ノート:過剰性能/過去ログ1

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関連項目の「スリップ」ってなんですか?Hykw-a4 2005年3月4日 (金) 02:48 (UTC)

すみません…本文書いていて、関連項目に付け足すのに適切な項を使い切ってしまったので、つい「自動車エンジン過剰性能+ノーマルタイヤ→タイヤが空回り(スリップ)」という連想で苦し紛れに付け足してしまいました。不要だと思われる場合は削って構いません。夜飛 2005年3月5日 (土) 05:46 (UTC)

過剰性能の例としては不適切では?

過剰性能の例として京急700形電車が挙がっていますが、この電車は当初通りの2M1Tでも並の性能(同社1000形と同等)のため、お世辞にも『過剰性能』とは呼べないと思うのですが? むしろ単なる設計ミス、または運用ミスによる失敗作に過ぎないのではないでしょうか。

同様に(但し700形電車ほどではないですが)、国鉄201系電車やJR東日本215系電車も『過剰性能』と呼ぶには少々お寂しい性能・設備で、これらも設計ミス(201系)や運用ミス(215系)に属する失敗に思えます。

最新型のパソコンが『過剰性能気味』であることは理解できますが、同項の陳腐化以降の記述は『過剰性能』とは直接関係のない問題ではないでしょうか。そもそも、3~5年で陳腐化する程度の高性能さであれば『過剰性能』には当たらない・・・少なくとも『過剰性能の例』としては適切ではない・・・とも思えます。

以上、編集前にご意見を頂きたく。Marantz7 2007年1月9日 (火) 10:03 (UTC)

電車のことは判りませんが、パソコンの項に関しては常々違和感を抱いていました。ただ、本日小生の追記分で「(業界側の)そういった楽観的見通しとは裏腹の、ユーザー側に存在する(過剰性能とみなして買い換えない)層」の存在を挙げての社会問題なども絡めるなど風呂敷を広げてみました。その枕としてなら件の記述も「過剰性能ぎみな昨今の最新パソコン」をより強化する意味で説明中に残す意義がある(ダイエットは必要かも)と思います。--夜飛 2007年1月9日 (火) 10:58 (UTC)
ああ、すいません。空目してた…。Marantz7さんの言われているのは小生の追記部分のみに関してですか。小生としては本日記述分で途中改行を挿んだ「パソコンメーカはコンシューマ市場からPCサーバ市場へ」のくだり以降が元々、説明の一文としては主点をぐらつかせて全体の違和感を醸していたと思います。そういう意味で論説を2軸化して今回の追記分を加えて、双方で論が回るようにした訳ですが…そういう意味では、旧記事には論の軸が1.5軸しかなく纏まりに欠けていたと思い、ソフトウェアの肥大による陳腐化自体は先に述べている文章に収斂される性質の記述を無理に膨らませていたに過ぎず、2軸化することで文章的に冗長にはなっているかとは思いますが、それは陳腐化云々の記述を生かすためには必要と考えています。--夜飛 2007年1月9日 (火) 12:24 (UTC)

過剰性能の例の整理

暫らくの間、特に手をつけていなかったんですが、過剰性能の例である程度適切なのから、ちょっと脱線ぎみなのとか、記述者自身の(偏った)愛着の延長にありそうなものとか、なんか無理矢理突っ込んで見ました的なのとか、「例」として冗長で説明になってない部分が増えてまいりました。ここらで一端、掃除…といってはせっかく書いていただいた方には申し訳ないのですが、取捨選択を行いたく思います。まずいったん、脱線ぎみなのとか主観的ないし無関係はコメントアウト、異論が無ければ除去という流れを取りたいと思います。以下にコメントアウトしたものを列挙します。意見などはリスト中ないし文末にでもお願いします。

  • メルセデスベンツ
    • そもそも、過剰性能ではなく「過剰品質」などという脱線気味記述の元になってしまった記述。高級でさえあれば過剰品質になってしまい、それでは収拾が付かない(夜飛/
  • スズキ・GS1000
    • 過剰品質シリーズその1。(夜飛/
  • カワサキRS900/750[Z1/Z2]
    • 過剰品質シリーズその2。記述もファン視点で非百科事典的ぎみ。(夜飛/
    • 新しい投稿分はファン的な心情は一切入れずに[事実ファンではありませんし]、過剰品質[初出は英語でオーバークオリティ。過剰性能]の例を出すときは自動車業界では多くの賛同を得られる事例であるので投稿しました。実際に使える言葉・事例であるので辞書として間違っては無いと思いますが。(Libyanlynx 2007年10月2日 (火) 10:23 (UTC))
      • 2度目の文章もコメントアウトしたのは、本項で扱っているのは過剰性能(オーバースペック)ですので、過剰品質(オーバークオリティ)を扱うのは無理があるという判断です。また「非常に贅沢」など客観性の無い表現も気になるところです(ほかにもあるけど、そこだけ直せば良いと言う問題でもありません)。企業戦略として過剰性能でアピールしたり、過剰品質で他社製品に差をつける(差別化)という方向性も妥当な経営手段でもありますが、こと品質(素材と加工精度?)に至っては上げるほどに(全体的なコストが上がるが)熱心な愛好者層に受け入れられる性質のものでもあるし、装置全体の一部だけを突出させた性能を目指してしまった(結果アンバランスになる)過剰性能とは、性質が違うと思います。--夜飛/ 2007年10月2日 (火) 10:48 (UTC)
    • う~ん?この場合の性能と品質に私個人は明確な差を私は見つけられませんが、ホストが違うと言うなら、まあそれで折り合いを付けた方が中道路線を取るこの国の主義に即しているのかもしれませんから、この件に関してはMCさんに丸投げでお任せいたします(Libyanlynx 2007年10月2日 (火) 13:55 (UTC)) 。アディオスアミーゴd(^_^o)。
      • うーん、何と言うか…そりゃ部品精度や素材の品質を上げれば、確かに同一設計の装置なら品質の高いほうが全般的に性能は向上しますが、スペックといったら設計段階である程度は決定されるものであって、品質は現場レベルの生産管理・品質管理が最終的に決定するものでもあるし。それに設計からしてそもそも違う過剰性能と、部品の加工精度や素材のレベルが問われる過剰品質をそもそも同列に扱うってのが…なんとも。あと、自身が納得しない・理解していない事象を、ただ(面倒臭いから)折れる・回避するというのは、中道とは違います。製造管理とか設計とかを無視して、出来上がった製品を享受するだけという視点では、同じことに見えるのかなあ…(悩)。--夜飛/ 2007年10月2日 (火) 16:04 (UTC)
  • 500系新幹線
    • やや鉄道ファンの視点に傾いているきらいがある。もう少し整理すればよさそうだが、現在進行形の置き換えがあるかどうかも予測の域で、事態が決着付くまでコメントアウトのままで。(夜飛/
    • 確かに、次世代の700系では最高速度285km/hに後退していますが、300km/h運転は現行世代のN700系でも行われていますし、その性能自体が過剰であったわけではないように思います。使いにくさについては、そのとおりなのですが、過剰性能とは別の問題でしょう。--Kone 2007年10月2日 (火) 11:09 (UTC)
  • JR東日本E351系電車
    • 同上(夜飛/
    • 製造時点ですでに確立されている技術で製作されており、性能が過剰という訳ではないと思います。ただし、JR東日本の検修陣の手に余ったという点では、過剰装備であったということも言えなくもないですね。--Kone 2007年10月2日 (火) 11:09 (UTC)
  • JR東日本215系電車
    • 同上(夜飛/
    • 座席数の増加を至上命題にし、それを突き詰めたあまりにその他の部分でひずみが出てしまった例ですが、きちんと本来の使用目的には合致して使用されており、過剰という訳ではなさそうです。--Kone 2007年10月2日 (火) 11:09 (UTC)
  • PC-H98シリーズ
    • 以前にコメントアウトになっていた部分。説明不足。(夜飛/
  • X68000
    • 同上。こちらは市場に受け入れられているし、ホビーパソコンの場合は性能の高さで夢を売るのが商売なので、唯一客観的な指標は「売れたか、売れなかったか」かも?(夜飛/
  • プレイステーション3
    • Wikipediaで独自研究を発表すべきではない。現在進行形で評価も変化中の事象。(夜飛/
  • 44マグナム
    • 言わんとしていることは判らないでもないが、架空のキャラクターを説明に持ってくる時点で意味不明に。(夜飛/

