで受けた」ではちょっと変です。「結んで受けた」の表現を修正したいと思いますので、該当部分をもう少し長く書いてください。--ShikiH 2008年7月31日 (木) 01:55 (UTC)
- では、「この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書である。」という記述を「この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書であり、その背後には、薩長両藩と結んだ岩倉具視ら倒幕派の中下級貴族の暗躍があった。」として、薩長が倒幕のための大義名分を得るため、岩倉らと結託したという表現にするのはどうでしょうか--彩華1226 2008年7月31日 (木) 14:28 (UTC)
きままの案
討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に薩摩・長州両藩に下された「賊臣・徳川慶喜」討伐を命ずる秘密勅書。
日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日、長州藩に下されたものが10月14日であり、いずれも中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。「起草は玉松操。薩摩藩宛は正親町三条実愛が、長州藩宛は中御門経之が書いた。裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に正親町三条実愛が述べている。
正親町三条実愛邸にて、大納言・正親町三条実愛が薩摩の小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)・大久保利通、長州・広沢真臣(計4人)に手渡した。
1.(明治)天皇および摂政(二条斉敬)の署名がない 2.署名した3人の名前の下に本来あるべき花押がない 3.(署名した)天皇の外祖父・中山忠能が「密勅」に終始及び腰だった などの理由から偽勅説が有力であるが、いざという時に「薩長軍が『官軍』を名乗る」根拠となり得る文書と言える。
しかし、10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、翌15日に(明治)天皇が上奏を勅許(受理)した為、討幕の名分が消滅し、21日には薩長両藩に対して、討幕実行延期の沙汰書が下された。これを受け、討幕の名分を得る為 岩倉・大久保ら倒幕派は王政復古クーデターを画策することになる。
以上がきまま案です。
密勅の文章には「賊臣・慶喜討伐」のみ記されていて「江戸幕府」(を討伐せよ)とは書いていないので(通称は討幕の密勅ですが)「江戸幕府・討伐」を削除
日付は 11月ではなく10月と言う事を明示するため「10月13日」「10月14日」と明記。
括弧はなるべく少ない方が良いかもしれませんが 「薩長軍が『官軍』を名乗る」程度なら良いのでは?と思います。取り敢えず「官軍」は強調すべきと思います。
岩倉の暗躍は「裏では岩倉具視の骨折りがあったと明治時代に正親町三条実愛が述べている」に全て集約されているので、これがシンプルで最も理解しやすいと思います。
理由 1.天皇および摂政の署名がない(そのとき、天皇は明治天皇。摂政は二条斉敬)→ (明治)天皇および摂政(二条斉敬)の署名がない と表記しています。
主な出典は徳川慶喜・知れば知るほど(永岡慶之助)実業之日本社)
いかがでしょうか?--きまま 2008年8月3日 (日) 15:51 (UTC)きまま
ShikiHでございます。
この部分に疑問があります。「 3.(署名した)天皇の外祖父・中山忠能が「密勅」に終始及び腰だった」。署名したのはだれですか?
官軍を強調するのは言いと思いますが『官軍』ではなく官軍としたいと思います。これはウィキペディア表記ガイドに従うものです。
私は一応上に案を示しましたが、他の方々の異存がなければこうするという物を示したものです。私が最終案を提示すると言ってるわけではありません。彩華さんときままさんの意見の隔たりは現時点では大きいので、お二人で活発な議論の上、合意に達するよう願っています。--ShikiH 2008年8月3日 (日) 19:51 (UTC)
きままさんの「裏では岩倉具視の骨折りがあったと明治時代に正親町三条実愛が述べている」という記述について疑問視しているのは、一般的な学説が「明治時代に正親町三条実愛が述べている」から岩倉が暗躍した(実愛の証言を引いて岩倉暗躍について述べる)という文脈にはなっていないという理由からです(基本的に「岩倉が暗躍→密勅」という文脈になります)。つまり、岩倉の暗躍は密勅にとって非常に重要な要素で、実愛の証言についてはあくまでエピソード的なものです。ですから、「裏では岩倉具視の骨折りがあったと明治時代に正親町三条実愛が述べている」について記述するのは良いとしても、岩倉の暗躍が密勅の重要な要素であるとの視点を欠いてしまっては密勅がいかにして出されたか説明できなくなってしまいます。ですので、以下のように、岩倉の暗躍について述べ、その傍証として実愛の証言を引用すればいいのではないでしょうか。
