ノート:諸葛亮/過去ログ1
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「牧豎小人」について
2004年12月20日(月)22:06の更新についての説明ですが、孫権が言った「牧豎小人」は楊儀だけでなく魏延にも言ってるのであって、これはおかしいと考え、コメントアウトしました。魏延が名将かどうかはともかく。らりた 2004年12月20日 (月) 13:11 (UTC)
- コメントアウトした部分が復活されましたが、孫権の「牧豎小人」は『三国志董允伝』の裴松之による「襄陽記曰く」の部分に「楊儀﹑魏 延,牧豎小人也」とあるのが元(参照)で、『演義』はここから持っていったものです。また「諸葛亮は楊儀の才幹も魏延の驍勇も愛していたので、二人が不仲なのを深く惜しんだ」(『楊儀伝』参照)ともありますし、楊儀を重用して魏延を嫌ったと言う話がむしろ演義からの影響のように思えるのですが。どちらにせよ、ここは諸葛亮の項であり、楊儀と魏延の評価についてはそれぞれの項に任せるべきではないでしょうか?諸葛亮の人を見る目については馬謖と李厳の話だけで十分なような気がします。とりあえず当該部分についてはしばらく私はいじりません。らりた 2005年1月13日 (木) 08:17 (UTC)
一部追記。 梯子を下ろして話し合ったあたりの件、冷静に考えるとおかしいと思いませんか。 この辺は正史の本質を捉えていないと足元を救われる部分ですよ。 2006年5月6日
『三国志』の全ての記述が信用できるなどとは言いませんが、疑う理由もこれと言ってないと思いますが。その時点では密談でありますが、事が終わった後、劉表が死んだ後で劉キないし諸葛亮がこのことを誰かに喋ったとしてもなんら不思議は無いと思います。らりた 2006年5月6日 (土) 13:13 (UTC) P.S.それと「創作などで埋めて良いという決まり」なんて存在しませんよ。らりた 2006年5月6日 (土) 13:14 (UTC)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480036032/249-4208304-9904360 創作などに関してはこちらの本を参照としています。歴史家は本筋に逸脱しない程度ならば、ある程度の創作は許されています。 というか密談であったのにあまりに例示だとかが詳細すぎて、信用に足る記事には見えないのが正直な理由なんですが。
- 繰り返しますが、創作は許されていません。もちろん創作で埋めた歴史家も多数居るでしょうけど、少なくとも建前上はそのようなことが非難される事柄であることは間違いありません。
- 密談に関しても、陰謀を行ったとかそういう内容であるのならば(例えば秦二世皇帝の即位のときの密談とか)ともかく、この密談の内容ならば事後に劉キ・諸葛亮がその内容を誰かに語ったとしてもなんら不思議なことではありません。であるのでそれが後世に記事として残ることも不思議はありません(だからと言ってこれが100%絶対の史実であると言っているわけではありません。積極的に疑う十分な理由はこれと言ってないといっているわけです。)らりた 2006年5月8日 (月) 12:12 (UTC)
諸葛懐と諸葛果についてですが、この名前が記載されてるのは『襄陽記』ではなく清の張ジュ(漢字が日本にないです。『樹』が木編ではなくてさんずい)編の『諸葛忠武侯文集』の方じゃないかと思います。この本が信用できるかどうかは別にして、一応そう言う伝説があるということで。本文に書くべきかどうかは判断しかねるのでノートにのみ。
「劉備の蜀建国を助け」
冒頭の「劉備の蜀建国を助け」は変更前の、「劉備・劉禅父子の創業を助け」の方が適当かと思います(厳密には、「劉備の創業を助け、その子の劉禅を丞相としてよく補佐した」の方が)。そう考える理由は二点あります。「蜀の建国者である劉備の蜀建国を助け」というのは少し冗長に感じる、というのが一点。もう一点は、以前の版の「創業」は「(蜀漢の)建国」だけを指すものではなく、「荊州時代から劉備が死ぬまで」の「諸葛亮が助けたこと」を指しているのではないか、ということです(細かい話なので如何でも良いことなんですが)。... Kanoe 2006年5月7日 (日) 12:16 (UTC)