コメント欄

  • 上に挙げたのは、とりあえず目に付いたものですが、それ以外にあれば理由を挙げて追加お願いします。提案者としては、2007年11月頭までコメントアウトのままでノート上で残す・残さないの意見を待ち、特に妥当な存続意見や改善策の出ないものから順次削りたく思っています。--夜飛/ 2007年10月2日 (火) 03:46 (UTC)
  • Koneさん、解説ありがとうございます。鉄道系のコメントアウトした部分は「過剰性能の例」という側面から逸脱していて全滅…という理解で宜しいでしょうか。--夜飛/ 2007年10月2日 (火) 11:28 (UTC)
  • 現在行われている試みに疑問。列記された例をみて問題意識を持つのは当然であるが、この場で主観による主張の刷り合わせを試みたところで、結局のところその決定は主観であり、残念ながら無意味かと。個人的には、実例の列挙自体を避けるべきと考える。そもそも、「過剰性能」とは記事として成立するような確立された事象(用語)なのだろうか--306E 2007年10月3日 (水) 09:56 (UTC)
    • (Res.)過剰性能という語に関しては「一般化された工業関連用語」といった程度でしょうね。設計や製作の段階で、求められる以上の性能を持つ製品が存在し、その性能を形容する上で使われる表現って意味で。なおやや主観含みで羅列される傾向もある「例」なのですが、程度ってものがあります。「例」と示すからには、その特徴が顕著でなくてはいけない。しかるにそのテーマから逸脱したり、どう見ても何らかの枠の例として示すには他の例の水準と照らし特記に値しないものを省きましょうっていうのが、今回この問題提起を行った理由です。まあ例を示すことをせずともテーマ自体は説明可能ですが、より身近ないし具体的な例を挙げて説明することで読者にイメージさせ易いってのはありますから、無理に削るまでもないとは思いますが…とりあえず306Eさんの意見としては「例は全て削ってしまうべきだ」ということで宜しいですか?--夜飛/ 2007年10月3日 (水) 10:37 (UTC)
      • では逆に、現状の記事中に「”過剰性能”を説明するのに最も適切な実例」があるだろうか。あるとすれば、どれだろう--306E 2007年10月3日 (水) 19:02 (UTC)
        • …意思確認のための質問に質問でかえされちゃったしぃ orz。と、それはさておき、「適切な例」は幾つかあっても、「最も」なんていうのはありえません。最終的に読者の主観に於いて「最も解り易かった例」はあっても、それを前もって判じることは無理。記述者としてはテーマに沿った「適切な例」だけを厳選して並べ、後は読者に選ばせるだけ。その点で、脱線気味の例なんか並べても読者を混乱させるだけなので、取捨選択が必要と考えます。--夜飛/ 2007年10月4日 (木) 03:36 (UTC)
  • 提案から1ヶ月以上経過した訳ですが、コメントアウト部分に関して特に残すべきとして結論が出たものはありませんでしたので、一通り除去します。それ以外の除去に関しては、本提案を延長する形ででも、新たに再提案されても構いません。--夜飛/ 2007年11月4日 (日) 11:07 (UTC)
2007年10月4日 (木) 07:22 (UTC) における306E氏の御意見に賛成します。この記事の存在意義はなんでしょうか。この記事は、夜飛氏(利用者:Yatobi)が無駄だと思っているもののリストに過ぎないのではないでしょうか。例えば、コンコルド。採算があわなかったということは明らかではありますが、音速の2倍で飛ぶ旅客機が「過剰性能」であったかどうかは、明言することは難しいと思います。高級自動車についてのYatobi氏のエッセイは、読んでいる方が恥ずかしくなってきます。Yatobi氏は、例えばボールペンの替わりに万年筆をお使いになるとか、ぜいたくをなさったことがないのでしょうか? 誰も得しない単なる無駄と贅沢を混同していらっしゃる。人さまの贅沢を無駄(=過剰性能)と切り捨てることの傲満さに気がついていらっしゃらない。見苦しいですよ。--アルルカン 2009年7月29日 (水) 09:31 (UTC)
(インデント戻し)過剰性能という性質を鑑みた場合、「工学的にアンバランス」ないし「ニーズに沿わない」の2つの側面があり、こと後者にいたってはアルルカンさんご指摘の通り「それに価値を見出す側も居る」ため、必ずしも無駄とはいえません。しかしそれを「製品(商品)」としてみた場合、ワンオフ品では無い以上は、採算を取る上で「ある程度は売れなきゃ話にならない」訳で、そこに「市場全体を俯瞰した場合に見積もられるニーズ」の量的な問題にも絡み、採算ベースに乗るか否かと言う判断も働きます。まあ、ワンオフ品ないし工芸品の類で、例えどんなにコストが掛かり価格が高かろうと、購入者がそれで満足ならその購入者自身にとっては「過剰性能」ではないんですけどね。そこの辺りは区別したほうがいいでしょう。贅沢と言う観点もどうかと思います。真に必要なら、それは贅沢とは言いませんので。以上、記事がどうとか言う以前でありましたが、見解として申し上げておきます。--夜飛/ 2009年7月29日 (水) 09:50 (UTC)
いまさらのコメントになってしまいますが、過剰性能の定義は、「利用者が求める」でなく「使用目的に対して」だと思います。利用者→一般人と連想することで、あたかも絶対的な評価としての過剰性能があるように考えるのは間違いで、使用目的を設定しなければ意味をなしません。例えば、スーパーに買い物に行くだけの目的に対しては、ベンツSクラスは明らかにオーバースペックでしょうが、目的が異なればそうではないこともあります。--rs1421 2009年7月29日 (水) 11:20 (UTC)
そうですね、最終的には「利用目的」があると思います。ただ、その利用目的を満たす前提としてその工業製品を所有する必要があり、そこは「利用者のニーズ」と置き換えても大意は違わないかもしれません。もっとも、その利用者を一般人(大衆?)と限定する必要は無いことには異論はありませんが。その一方で、上にアルルカンさんの意見として示されているところとしての「スーパーカー(云々)」に関しては、スーパーカーがモータースポーツ向け競技用車両ではなく乗用車として販売されていることを無視すべきでは無いとも考えています(これは記事中に言及されても居ますが)。ちょっと思うところもあって表現レベルを補正しますが、それがどんな販売チャンネルで市場に出ているかも注目したいところです。--夜飛/ 2009年7月29日 (水) 12:12 (UTC)