- この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書であり、その背後には、薩長両藩と結んだ岩倉具視ら倒幕派の中下級貴族の暗躍があった。実際、正親町三条実愛は「裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に述べている。
--彩華1226 2008年8月4日 (月) 13:48 (UTC)
コメント、有難うございます。
「 3.(署名した)天皇の外祖父・中山忠能が「密勅」に終始及び腰だった」 了解しました。取り敢えず「署名した」を削除しましょう。
(薩長両藩と結んだ岩倉具視ら)「倒幕派の中下級貴族」(の暗躍があった ) この箇所は「密勅の事は署名した3人と岩倉以外、知る者はなかった」と明治時代に三条実愛が証言している(出典・徳川慶喜知れば知るほど(永岡慶之助)実業之日本社) ので同意いたしかねます。
この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書であり、その背後には、薩長両藩と結んだ岩倉具視ら倒幕派の中下級貴族の暗躍があった。実際、正親町三条実愛は「裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に述べている。
この文章では複雑で理解しにくいと思われるので シンプルに「裏では岩倉具視の骨折りがあったと明治時代に正親町三条実愛が述べている」で良いのでは?と思います。 討幕密勅の項目では「薩長に討幕の密勅が下って、それは偽勅説が有力だが、ともかく薩長は官軍を名乗る根拠を得た」と言うのが重要であって「誰が裏で骨を折ったか」というのはさほど重要ではないと思いますので「裏では岩倉具視の骨折りがあったと明治時代に正親町三条実愛が述べている」と簡単に触れる程度で問題ないと思います。--きまま 2008年8月4日 (月) 16:13 (UTC)きまま
「なるべく理解しやすく、なるべく正確に」をモットーとしたきままの修正案
討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に薩摩・長州両藩に下された江戸幕府討伐を命ずる秘密勅書。「賊臣・徳川慶喜」討伐を命ずる内容となっている。
日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日、長州藩に下されたものが10月14日。いずれも中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。
岩倉具視は(天皇の外祖父・中山忠能を自派に引き込むなど)倒幕派公卿と接触して密勅発行のため宮廷工作に奔走した。
因みに「起草は玉松操。薩摩藩宛は正親町三条実愛が、長州藩宛は中御門経之が書いた。裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に正親町三条実愛が述べている。
正親町三条実愛邸にて、大納言・正親町三条実愛が薩摩の小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)・大久保利通、長州・広沢真臣(計4人)に手渡した。
1.(明治)天皇および摂政(二条斉敬)の署名がない 2.署名した3人の名前の下に本来あるべき花押がない 3.天皇の外祖父・中山忠能が「密勅」に終始及び腰だった などの理由から偽勅説が有力であるが、いざという時に「薩長軍が官軍を名乗る」根拠となり得る文書と言える。
しかし、10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、翌15日に(明治)天皇が上奏を勅許(受理)した為、討幕の名分が消滅。よって21日には薩長両藩に対して、討幕実行延期の沙汰書が下された。これを受け、討幕の名分を得る為 岩倉・大久保ら倒幕派は王政復古クーデターを画策することになる。
以上がきままの修正案です。主な出典は徳川慶喜・知れば知るほど(永岡慶之助)実業之日本社
「討幕密勅」の文章に「江戸幕府」(を討伐せよ)という文言はないが、通称「討幕の密勅」なので一般が理解しやすいように「江戸幕府討伐を命ずる」秘密勅書 と記載。
「岩倉具視は(天皇の外祖父・中山忠能を自派に引き込むなど)倒幕派公卿と接触して密勅発行のため宮廷工作に奔走した。と私は書きましたが、この部分は適切は表現に 適宜、修正していくと良いのでは?と思います。
「偽勅と言われている。その理由は~である」という(大変失礼で申し訳ないのですが)少し回りくどい表現より「~という理由から偽勅説が有力である」という表現の方がストレートで理解しやすいと思います。それに(~という理由から)「偽勅説が有力だが、官軍を名乗る根拠となり得る文書と言える」という一つの文章になっていないと意味が通じにくいと思います。
よって大変申し訳ありませんが「偽勅説が有力だが、官軍を名乗る根拠となり得る文書と言える」と表現すべきと考え「偽勅と言われている。その理由は~である」という表現には同意いたしかねます。