錦戸亮のニックネーム
諸葛亮孔明に因んで一部で「ジャニーズの孔明」といわれる。 --以上の署名の無いコメントは、218.46.4.194(会話/Whois IPv4 ・ IPv6)さんが 2006年12月15日 (金) 11:39 (UTC) に投稿したものです。
諱・字の連結表記に付いて
は字の項でやった方がいいと思いますが?少なくともこんな瑣末な話題を冒頭の概要の部分におかないで下さい。らりた 2007年4月7日 (土) 23:44 (UTC)
独自研究の書き込みを避けてください
「評価」節などで、いくつかの文献の記述を組み合わせて「~と思われる」という、書き手独自の解釈を披露した部分がありましたので削除いたしました。Wikipedia:独自研究は載せないの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」節をご一読ください。--Peachkiller 2009年3月2日 (月) 23:24 (UTC)
劉表の後継者問題に関する項目中「三国志」に見られない「激しい後継者争い」や「有志の信頼を失った」等の個人的感想、及び北伐・街亭戦に関する引用から逸脱した独自研究を削除しました。--220.104.202.194 2010年12月23日 (木) 14:07 (UTC)
- その理由(独自研究)に従い、「第一級の人物が多かった」などの個人的感想が書かれた「人物登用」の節を削除しました。諸葛亮が登用した人物には、ほかにも劉巴・蒋琬・費禕・董允・姜維など多くの人がいます。彼らを除去するのでは、記述の公平(中立性)がとれなでしょうし、それらを一々あげていてはきりがないという理由もあります。--Joffed 2010年12月23日 (木) 23:45 (UTC)
劉巴・姜維は諸葛亮が引き上げた人物ではないですし、第一級の人物とは「天下の良才」「股肱の臣」「先主による後事の委託」を一まとめに省略しただけの事で独自研究という主張は無理がある。ただまあ、権力掌握の過程とそれに係わる人物評価という曖昧な事柄ですので削除した方が正解かもしれません。 ただし、馬謖・向寵に関しては事績がはっきりしているうえ、陳寿その他の政治は超一級だが軍事は不得手という評価の裏付けにもなるので、削除は誤りですね。わざわざ項目を立てると面白くないでしょうから、別の項目に加えておきます。 --163.139.164.106 2010年12月24日 (金) 08:41 (UTC)
- その、「評価の裏付けにもなる」という解釈自体が、独自研究ですよ。「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」というやつです。陳寿評を「政治は超一級だが軍事は~」と解釈しているのも議論が分かれますし、「裏づけになる」として編集者自身が解釈していることに関しても意見が分かれるでしょう。問題の箇所は「取り立てた人物は失敗し、優れた人物を退けている人物である」という結論ありきの、非常に偏った意見です。そもそも誰の意見かわからないものを、記述として成立させることには反対です。研究者なり、本なりでそのように書いているというのであればそれを引用する形で補うべきであり、独自の個人的な観測を差し挟むのはとても百科事典的ではありません。--Geso 2010年12月24日 (金) 09:02 (UTC)
- 諸葛亮伝に書かれた陳寿の評は簡明で独自解釈の余地は無く、実際にも陳寿評を政治一流軍事不得手、以外に解釈した書籍を見た事が無い。 陳寿や後代批評家が与えた評価の裏付けとして、三国志の伝を引用しただけであり、引用の羅列を見て「非常に偏った」と感じたとすれば、それは非常に強い先入観故に「ある種の感情」を抱いたためでしょう。歴史家が為した論評の裏付けに当該する三国志の伝を引用しただけですから研究の入る余地など何所にも在りませんが、伝に明記されていない魏延・趙雲への言及に関しては、或は読み手に解釈の余地を与えるかもしれませんね。--220.104.202.194 2010年12月24日 (金) 11:43 (UTC)