艦船の例について

とりあえずコメントアウトしました。他の例もそうなのですが一番の問題は

  • 出典が明示されていない。

つまり、どこそこの文献にオーバースペックだと出ていた。というのがない限り全て独自研究でしかありません。艦船以外は私の専門外なのでとりあえず「大和」と「島風」については以下に書きます。利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態という定義と照らしてみると、利用者(日本海軍)が求めた物が正にそれであり、更に高い性能を持っている訳ではありません。例えば46cmの主砲を求めたら50cm砲が完成したとかならオーバースペックと言えるでしょうがそんな訳ではないです。「大和」に関しては時代に取り残されたとは言えるでしょうが、決してオーバースペックな訳ではないでしょう。また「島風」の例ですが同様に海軍の要求性能から大幅にオーバーしたわけではないです。また「他艦との足並みをそろえる~」と書いてありますが、実際に高速を出すのは敵と遭遇した場合のみであって、通常の艦隊運動で常時40ノット出している訳ではなく、巡航速度は他の艦艇と同じ18ノットです。--夏の雪雲 2008年3月10日 (月) 13:18 (UTC)

おっしゃるとおりです。本文に、出典の明示を求めるテンプレートを付けておきます。--アルルカン 2009年7月29日 (水) 09:46 (UTC)

国鉄201系電車

この記事の内容については、問題点が多々あると思いますが、少しずつ整理していきたいと思います。

国鉄201系電車ですが、これに関する記述は、2006年9月15日(金)11:08に、59.157.3.125というIPユーザーによって書かれた記事が、ほぼそのまま残っているようです。で、現在の文章において「減価償却がなかなか進まず」とありますが、減価償却は予め年数が決められており、高い車輌だから長くかかるということは無いハズです。また、ムダに高価だったため、置換まで時間がかかったかのような記述がありますが、JR東日本の施策としては、より古い国鉄103系電車の置換えがほぼ完了した半年後から廃車が始まっています(事故車・試作車を除く)。ですので、置換自体は順々な流れであり、車輌価格が高かったから置換が遅れたという様子はありません。ですので、その二点は削除が妥当と思います。

で、その上で検討しますと、「高価であった(量産しても価格が下がらなかった)」ことと、「性能が過剰であった」ことは同じ意味ではないハズです。201系の性能が、使用方法と比較して過剰だったとは思いません。この記事における論点は、あくまで「性能の過剰」であり、「投資の過剰」では無いはずです。

したがいまして、国鉄201系電車に関する部分は、全て削除が妥当と考えます。異論が無ければ、二週間程度で削除したいと思いますので、御意見のある方は、早めに御発言願います。L25.203.l03.26 2008年11月1日 (土) 12:57 (UTC)

読み返してみましたが、車体が高価であったことと減価償却が進まなかったこと、そしてそれが計画されたものであったか否かという部分で、「過剰である」とみなす特定視点に誘導的になっている独自研究的な記述ですね。上の「JR東日本E351系電車」における過剰装備てきな面はあったかもしれませんが、過剰性能とは関係ないか。例として不適切だと感じます。--夜飛/ 2008年11月2日 (日) 04:56 (UTC)

コメントありがとうございます。特に異論が出ませんでしたので、「国鉄201系電車」については全て削除いたしました。引き続き、「国鉄101系電車」についても、「過剰性能」という項目で扱うのが妥当かどうか検討したいと思います。個人的には、101系は「性能不足」という面に対する印象が強いです。また、この記事全般として、単に性能の過剰さを書くのか、費用対効果が割に合わなかった場合も過剰性能と判断するのか、あるいは、ガスタービン車のように実用化に難があったものも取り上げるのか、どういったコンセプトなのか、理解しかねています。冒頭の文章を見ますと、基本的には「不要な高性能」という意味合いのようですので、「高価」や「実用性困難」は、記事の対象外と考えられます。そうしますと、101系のオールM編成は、「高価」および「(電力事情による)実用性困難」が問題点と思われますので、「不要な高性能」とは違うと思います。また、キハ391は試作車であり、それをこの記事で取り上げるのは、ナンセンスだと思うのですが、如何でしょうか。特に異論が出なければ、この2つの項目も、追って削除したいと思います。L25.203.l03.26 2008年11月14日 (金) 13:18 (UTC)