以上の文面を基本構成とし、細かい部分は適宜、修正していけば良いのでは?と思うのですが如何でしょうか?--きまま 2008年8月4日 (月) 20:50 (UTC)きまま
ShikiHでございます。きままさんの文章を拝読いたしました。ご指摘の中で次の箇所即ち、「偽勅説が有力だが、官軍を名乗る根拠となり得る文書と言える、という一つの文章になっていないと意味が通じにくいと思います。」の箇所はご指摘の通りと存じます。本文の眼目は討幕の密勅は官軍と名乗る根拠ということなのに、その説明中に偽勅説が割り込んで記述されているのが原因だと思量します。よって、ShikiH第2案では記述の順序を入れ替えます。すなわち
- 討幕の密勅の意義
- 関係者
- 王政復古のクーデター
- 偽勅
とします。 箇条書きについて、箇条書きがない方が文章として美しいというのは自然な感覚だと思いますから、箇条書きをやめることには異論はありません。
ShikiHの第2案
討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に薩摩・長州両藩に下された「賊臣・徳川慶喜」討伐を命ずる秘密勅書である。10月13日に薩摩藩に、10月14日に長州藩に下された。この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書である。
岩倉具視は天皇の外祖父・中山忠能を自派に引き込むなど、倒幕派公卿と接触して密勅発行のため宮廷工作に奔走した。そして正親町三条実愛邸にて、大納言・正親町三条実愛が薩摩の小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)・大久保利通、長州・広沢真臣の計4人に手渡した。「起草は玉松操。薩摩藩宛は正親町三条実愛が、長州藩宛は中御門経之が書いた。裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に正親町三条実愛が述べている。
しかし、10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、翌15日に明治天皇が上奏を勅許したため、討幕の大義名分が消滅し、21日には薩長両藩に対して、討幕実行延期の沙汰書が下された。これを受け、岩倉・大久保ら倒幕派は討幕の名分を得るため、王政復古クーデターを画策し始めた。
この密勅は偽勅だとの説が有力である。その理由は明治皇および摂政・二条斉敬の署名がないこと、署名した3人の名前の下に本来あるべき花押がないこと、天皇の外祖父・中山忠能は密勅に終始及び腰だったこと、 などである。
カテゴリ:江戸時代|幕末(第2案ここまで)
順序の変更以外に次の箇所を修正しました。
- 冒頭の部分が体言で終わるのを変更。
- 一般には討幕と言われているかもしれないが、より正確に変更。
- ない方が言いと思う括弧の削除。
- 為は仮名書きに変更。
- 彩華案を取り入れた。
- その他。
皆様の更なる議論をお待ちします。--ShikiH 2008年8月5日 (火) 07:59 (UTC)
- 密勅が発せられるまでの大まかな流れが過不足なく述べられている、私の主張がおおむね受け入れられているという点で第2案に賛同させていただきます。--彩華1226 2008年8月5日 (火) 14:27 (UTC)
コメント、有難うございます。
いきなりで大変恐縮ですが「本文の眼目は討幕の密勅は官軍と名乗る根拠ということなのに、その説明中に偽勅説が割り込んで記述されているのが原因だと思量します。」の箇所の意味が良く理解できません。
次にShikiHさんの第2案を拝見いたしましたが、受諾しがたいです。
誠に失礼で大変恐縮ですが、その理由を述べさせていただきます。
理由 1、文章が全体的に理解しにくい流れと思われるので 2、事実誤認があるから 10月13日に薩摩藩に、10月14日に長州藩に下された。 (日付が薩摩13日、長州14日であって)実際に下されたのは両方とも14日だから
3、「この文書は薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書である」 文書が2回も出てくる重複表現であり、適切な表現とは言いにくいので 手前みそですが (編集合戦になる前の文章とほぼ同じである)8月4日20:50記述のきままの修正案が一番理解しやすいのでは?と思います。 (体言で終わるかどうか、括弧の有無など)細かい点は適宜に後々修正するとしても 大方はきまま修正案で良いのでは?と思います。 私としては何とか「きまま・修正案」での(一応の)基本的・最終決着を衷心からお願い申し上げる次第であります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。--きまま 2008年8月5日 (火) 23:38 (UTC)きまま
ShikiHでございます。気ままさんにお伝えします。
ああ、やっぱり。私は下されたのは両方とも14日だと思っていました。ただきままさんが日付が違うとおっしゃったのであるいは薩摩には13日に渡されたのかと思ってわざわざ修正したものです。気ままさんの言う日付は何の日付ですか? また、その日付をこの記事で述べる必要があるでしょうか?