なれば、陳寿評を載せれば(というか、「人材登用」という新しい節を設けて論じるのではなく、「評価」の節に則ればいいのですが)よく、このことが裏付けているという情報の取捨が妥当ではないと考えます。人材登用の眼力については、少なくとも陳寿は何も言っていません。勿論そういった一級の識者の論を併記すればよく、ノーソースで書いて「この事実は陳寿の言ったとおり」だとしてしまう行為は持説の披瀝と変わらなくなります。--Geso 2010年12月24日 (金) 12:55 (UTC)
- Gesoさんのおっしゃるとおり、陳寿の評価が明白ならばそれだけを書けば十分であり、根拠に基づかない記述はかえって蛇足というものです。
- 本来ならばGesoさんの言われる理由だけで十分なのですが、さらに念のため言えば、「向寵伝」などが引用する諸葛亮の「出師の表」を丁寧に読めば、向寵の戦死は諸葛亮の評価の裏付けにはならないことが分かります。
- (原文)
- “將軍向寵……試用於昔,先帝稱之曰能,是以衆論舉寵為督。愚以為營中之事,悉以咨之,必能使行陳和睦,優劣得所也。”
- (訳文)
- 「将軍向寵は……以前試しに用いられたところ、先帝は有能と評価なさいました。そこで衆議によって向寵を司令官に推挙したのです。おもんみまするに、軍中のことについては、すべて彼に諮られますなら、必ずや陣営の空気を和やかにし、優劣に応じた人材配置がなされるでありましょう。」(訳は角川書店『鑑賞中国の古典12 文選』の興膳宏による)
- 太字の強調部分にあるように、第一に、向寵を評価して抜擢したのは劉備や衆論によるものであったということです。第二に、諸葛亮が彼に期待していたのは「近衛府の組織運営を円滑にすることと、そこの人事面で業績をあげる」ということで、実戦面に関しては言及していません(もっとも夷陵の戦いの時、指揮した軍営が無傷だったという列伝の記述からすれば、実戦指揮官としてまるきり無能とも言えないでしょう)。さらに言えば、向寵が出征して戦死したのは、諸葛亮の死後6年のことであり、当然、諸葛亮は直接関与することは不可能です。これらのことからも、220.104.202.194 さんの期待する裏付けとなるようなものはここにはないといえます。--Joffed 2010年12月24日 (金) 15:45 (UTC)
- 220.104.202.194氏や163.139.164.106氏の言われる通り、また原文の字句から判断すれば解るように、先主は有能と評しただけであり、衆論と称し将軍に任命したのは諸葛亮その人ですよ。 もちろん馬謖が南中征伐に於いて有益な献策を為した様に、一代で最高指導者にまで駆け登った程の政治家が全く無能な臣民に眼を掛ける筈はなく、向寵にも馬謖同様評価に値する何かを見たのでしょう。とはいえ異民族の反乱鎮圧に主導的に赴いて敗死するのは異例(三国志中、主導的に動ける状態で夷狄の反乱鎮圧へ出向き敗死した人物を知らない)で、他に武功が伝わらない以上は当該記録のみ引用するのは当然のこと、また出征し得る役職へ就けたのは他の誰でもなく諸葛亮であり、しかし文官の登用に於いては瑕疵が見られない事から、人物鑑定眼がお粗末なのではなく軍事が不得手という評の実例と言える。 そして、この引用は読み手が陳寿その他の評を理解する上で有益かつ説得力のある材料となるでしょう。--赤雲斗 2010年12月25日 (土) 09:26 (UTC)