鉄道関連は詳しくないので電車の性質は抜きに判断しますが、101系はちょっと何処が「過剰性能」判じがたくなっている部分があると思います。電力不足を招くほどだったという意味ではインフラの程度から逸脱して過剰…な電力消費だったのでしょうが、性能面では微妙な気が。キハ309試作車に関しては、試作であったかどうかは余り関係がなく、意欲的な新技術導入車両であった半面、関連する技術の円熟が追いつかず頓挫した(?)という意味で、過剰だったのかも知れず、これは他の方の見解も伺いたいところです。--夜飛/ 2008年11月14日 (金) 14:41 (UTC)
101系に関しては、本来これだけの性能で運転したかったので、その性能の電車を作った。それを実際に走らせてみたら設備面(例えば架線の温度上昇や変電所容量など)がその電車を走らせるレベルになく、仕方なく電車の方の性能を落としていったという話です。
となると、101系が過剰性能というわけではなく、当時の設備が過少設備であった話で、この記事に取り上げるのは少しおかしいと思います。
過大か過小かは、使用者が何を求めたかですから、そのあたりを良く見ていかないと多くの事例で過剰性能となりうるものがあります。
飛行機などは二重系統になっているモノも多いですが、それなども言ってみれば過剰性能です。普段使う事の無い設備を搭載してるわけですから。ただ、なぜそれがあるのかという理由がわかれば過剰とは誰も言わないでしょう。
要は単純に必要な性能と持ってる性能を比較するだけではおかしな話になりかねないと言う事かなと思いますが、この記事自体、主観が多く入りかねない危険な記事に感じます。--永尾信幸 2008年11月15日 (土) 10:41 (UTC)
そうでしょうか。101系は意図的にではなく、結果的に過剰性能になってしまったということではないでしょうか。過剰であったがゆえに、本来あるべき姿で使うことができず、デチューンを余儀なくされたということですから。この視点からすれば、「本来の」101系も十分に「過剰性能」であったといえるのでは。この点は、EF200も同じですね。--Kone 2008年11月15日 (土) 11:39 (UTC)
この辺の判断が難しいところでしょうね。
  • 過剰であったがゆえに、本来あるべき姿で使うことができず
いえ、過剰じゃなくそれが必要だったのです。当時の首都圏の通勤線区では。
必要なのに外的要因によって、その性能を活かし切れなかったケースと、本来不要なモノが付いているのとは全く意味合いが異なるかと思います。
現状、この記事は、それらを精査せずに結果だけで判断して過剰と決めつけてるように感じます。その点が、私が先ほど書いた「危険な記事だなぁ」という部分です。
101系が過剰かどうか、ウィキペディア上での判断を私はするつもりはありませんが、私なりの考えはこういう感じです。--永尾信幸 2008年11月15日 (土) 12:26 (UTC)
では、101系についてですが、一つの改変案を提案したいと思います。現在、
  • 当初計画より加速度が大幅に落ちてしまった(通勤電車では加減速度を大きくとれば、単位時間あたりの列車本数を増やすことができ、輸送力増強が効率的に実施できる)。
という記述があります。ここでは「加減速度」とまとめて書かれていますが、101系を増備していく過程において、運転間隔を詰めるには、加速性能よりも減速性能の方がポイントになるということが明らかになってきました。それ故に、6M4T化で落ちた加速度でも何とか実用になるということになったワケです。ですので、「当初はオールMで計画し、電力事情の都合から6M4Tとなりつつ、制御車や付随車も電動車に改造できる準備をしていたが、加速度の下落の運転間隔への影響はそれほど大きくないことが判明したため、オールMの必要性は低くなった。」などと、もう少し具体的に書いてみたいと思います。
具体的な文章は、これから改めて考えますが、現在の文章ですと「単なる誤算」という内容でしかないですので、「オールMの必要性は低いと判断された」という点を具体的に文章化しようと思います。L25.203.l03.26 2008年11月15日 (土) 13:55 (UTC)
少し補足しますと、101系の前身であるモハ90試作車は、70%弱め界磁域までの加速度を3.2km/h/sとして設計されました。しかし試作車が出来て試験を行った結果、とてもその加速度を達成することが出来ませんでした。(過小性能)
そこで量産車では設計変更が行われ、主電動機の低速域での回転力を増す改造を行い起動加速度を高めたのですが、量産車の試験結果では空車3.09km/h/s~積車3.0km/h/sしか出ず「車輪が新品で直径が862mmあり、設計上の計算値820mmに車輪径を換算して考えると、直線加速度は3.1~3.2km/h/sであった」と苦しい言い訳をする始末(参考文献:交友社「新性能電車詳説」)。
車輪径を計算値に持って行ったとしても計画値以上というわけではなく、その点を見ると量産車でも過小性能と言えます。
その後、実際に営業運転を行おうとすると、パンタ当たりの集電電流の上昇や限流値増により、当時の架空電車線の制限値3650Aを大きく上回る5600Aに及び(参考文献:JREA1959年8月号・電気鉄道1960年10月号)とても、その性能では運転できなくなった。(過剰性能)
M比率を下げていき6M4Tとなった状態では、加速度も旧形国電より若干良い程度、中速以降の伸びは旧形以下と酷評(当時の電車誌の乗務員談)されたように、デビュー時の高加速を知ってるだけに、この時点では実質的には旧形国電よりも性能的に上であっても、感情的に過小性能であったイメージがあったようだ。
結果的に乗客の多少によって限流値を変え、起動加速度を一定に保つ応荷重装置は営業運転開始から一度も使われることなく、限流値一定にて使わざるを得なくなり、その状態ではいたずらに限流値を上げると空車や乗客の少ない時に空転等を発生させる原因にもなるため、限流値は380A固定に抑えられてしまった。(過小?過剰?)
中央線のように、若干駅間があるような線区だと主電動機の通電率を表すRMS電流値も一時間定格電流から見て許容範囲内であったが、更に車体重量を増すと主電動機の熱問題があったため、冷房改造が基本的に出来なかった。(過小性能)
とりあえず、簡単に歴史的に見てみましたが、どの段階を見るのかでも意見が分かれるでしょうし、それらをきちんと説明するには、この歴史をきっちりと調べ上げなければ難しいと思います。
他の形式とかでもそうじゃないかと思うのですが、ある一面のみ見て「過小だ」「過剰だ」で判断するのは怖い、それが、私の意見です。
(追記です)アップしようとしたらL25.203.l03.26さんによる書き込みがありましたが、基本的にはそういう歴史的背景をきちんと説明して、読む方が過剰かどうかの判断ができるようになっていれば良いと思います。--永尾信幸 2008年11月15日 (土) 14:17 (UTC)
ちょっとジャンルは外れますが、その性能を活かせる環境が無い事を過剰性能だと定義してしまうと、戦争末期の日本の軍用機などは多く当てはまってしまいます。つまり、熟練工が戦線に出て、その代わりに学徒動員などで学生が工場で働くようになると品質面では当然低下することになり、実際に求めていた性能が出せなくなってしまうケースも多かったと思います。その状態になった時にその軍用機を過剰性能と言うのかどうかですね。熟練工が居ればその性能は出せるけど、居なければ出せない、これって、上で言っていた101系が電力設備があれば性能を出せる、出せないと似てませんか?--永尾信幸 2008年11月15日 (土) 14:26 (UTC)

なんか、2ch上での方が御意見の表明が多いようですがw、もし「削除していいんじゃない?」という御意見が多いようでしたら (暗黙の了解を含む)、限流値などの細かい一連の件は、時期を見て国鉄101系電車の方に加筆するようにして、この記事から101系の記述を全て削除してしまいますが、どうでしょうかね。一週間程度経過して、削除への異論が出なければ、101系も削除するようにします。L25.203.l03.26 2008年11月17日 (月) 03:32 (UTC)