文書が2回出てくるのは、避けた方がよいとのご指摘ならそれに従います。
全体が理解しにくい流れであるは、具体性に欠ける意見です。どこがどう悪いのかを指摘してください。このような理由はオールマイティなので、いつでもどんな文章にでもつけられます。そう言う理由は困ります。
気ままさんの修正案で最も重要なところはどこかと言うと官軍のところでしょう。だからこそ、強調文字になってます。そうだとすると、記述位置がここでは後ろ過ぎます。できれば冒頭の段落がよろしかろうと思います。
さて、本日はたしか保護解除の日ですが、合意に達することはできませんでしたので、気ままさんの修正案を記事とすることはできません。ShikiH第2案も使えません。これから先どうしましょう? もう私はできることはすべてやってしまったので、この場からは退場しますが、また編集合戦にならないことを期待します。またなったとすれば、削除もやむを得ないと思います。--ShikiH 2008年8月6日 (水) 03:47 (UTC)
ShikiHでございます。保護のテンプレートが除去されて編集ができるようになりました。この記事は幸いなことにあまり多くの人が書いていません。そこで、きままさん、彩華さん、そしてわたくしShikiHが手をつける前の状態に戻すことができますので、そうしておきます。 2006年10月2日 (月) 02:45 版に戻しました。
合意形成については、引き続きここで議論を続け、この3人は合意に達するまで本文には書き込まないのがよいと思います。--ShikiH 2008年8月6日 (水) 14:19 (UTC)
私としては、ShikiHさんの第2案で同意を示しました。第2案で全く問題はなく、きままさんの反論も以下のように簡単に解決が可能で、それでも頑なに拒否するのであれば重箱の隅を突いているだけになります。
- ShinkiHさんの言うとおり、具体性に欠ける
- 薩摩藩には10月13日付けで、長州藩には10月14日付けで下された とすればよい
- この文書は を削るだけでよい
それでも自案がよいというのであれば、一般の図書館でも閲覧・貸し出しできる概説書や新書の類で結構ですので、「徳川慶喜・知れば知るほど」のような「読み物」の類ではない文献なども参考になさって新しい案を示してください。--彩華1226 2008年8月7日 (木) 18:16 (UTC)
ShikiHさんへ
遅くなりましたが、御回答いたします。
全体が理解しにくい流れであるは、具体性に欠ける意見です。どこがどう悪いのかを指摘してください。
まず、冒頭に概要を記述。以下は(古い事項から新しい事項へと言う)一定の時間的流れになってないと理解しにくいということです。 つまり、1、概略 2、岩倉が裏工作をして密勅発行→「偽勅説が有力だが」ともかく薩長は官軍の根拠を得た→討幕名分が消滅し政局は王政復古の大号令へと向かっていった です。
ShikiHさんの流れでも基本的には良いと思いますが、「偽勅についての説明」を最後に付加せず、時間的流れの中に組み込むべきだ、ということです。
一般に AだがB とすると Bが強調されます。ここでは「(偽勅説が有力だが)ともかく官軍を名乗る根拠を得た」という事なので 「偽勅についての説明」を最後に付加すると「偽勅」をより強調した構成になると思われるからです。
しかし、強調うんぬんを抜きにしても 時間的流れの中に組み込んだ方がシンプルで理解しやすいと考える次第であります。--きまま 2008年9月1日 (月) 17:00 (UTC)きまま
- ShikiHでございます。百科事典でどのような順序で記載するかにはいくつかの方法がございます。気ままさんのおっしゃるように時系列で各方法も1つです。そのように書かれた立派な記事がたくさんあります。編年体方式ですね。
- しかし百科事典は専門家が読むものではないので、一般読者を想定し、なるべくわかりやすくする使命もあります。つまり全部読んではじめてわかった、という記事よりは半分読んでだいたいわかったというように書いた方が良い場合も少なからずあります。討幕の密勅が偽勅でであるかどうかは、私の判断ではそんなに重要なことではないと思います。なぜならば本物だろうが、偽物だろうが、薩長はこれを旗印にしたと思われるからです。よって、まあ高校生あたりが読んだときには、あまり重要視することではなかろうと考えて、軽く扱う意味で最後に送りました。
- 実際の他の記事を見ることにしますが、、私の気に入ってる「川端康成」の記事の最後の部分は「だが、最後まで川端が特攻について語ることが無かったのが残念であったとし、杉山氏自身が著書を書き上げている。その著書にて川端氏の鹿屋での様子も描かれている。」であって「ガス自殺した」ではありません。