- ですから、そういう主張自体が独自研究なのです。Gesoさんが前の方の記述で仰っている「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」というものです。ここで述べられているように「『新たな叙述あるいは歴史解釈』を生む典型」に抵触していると言っているのです。あなたと同様の主張をだれかしかるべき研究者の著作などで確認できるのですか?できるのならば(例えば馬謖の例に関する習鑿歯の批判のように)それを引用してほしい、それができないのであれば、独自研究でしかないとGesoさんも私も言っているのですよ。先にも「本来ならばGesoさんの言われる理由だけで十分なのですが」といっているのをよくご覧になってください、重要な点はそこであって、向寵に関することは「念のためいえば~」といっているように、ついでのことにすぎないんですよ。
- その「ついでのこと」に関してもついでに反論しておきます。
- 先主は有能と評しただけであり、衆論と称し将軍に任命したのは諸葛亮その人ですよ。
- 原文の「是以」という接続詞をご覧ください、これは前後の「因果関係」を示す接続詞(だから~、このため~)ですよ。つまりこの文の構造は明らかに「原因・理由(劉備の評価)」と「結果(衆論が向寵を中部督にすることに決めた)」がつながっている関係を示しています。それにその後は「愚以為~(わたしは思いますに~)」となっていて、やはり文の構造上、「~舉寵為督」という事柄と「愚以為~」という諸葛亮の意見の間で前後が切れているのが分かります。このように、あなたのような「衆論と称し将軍に任命したのは諸葛亮(衆論=諸葛亮)」みたいな解釈は、構文上からいって無理なのです。
- 他に武功が伝わらない以上は当該記録のみ引用するのは当然のこと
- 向寵の列伝をきちんと読んでください。夷陵の戦いで牙門将として戦いに参加し、敗戦の中、彼の軍営だけが全うできたという記述があります。「他に武功が伝わらない」なんてことがどうして言えるのですか。--Joffed 2010年12月25日 (土) 13:09 (UTC)
私も赤雲斗氏と同じく何故頑なに引用を拒むのか理解に苦しみます。陳寿その他歴史家の評は特定の観点ではありませんし、歴史書に書かれた評価を裏打ちする歴史的事実の引用は、伝末の評という史家の「主張」を強化する以外の効果は無いでしょう。私個人の主張など存在せず、情報の合成でも無く、何を以て独自研究と思ったか些か疑問があります。 次に、原文の「是以」にあなたの主張する煩雑かつ広範な効力など無く、それこそ「独自研究」実際はただの接続詞です。
- また、向寵に関する全文を読めば明確に書かれていますが「衆論舉寵為"督"」されたのは劉備死後の出来事で、諸葛亮以外にその様な人事権を持つ人間は後主以外居ません。言いたい事解りますね?独自の漢文解釈は独自研究です、止めましょう。 文が別れているのは、単に諸葛亮が向寵を中部督に任命した事実と後主への忠言が別の文脈だからです。独自読み下しは止めましょう
最後に、秭帰の敗戦では「無傷だった」とのみ書かれ、街亭の敗戦へ言及する王平や趙雲の伝にあるような戦いの記述は一言も無いので、戦わずして武功を挙げたと考えるのは困難でしょう。--220.104.202.194 2010年12月25日 (土) 18:14 (UTC)
- 同じことの繰り返しになりますが、まず第一に「陳寿評の主張の補強なら、『評価』でやるべきで『人材登用』という新しい節を新たに設けている意味がわからない」、第二に「陳寿評に、陳寿自身が言及していない事実を『裏づけ』なるものとして(編集者が解釈して)当てはめている行為自体が独自研究ではないか」、第三に「同様の意見を持ったその他史家、研究者や識者の言及などを以って充てればいいのに、何故それを行わないのか」と、これだけの疑問が存在します。「評価の内容」自体に私は賛意も反対もありません。陳寿評にケチをつけているのではなく、言及していない事実をもって「裏づけ」だとする「解釈」が独自研究だということです。--Geso 2010年12月26日 (日) 03:19 (UTC)
- 確かに『人材登用』の項目を立てるのは百科事典的ではなく拙いやり方でした、というか最初の方でJoffed氏の批判を受け早々に『評価』の項へ移しております。--220.104.202.194 2010年12月26日 (日) 21:20 (UTC)