101系がアウトなら、EF200もアウトのような気がします。いずれも、地上設備の不足から所期の性能を出せなかったわけですから。そのへんどうなんでしょ。--Kone 2008年11月17日 (月) 08:24 (UTC)
EF200とか機関車はよくわからないんで比較は私にはできません。私が感じるのは、定義の曖昧さで、101系でも性能自体は1970年代に求められた冷房改造に対応できない車両と言う事で過小性能とも言えます。
パソコンや携帯が過剰性能と書いてるけど、単に自分が使わない機能があることを過剰と言うのは主観が多く入り込む余地があるんですよね。
定義があいまいな以上は、今は例えば101系を削除しますとか101系を書き換えますとかで済んでも、同じような似たような形式とか事例がまたアップされるような気がしますね。
ちなみにモハ90は試運転時は制約なく運転していたと思うのですが、営業運転開始当日から性能を落としています。ですので、編成本数が増えたから性能を落とした(限流値減や応荷重装置未使用やM比率の変更)わけでは無いので、この点は事実誤認があるように思えます。
101系は電力設備でと言われますが、当初は架線の温度上昇問題でしたから、変電設備は問題無かったように思えます。もちろん編成増と共にそちらもアラが見えてくるんでしょうけど。ちなみに、当時はシンプルカテナリだったはずですが、ダブルトロリーに設備増強して架線の温度上昇に対処していたんじゃなかったかなぁ。(電車線工業のあゆみ別冊4によると、昭和34年4月に東京-三鷹急行線のツインシンプル化が、昭和37年3月に三鷹-高尾がツインシンプル化されているようです)
ま、私的には101系を過剰性能とするのも一つの説明としては間違っていないし、ただ、そうなった要因などがわからなければ、一律に過剰性能として扱われるのもどうかなと思うわけで、それが始めに書いた定義が曖昧だとややこしくなる話なのかなぁという点です。
まず、不要なモノが付いてるという不要の定義などがもうちょっと掘り下げられたら良いのかなぁとは思いますが・・・--永尾信幸 2008年11月18日 (火) 15:23 (UTC)
私のせいで話がわき道にそれましたが、とりあえずL25.203.l03.26さんが提案されているように、101系については削除の方向で良いのではと思います。理由としては上で説明していますが、過剰な時期・過小な時期が101系の歴史の上で混在しているからで、単に「過剰性能」というタイトルで語るにはふさわしくないと感じるからです。
他の形式などはよくわかりませんが、Koneさんから指摘のあった電気機関車も、貨物輸送における電気機関車の役割という面から見て、現状の電気機関車と貨物輸送が使用者要求に対してどうなのかという面も必要ではないかと思います。つまり、輸送力不足のために、もっと長い貨物列車を走らせたい、もっと一列車あたりの輸送力を増したい、という要求があるのであれば、現状の電気機関車などの貨物輸送システム自体が過小設備ともとれるわけで、それを打開するためにEF200などが生まれたのであれば、過剰性能では無く、本来欲したかった性能と言えるわけなので、そういう単に車両の性能だけでなく、背景も加味して判断する必要があると思います。--永尾信幸 2008年11月21日 (金) 01:45 (UTC)

試作車両は対象か?

JR貨物EF500形電気機関車国鉄キハ391系気動車ですが、前者は試作車のみで終了、後者は形式そのものが試作形式を名乗っています。確かに、性能が過剰とか不適切な面を有していた車両であることは間違いないかも知れませんが、試作だけで終わった車両を、この「過剰性能」という項目で取り上げる必要はあるでしょうか。他の項目にも疑問が残ったままですが、とりあえず、この二件は削除してしまって良いのではないかと思います。反対意見のある形は、御発言願います。L25.203.l03.26 2009年9月14日 (月) 12:19 (UTC)

賛成します。本文は「利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている」ということを「過剰性能」であるとしています。利用者が存在しない試作品は、本文が定義する「過剰性能」に該当しないと思います。--114.148.253.34 2009年9月14日 (月) 14:13 (UTC)

セガ・サターンは過剰性能?

高性能に相応しい価格が維持できなかったのだとしたら、ビジネスとしては失敗例といえるでしょう。しかし、本文においては「過剰性能」の定義が「利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている」とされています。セガ・サターンは、当時の消費者が高性能化を喜んでいなかったのだとしたら、過剰であると見なしていたのだとしたら、本文の定義する「過剰性能」に該当するといえるでしょう。実際はどうだったのでしょうか。--114.148.253.34 2009年9月14日 (月) 14:03 (UTC)--114.148.253.34 2009年9月14日 (月) 14:21 (UTC)

114.148.253.34記述除去関連

なお本案件に関しては、利用者‐会話:Yatobi#ノート:過剰性能 節構造補正の件でIP:114.148.253.34会話 / 投稿記録氏より「節補正を差し戻したい」という申し入れがありましたが、本件全体に関わる問題が見出せるため、これを差し戻します。利用者の態度としての問題に関してはWikipedia:コメント依頼/114.148.253.34に場を譲るとして、本件に関しては以下の共通する問題が見出せます。

節除去の理由として挙げられているものを要約すると「過剰ではなくこれを求める利用者がいるのだから過剰性能ではない」である

この命題が真であるなら、等しく「この性能は過剰だと感じている利用者がいるなら(それに該当するすべての工業製品は)過剰性能だ」ということにもなる。しかしそれは「各々のユーザーの視点として見た場合」において妥当性を持つに過ぎず、そのどちらも「例」という記述の性質上においては例示するほどの特筆性のないものであるし、もとより除去された記述([1])を見てもらえば判るとおり、そのようなものは論じていない。冒頭定義における産業上または工学上の過剰性能は区別していない(除去理由は産業上工学上のそれを全く無視しているようだが)し、あくまでも社会ないし市場全体を俯瞰した上で、過剰であるが故に採算性が取れなくなったり、別のもの(製品など)にシフトして行った事例を挙げて説明している。例示である以上は客観的に読者が理解を得られる必要があり、そのためには「各々の個人の価値観」にしか起因しない「(各々の)ユーザーがどう思うか」という視点は抜きにして扱うことが妥当と考えます。…というか、それは上に連なる議論でも示しているのだし、除去した後で苦言を呈されたために慌てて除去理由を書き綴ることも含め、本件の記述除去が過去のノートでの議論(各々を除去する前に議論を行ってきた経緯)をまったく無視していることは疑う余地はありません。その態度も問題視したため、上に挙げた「利用者の態度にコメントを求める」ためのコメント依頼を提出するに至った次第です。

件の利用者の態度に関するコメント依頼は別にしても、例示の可否は「過剰とみなすか否か」を個人の価値観レベルで語るのではなく、社会や市場の動向を踏まえた実際の結果として、全体的な視点で扱うことが説明的と呼べましょう。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 10:37 (UTC)(間違い修正)2009年9月16日 (水) 12:50 (UTC)

もうしわけありませんが、夜飛さんが実行された「節構造を変更」を再びもとに戻させて頂きました。詳しくは利用者‐会話:Yatobi#ノート:過剰性能 節構造補正の件をお読みください。--114.148.253.34 2009年9月16日 (水) 12:41 (UTC)
各々ではなく、全体として掛かる部分であるため、差し戻しました。特に自身が時系列的に並ばないので判りにくい旨を表明しながら、その時系列順列を無視して節を連結させるのはおやめください。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 12:48 (UTC)
?節を連結したいのは夜飛さんの方でしょう?ひとつの節であったほうが良いとのお考えは一理ありますが、いまさらひとつの節にまとめたら、私の書き込みばかりが巨大すぎます。ひとつの節としての書き込みとしては長文すぎます。ひとつに統合するにはいちから書き直すべきですが、ノートの書き込みをちゃらにすることについて、コミュニティーの合意が必要です。--114.148.253.34 2009年9月16日 (水) 13:09 (UTC)
ああ、見間違えました。一瞬、この下との節を区切る見出しを削っているように見えたので「連結しないでください」と申し上げたのですが、別段連結はしてませんでしたね。失礼しました。ただ、それを差し置いても本節の時系列的位置関係を無視した編集もどうかと思いますが。なお「巨大すぎる」というのもおかしな論点ですね、内部構造化することを否定するその発想は合理的ではありません…まあ断片的な思考だけで総体を見なければそれで事足りますけど。「ひとつに統合」なんていう言葉が出るところにも、事実関係の歪曲が感じられますが、指摘したところで改まらないでしょうことが予測されますので、特に問いただすつもりはありません。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 13:27 (UTC)
お話が ちっとも通じないのは、私の文章(説明)がまずいからだと思います。申し訳ありません。私が申し上げたいのは、私の第一希望としては、私が新設した節について、節構造はこのままにしてほしいということです。夜飛さんにおかれましては、コンコルドやパソコンなど各項目のタイトルを括る==を===に書き換えようとなさっておいでですが、===で囲まれたサブタイトルはノートにおいては一般的じゃありません。さらに、私のあまり流暢でない文章があまりも長い長文としてひとつの節に統合されることは、閲覧・加筆する人にとって良いとことではないのです。いちどに10行くらいのコメントならば何とかお読みくださるかもしれない人は、40行だったらきちんと読んではくれないかもしれません。夜飛さまが、どうしても各節を合体させたいのであるならば、私は各節を統合した文章をいちから書き直しますから、どうかコミュニティーの合意を得てください。以上、同じことを重複して申し上げましたが、今度こそご理解いただけたら嬉しく思います。--114.148.253.34 2009年9月16日 (水) 14:31 (UTC)