- 天智天皇」は「万葉集からも以下の一首。香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも褄を争ふらしき」とお歌で終わっています。
- ですから時系列に沿って書かなくてはないなんて言うことはありません。きままさんは歴史書を研究なさってるようですが、しょっちゅう時間が戻って書いてあるはず。
- しかしながらここでは時系列編年体がいいかもしれません。それでしたら気ままさんの要望は、今日の版、2006年10月2日 (月) 02:45の版 にほとんど近いんじゃありませんか。この版は私は気に入っています。これは教養のある書き慣れた人が書いてあることが解ります。文法、仮名遣い、送りがな、文章の構成ついて特に直すところが見あたりませんから、このままでいいと思っています。それでも気ままさんがなおしたければ、第3案を書いてください。喜んで拝見し、この後の研修に生かしてゆきたいと存じます。--ShikiH 2008年9月1日 (月) 19:51 (UTC)
お返事、有難うございます。
(我々3人が手を付ける以前の記事ということで止むを得ないかもしれませんが)2006年10月2日 (月) 02:45の版 は戻りすぎではないか、と考えています。
私個人の希望としては、(基本的に)編集合戦になる前の「2008年5月5日16:47版」です。 (括弧の有無、体言で終わるかどうか等)細かい部分は適宜、調整していけば良いと考えている次第です。
追申 私のハンドルネームはきままですので宜しくお願い申し上げます。細かいことで済みません。--きまま 2008年9月10日 (水) 20:49 (UTC)きまま
- SHikiHでございます。きままさんのお名前の誤記は、大変失礼いたしました。おゆるしくださいい。さて戻りすぎだとおっしゃるなら、ここで新しい版を示してください。つまり2008年5月5日16:47版を修正した版です。拝見したいと思います。お待ち申し上げます。彩華さんの意見もきかなくてはならないので、確定第3版案を示してください。--ShikiH 2008年9月11日 (木) 10:09 (UTC)
お返事、有難うございます。確定案を出して欲しい、ということであれば
「なるべく理解しやすく、なるべく正確に」をモットーとしたきままの修正案
討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に薩摩・長州両藩に下された江戸幕府討伐を命ずる秘密勅書。「賊臣・徳川慶喜討伐を命ずる」内容となっている。
日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日、長州藩に下されたものが10月14日。いずれも中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。
岩倉具視は(天皇の外祖父・中山忠能を自派に引き込むなど)倒幕派公卿と接触して密勅発行のため宮廷工作に奔走した。
因みに「起草は玉松操。薩摩藩宛は正親町三条実愛が、長州藩宛は中御門経之が書いた。裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に正親町三条実愛が述べている。
10月14日に正親町三条実愛邸にて大納言・正親町三条実愛が薩摩の小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)・大久保利通、長州・広沢真臣(計4人)に手渡した。
1.(明治)天皇および摂政(二条斉敬)の署名がない 2.署名した3人の名前の下に本来あるべき花押がない 3.天皇の外祖父・中山忠能が「密勅」に終始及び腰だった などの理由から偽勅説が有力であるが、いざという時に「薩長軍が官軍を名乗る」根拠となり得る文書と言える。
しかし、10月14日に徳川慶喜が大政奉還を上奏し、翌15日に(明治)天皇が上奏を勅許(受理)した為、討幕の名分が消滅。よって21日には薩長両藩に対して、討幕実行延期の沙汰書が下された。これを受け、討幕の名分を得る為 岩倉・大久保ら倒幕派は王政復古クーデターを画策することになる。
以上がきままの修正案です。主な出典は徳川慶喜・知れば知るほど(永岡慶之助)実業之日本社
「討幕密勅」の文章に「江戸幕府」(を討伐せよ)という文言はないが、通称「討幕の密勅」なので一般人が理解しやすいように「江戸幕府討伐を命ずる」秘密勅書 と記載。
「偽勅と言われている。その理由は~である」という(大変失礼で申し訳ないのですが)少し回りくどい表現より「~という理由から偽勅説が有力である」という表現の方がストレートで理解しやすいと思います。それに(~という理由から)「偽勅説が有力だが、官軍を名乗る根拠となり得る文書と言える」という一つの文章になっていないと意味が通じにくいと思います。