本文の「概要」は酷すぎると思う

本文の「概要」は、高価なエンジンを積む事が車を危険なものにすると主張していますが、本当でしょうか?

>過剰な出力を持つエンジンを搭載した自動車の場合、ブレーキ部分がその加速能力に比例して強化されなければ、これはブレーキに対してエンジンが工学上の過剰性能となる。

アクセルをかけながらブレーキを踏むのでしょうか。

既に削除しましたが、「スーパーカー」についての記述もデタラメでした。

>これらの自動車は、1970年代から1980年代に掛けて市販の乗用車として盛んに発売された。中には突出した性能を得るために、総合的なバランスをあえて無視した設計の物もあった。これらは市販車であるにも関わらず乗り手を選び、その能力に欠けるオーナーの運転を拒否するかのように事故を起こしたり、または故障したりした。今日でも同カテゴリに属する自動車を愛好し、他の市販車のゆうに10倍前後という価格を支払ってでも購入する熱心な愛好者も存在し、非常に限られた市場を対象に限定的に生産されている一方で、そういった愛好者層を除けば乗用車とみなすのは無理がある。

「ぜいたくは敵だ」という信念に基づいて書かれているとしか思えません。--114.148.253.34 2009年9月14日 (月) 14:59 (UTC)

意見の内容を問う前に、利用者の態度として疑いたくなる発想。本文を読んだのかとまず問いたいが、それ以前に利用者の態度自体に疑問を感じたため、Wikipedia:コメント依頼/114.148.253.34を提出することにします。--夜飛/ 2009年9月14日 (月) 16:29 (UTC)
ブレーキに対してと言う部分は、基本的には車でも電車でも走らせるのは簡単だけど止めるのはむずかしいのです。だから、速度などの性能を高めるのはさほど難しくないけど、その性能で安全に止めるには相応なブレーキシステムが必要になると言う事です。ですので、速度を高めるにはブレーキシステムも考慮しなければならないと言う事が書いてあるわけで、速度を高めるよりもブレーキの性能を高める方が難しそうなので、簡単に速度を高めるような事をしたらブレーキが追いつかない、つまりブレーキに対して過剰性能になると言う事が書かれているわけで、ブレーキとアクセルを一緒に踏むなんて考えを書き込む余地は全く無いと思います。逆にこの事で、この程度の疑問しか起こらないのであれば、むやみに過剰性能などに口を挟まない方が良いように感じます。--永尾信幸 2009年9月16日 (水) 10:15 (UTC)
(メタなコメント)私(114.148.253.34)が新設した複数の節について、ひとつの節として統合したい夜飛さんと、そのままにしてほしい私のとの間で意見の衝突が起こっています。(詳しくは利用者‐会話:Yatobi#ノート:過剰性能 節構造補正の件ノート:過剰性能#114.148.253.34記述除去関連にて。)なぜこのようなことになったのか、原因の一端は私にあると思います。この節において、直接は関係ない「スーパーカー」について言及していることが、不適切であったかもしれません。この節内で「スーパーカー」について言及したことを取り下げることを表すために、<del>タグで処理させて頂きました。--114.148.253.34 2009年9月16日 (水) 13:11 (UTC)
例えば軽自動車についていえば、同じ車種でもターボを搭載しているのとターボなしのがありますが、ターボをつけると より強力なブレーキが必要とされるのだろうか?と考えました。加速性能が高くても並でも、いずれにせよ同じ法定速度で走行するのですから、要求されるブレーキ性能は同じことではないかと考えましたが、間違っていたらごめんなさい。概要節については、コメントをしただけで、手を入れてはおりません。また、この件について私が「違うんじゃないかな」と思った時点の版は、既に別の方によって書き換えられていますので、今は特に意見は持ち合わせてはおりません。過去版においては、特定車種(スカイライン)のブレーキ性能が不安であるようにも読める文章だったので、このままでいいのかしらと懸念していましたが、現在の版において既にその記述はありません。--114.148.253.34 2009年9月16日 (水) 16:10 (UTC)
概要で記述されている具体例、歴史上の例は、全て、
(1)出典が明示されていない。執筆者に出典を明示する意思がない。
(2)冒頭文の定義『過剰性能とは、機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態。』に該当しない。
(3)例の選択が恣意的で、独自研究にあたる可能性が高い。
以上の理由より、即時削除でいいと思います。 (具体例が必要な場合は、出典つきで復活させれば良い訳ですし。)--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 13:45 (UTC)
Xyzgataさんのご意見ももっともなことですが、いきなり即時削除の手段をとると編集合戦になりかねないため、ノートでの問題提起を行うべきかと思います。
明確な著作法違反に該当するようなケースでなければ、「出典の明記」「未検証」「要出典」タグを掲示して、情報が掲示されるのをまつか、あるいは当該する項目を記載された方のノートに議論参加への要請を出すなりすることで、解決に至る場合も多々ありますので。この場合も、短期間ではなく、一週間とか、二週間とか、それなりの期間をまって対応すべきかと思います。初めてこのページを見られた、別のユーザーの方が、要出典、未検証等の記事をみて、根拠となる出典を掲示される例もありますので。--Craford 2009年9月17日 (木) 14:10 (UTC)
そうですね。削除すべき に訂正します。--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 14:23 (UTC)
話がそれますが、そもそも、『過剰性能』『高性能』『低性能』などは百科事典の独立した記事としては不適格で、『性能』の一項目として記載しておくべきのような気がしてきました。『過剰融資』『過剰接待』なども不適格のような気がします。
『過剰性能・過剰品質』に、工学的・経営学的な系統的な分類・分析があれば、百科事典の記事として適切なのかもしれませんが。。。
また、『過剰性能』『高性能』などの具体例をあげる行為は、必然的に独自研究になるような気がします。戦艦大和の大砲くらい評価が定まっていればいいのかもしれませんが。 --Xyzgata 2009年9月17日 (木) 15:02 (UTC)

(インデント戻します)本日、図書館にて辞典関連、および自動車関連の書籍を片っ端から当たってみた結果、技術評論社の「最新パソコン・IT用語辞典(2009-2010)」にのみ「オーバースペック」の単語を発見することができました。 他の機械系、電子工学、自動車用語、オートバイ用語、自動車の歴史等のモーター機器の歴史関連の本ではこのような単語は見つかりませんでした。(+カタカナ語辞典、広辞苑、現代用語の基礎知識等)

上記IT用語辞典によると、オーバースペックとは、

1. 作業として必要となる能力以上に、コンピューターが高性能なため、コンピューターが持ちうる機能が果たせないこと。
2. 全体を構成する機器のうち、特定の機器の能力が突出しており、その機器が性能を発揮しきれないこと

となっています(著作権を配慮して言い回しはかなり変えて記載しています)。

調査した結果をみるかぎり、この単語の出所はコンピューターが主で、同じようなケースに該当するものを、オーバースペックと呼ぶようになったのではないかと思います。

なので、現在の概要に書かれている「機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。」と、意味の定義が大差ないことがわかりましたことをお伝えいたします。--Craford 2009年9月18日 (金) 08:17 (UTC) --2009年9月18日 (金) 08:42 (UTC) 一部調査結果追記