よって大変申し訳ありませんが「偽勅説が有力だが、官軍を名乗る根拠となり得る文書と言える」と表現すべきと考え「偽勅と言われている。その理由は~である」という表現には同意いたしかねます。
以上の文面を基本構成とし、(括弧の有無など)細かい部分は一つ一つ修正していけば良いと考える次第であります。--きまま 2008年9月14日 (日) 14:43 (UTC)きまま
ShikiHでございます。ご協力ありがとうございます。
細かい部分は後で修正すればよいと言うのには反対です。その細かい部分で論争が起きる可能性は十分あるからです。細かいところがすべて確定してから、本文に載せてください。
さて、全体を拝見したところ、次のことを指摘したいと思います。
- 偽勅説が有力であるが、いざという時に薩長軍が官軍を名乗る根拠となり得る文書と言える。の語順がどうしても良ければゆずります。
- 「賊臣・徳川慶喜討伐を命ずる」は括弧と文字修飾が重なるので、どちらからかにしてください。
- 岩倉具視は(天皇の外祖父・中山忠能を自派に引き込むなど)倒幕派公卿と接触しの括弧は無用です。ない方がずっといい。括弧の意味がわからないので、読むのにじゃまなだけです。
- 因みには消去してください。よい記事で、因みになんて書いてあるものはありません。
- (明治)天皇は、括弧の意味がわかりません。私はわかっていますが、記事は初めて読む人のために書くものです。明治天皇か天皇のいずれかにしてください。
- 「薩長軍が官軍を名乗る」では鉤括弧は不要です。
- 為、はどうしても漢字が良ければ、別に間違いなわけじゃないので譲ります。しかし現代語の表記としてはすべきでないと学校で教えますので、早晩、誰かが直しますからそのつもりで。
- 改行がずいぶんありますが、これはノートだからですよね?
- 現在記事になっている古い版の方が優れていると思います。
この前きままさんが提案なさった2008年5月5日16:47版ですが、よく見ると彩華さんが1回も編集してない版ですよね。つまり、彩華さんの意見は取り入れたくないと言うことですか? もし私が彩華さんなら、かなり腹を立てるでしょう。彩華さんの同意がないと編集できないんですから、あんまり無茶なことはおっしゃらないでいただきたい。--ShikiH 2008年9月14日 (日) 16:22 (UTC)
遅くなりましたが、御回答いたします。
細かい部分は後で修正すればよいと言うのには反対です。その細かい部分で論争が起きる可能性は十分あるからです。細かいところがすべて確定してから、本文に載せてください。
いきなり全合意を目指すのは無理があると思います。まず基本合意(大筋で合意)をして、その後(議論しながらでも)小合意を積み重ねていくのが良いと 思う次第です。
この前きままさんが提案なさった2008年5月5日16:47版ですが、よく見ると彩華さんが1回も編集してない版ですよね。つまり、彩華さんの意見は取り入れたくないと言うことですか? もし私が彩華さんなら、かなり腹を立てるでしょう。彩華さんの同意がないと編集できないんですから、あんまり無茶なことはおっしゃらないでいただきたい。
(誰それが編集してるかどうかというより)編集合戦になる直前である「2008年5月5日16:47版」が良いと思った次第です。 別に「彩華さんの意見を取り入れたくない」ということではないです。小合意を積み重ねていく中で彩華さんの意見を取り入れていく、という感じで良いのではないか、と思います。
読むのにじゃまなだけです んー、語調が少し強すぎると思います。言葉遣いにはお互いに気を付けて行きましょう!--きまま 2008年9月25日 (木) 14:07 (UTC)きまま
- ShikiHでございます。おひさしぶりです。さて
>(誰それが編集してるかどうかというより)編集合戦になる直前である「2008年5月5日16:47版」が良いと思った次第です。
については、いかがなものでしょうか。編集合戦直前の版とはすなわち、編集合戦の原因となった版ということではありませんか? それでは元の編集合戦が繰り返される危険性があります。
>読むのにじゃまなだけです
はまあちょっと言い方がきついとは思いますが、私と同じように感じる人が少なくないことも事実でしょう。きっときままさんは、括弧の使い方でたくさんの修正を受けていると思いますが、なぜそこまでして普通の文章の何倍もの括弧を使うのか? 教えていただきたいと思います。括弧を多用するように文章を書くように教えた指導者がいるのか、是非知りたく思います。
さらに彩華さんはこの議論にもう加わってきませんね。まあ、当たり前かと思います。--ShikiH 2008年9月25日 (木) 17:26 (UTC)