  • 参考までにちょっとメモ:『ライダーのためのバイク用語辞典』(ISBN 4789700402)には「オーバーパワー」の節(同P.91)にて「足回りやライダーなどの要求よりも出力が大きいこと(大変危険)」とあり、ここに概要節の自動車の例に近しいものを見出すことができますが、その一方で件の記述は小生の記憶する限りではカーグラフィックTVランボルギーニ・ディアブロを取り扱ったバックナンバー・セルビデオ中での解説が原点にあると思います(ここで繰り返し「過剰な」とか「過剰性能」という表現が出ていたかと)。もっとも件のセルビデオは前の勤め先の機材テスト用映像ソースとして使われていたため散々見て内容は強く印象に残っているものの手元にはなく、今参照して調べるわけにも行かないし、思い起こせば更に全般的に工学的観点としての説明を盛り込むため「過剰性能」というひとまとまりの記事に持っていったこともあって、(小生の挙げた)上二つにしてもそれのみによっておらず、「厳密な意味での出典」としては扱い難くい「断片的な参考資料」に過ぎないため「敢えて出典として書くのも躊躇われる」んですけどね。以上、Crafordさんの呼び掛けに応えまして簡単ながら。--夜飛/ 2009年9月18日 (金) 09:43 (UTC)
このノートの少し上、今は4番の項目ですが201系電車の件で
  • まず、不要なモノが付いてるという不要の定義などがもうちょっと掘り下げられたら良いのかなぁとは思いますが・・・--永尾信幸 2008年11月18日 (火) 15:23 (UTC)
と書いた事があるのですが、結局この定義があいまいなので独自研究の入り込む余地が大きくなると考えます。
つまり、必要・不要に個人の主観が入ってしまうと言うか。
上でXyzgataさんが戦艦大和の主砲の事を書かれていますが、高性能のたとえだとは思うのですけど過剰性能のたとえだとしたら事実誤認ですし・・・世界の三大無用の長物の一つとして紹介される事はあるようですが、単に使う機会が少なかっただけでアウトレンジの考えはより長い槍を持って戦う方が有利であるという考えからも合理的です。持たざる国が戦う方法としては当然配慮しなければならない事です。
単に使わなかったから過剰性能だと言うのは百科事典に記すにあたってはリサーチ不足を否めません。先に101系の記述を削除したことがあるのですが、過剰性能として記載する事例については、単に「そう思う」的な簡単な記述だとトラブルの元になるのかなぁと思いますね。その事例についての深い知識も必要でしょうから、例を挙げれる方というのは、その事例にあげようとしてる事を専門にされてる方々じゃないと難しいように思います。
その意味では、定義があいまいな状態では、あまり事例を多く挙げるのは難しい事じゃないかなぁって感じはしますね。--永尾信幸 2009年9月18日 (金) 21:08 (UTC)
『三大無用の長物に数えられる大和が具体例として不適当なら、独自研究にならない普遍的・適切な具体例が存在するのですか?』という意味だったんですけど。。。 リサーチ不足ですか。。。 そうですか。。。
あと、過剰性能の定義があいまいだから、専門家じゃないから、知識が少ないから独自研究になるのではなく、ここに集まっている人間で具体例を選別しようという行為こそが独自研究でしょう。--Xyzgata 2009年9月18日 (金) 23:24 (UTC)
もっというと、↓こんなことやってて話がまとまるはずがないし、意味がない。
『過剰性能』のページを作り、『過剰性能とは、利用者が求めるよりも、性能が過剰な状態。』と定義して、『これは過剰だ、あれは高性能だが、過剰性能ではない』と議論する。
『激ウマ食材』のページを作り、『激ウマ食材とは、利用者が非常に美味しいと感じる食材。』と定義して、『これは激ウマだ、あれはウマいが、激ウマではない』と議論する。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 00:20 (UTC)
無用の長物と過剰性能は別物なのでと言う意味です。無用の長物を指す場合には後付が多いんですよね。まぁ当然なのですが。
上の201系の節の中で101系の性能という面で少し書いてますので見て頂きたいのですが、101系電車が過剰性能だったかどうかについては、その時代時代によって受け取り方が変わるのです。
どの時代から見た話なのかによって答えが変わるものだから難しいよって話をしてるんですよ。
多くのものは設計時などには必要だと思うためにそのスペックになってる場合が多く、その後の状況の変更によって使わなくなったり他で代用されたけれど設計途中だったのでその部分はそのままで設計を進めたとかもあるんじゃないかなぁ?だから、後々から見たら全く無意味だよってのも、その当初の設計段階においてはそのスペックは必要だと考えられていたわけです。大和の主砲もそうです。というより大和の設計時には46cm砲以上の大砲も付けれるものなら付けたいと言う事で研究は続けていたようです。
これらは、その事についての歴史的背景を知ってる者からすれば、過剰性能であったかどうかの判断は付くわけですから過剰性能の例としてここに書く事も無いでしょう。
私が書いたのは、ウィキペディアに書く以上は、相応にリサーチしてからにして欲しいと言う事ですね。
無用の長物と言われてるからだけの理由で戦艦大和の主砲を出してくるような事だとトラブルは絶えないとは思います。
そんなことで、ここに書ける内容ってのは、そう多くは無いかなと感じています。
「もっと言うと」については、何のために書いたのかちょっとよくわかりませんが、時代によって見方が変わる部分がありますからそれを考慮しなければどんな定義をしててもダメじゃないかなぁ。
まず「設計時にどうだったのか」くらいの定義で良いんじゃないでしょうかねぇ。それだとかなり絞り込めると思いますが。--永尾信幸 2009年9月19日 (土) 00:40 (UTC)
私は、『ここで、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない』と言っているだけです。
これが理解できず、各論の話を延々続けるようでは、wikipediaにいくら文章を書いても、削除されるのがオチだと思いますよ。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 00:54 (UTC)
困ったなぁ、そういう言い方されると(笑) 私はあなたの言ってる事への反論とかじゃなく、既に1年近く前に提起した、なんらかの定義付けを設けたら個人個人によって答えの違うような事を書き込む事が減るだろうから、そういう定義などがあれば一歩前進できるんじゃないかって言ってるだけです。。。またリサーチについては、仮に過剰性能の例として書き込む場合は、相応な調査を行った人でないと難しいでしょうと言う事を言ってますね。
そんな事なので、あなたの書いた「これが理解できず・・・」ってのは、気をつけないとそっくりそのまま返されちゃいますよ。だって、私が書いてからの返答時間が短すぎるってのは、頭に血が上って返答してるようにしか見えないんですよね。ウィキペディアに書き込むにはやっぱりもうちょっとじっくりいった方が良いと思いますけどねぇ。相手の考えてる事とかを配慮せずに、自分がパッと見た感覚で返信してるようにしか見えないので、そういうのは結構トラブルの元になってるんですよね今までも。--永尾信幸 2009年9月19日 (土) 04:17 (UTC)
『この場で、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない』ということに対しては、賛成ですか? 反対ですか?
リサーチが不足だとか、ウィキペディアに書き込むにはやっぱりもうちょっとじっくりいった方が良いと思いますけどねぇとか、人格攻撃のようなことを繰り返すより、私の主張に対して、反論なり何なりするべきじゃないですか? いくら時間をかけても、話が全然進みませんよ。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 04:44 (UTC)
えッって感じです(笑)
それが人格攻撃なんですか?例えば「じっくりいった方が」なんてのは、署名を忘れて後で付けるようなのを見ていたら誰だってそう思うでしょう。プレビュー機能を使いましょうってのは人格攻撃ですか?
大和の件も、それを過剰性能で記事を作る方がいたとしたらリサーチ不足だと言ってるだけです。無用の長物=過剰性能だなんて短絡的には考えられないものなので、そんな記事を書く人はいないでしょうけど。
それと、イエスかノーかって、別に投票じゃないですよ。私は1年前から定義づけについて問題提起しているから参加してるだけです。
何か見てると性急に何かを決めたいとか言う風に思いますが、ウィキペディアには毎日見れない人も参加してるので、そういう人の事も考えて事を運ばないと、全く独りよがりになると思います。
話が進んでも、すぐに他の人から「わたし、そんな事聞いてなかった」って差し戻されたら手戻りも良い所ですからねぇ。
ちなみに、私はあなたの意見についてどうこうなんてどうでも良い話で、それは単にあなたの考えが書かれてるってだけですから、それに対して賛成か反対かなんて、そんな事いちいち言ってたら誰も参加できないじゃないですか?
どうしても一人で進めたいなら自分でwikiを立ち上げることをおすすめします。--永尾信幸 2009年9月19日 (土) 09:28 (UTC)
『この場で、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない』という意見がどうでも良い話ということは、永尾信幸さんにとってwikipediaの基本ルールの『独自研究』はどうでも良い話ということですよ。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 12:14 (UTC)
うーん、ちょっと違うかな。ウィキペディアでは基本的には検証可能性が大前提ですから独自研究の入り込む余地はありません。それは別にここで議論するべき問題ではなく、すでに決まってる話です。
で、私はあなたが提起した「過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究かどうか?」を問うような話題に参加するつもりは無いと言ってるだけですよ。
自分が提起した話題にはみんなが乗ってきてくれると思ってるのですか?それこそ独りよがりの典型例じゃないですか。
もともとこの節はあくまでも概要が醜すぎるという点から始まっています。議論が独自研究であり意味がないってのは途中から一つの意見として出ただけに過ぎません。
私の考え自体は、醜くなってるのは個人差がある、つまり他人が見て賛同できない部分も記載されてるために起こってるのであれば、それらを排除する道としては何があるのか?と言う事ですね。
一つの提案として定義を明確にしてみたらと言う事を言ってるわけで、「独自研究がどうでも良いと私が思ってる」などという答えにどうやったら結びつくのか全く理解出来ません。
自分が提起した話題に相手が乗らないから、相手はその内容まで否認してると勝手に思い込むのはどうかと思いますね。だから先の発言の「独りよがりになる」につながっていくわけなんですが・・・
で?人格攻撃云々はもう気が済んだんですか?というより、人に対して「人格攻撃のような事をする奴」みたいな言い方をしておいて、ほったらかしってのもどうかと思うんですけどね。まぁ良いですが(笑)--永尾信幸 2009年9月19日 (土) 13:50 (UTC)
Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性が、wikipediaの三大方針です。
『ウィキペディアでは基本的には検証可能性が大前提ですから独自研究の入り込む余地はありません。』というのは間違いですよ。
まずはルールをお読みになり、理解されることをお勧めします。 --Xyzgata 2009年9月19日 (土) 14:51 (UTC)
何か面白い方ですね。えっと、独自研究の話をしていたのでねその部分を中心に話をしたまでです。要は独自研究の入り込む余地が無いってのは、ウィキペディアには検証可能性というルールがある事、そのルールを満たせば独自研究が入り込めないと言う意味です。
ウィキペディアに必要な要素の全てがここに凝縮してるなんてことは一言も書いてないんですけどねぇ。これが、ウィキペディアの方針がこれだけだと言ったら大間違いでしょうけど。
相手の書いてある事を理解出来ずに、というより自分の都合の良い部分しか見てないのかな?それで、自分が感じた狭い範囲の事をもとに人に対して「ルールをお読みなさい」って非常識ですよね?
ちなみに私は過去に[2]こんなところで編集もしてるんですよ。
何かあなたのレスってのは、単にあー言えばこういうだけであって、直近の発言に対しての揚げ足的な返答しかありませんね。
あまり、こういうやりとりをしてると、他の方からそっぽ向かれると思いますので気をつけた方が良いと思います。
これだけ「間違いです」と宣言したわけですから、あなたの勘違いであったら謝罪の一つくらいあるんでしょうねぇ(笑)--永尾信幸 2009年9月19日 (土) 15:41 (UTC)
Wikipedia:独自研究は載せないに、『Wikipedia:独自研究は載せない (NOR) は、ウィキペディアの内容に関する三大方針の1つです。他の2つの方針は「Wikipedia:中立的な観点」 (NPOV)と「Wikipedia:検証可能性」 (V)です。これらの方針は相互補完的なもので、(略)』と書かれていますよ。
『独自研究の入り込む余地が無いってのは、ウィキペディアには検証可能性というルールがある事、そのルールを満たせば独自研究が入り込めないと言う意味です。』は間違いですよ。
どこかに、『独自研究の入り込む余地が無いってのは、ウィキペディアには検証可能性というルールがある事、そのルールを満たせば独自研究が入り込めないと言う意味です。』と書かれていますか?--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 16:25 (UTC)
はいはい、わかりましたよ。揚げ足とりさん。そうやって、重箱の隅でもつっついてなさい。もうあなたの勝ちで良いので(爆)
そういうのが、どれだけ人の反感を買う買ってのは、社会に出たらよくわかりますから。
そういえば、そういうことばっかり言って、無期限ブロックを食らったRoute78さん[3]に似てますねぇ
この方もね、例えば「○○は▲から東方にある」という表現をしたら「東じゃありませんよ、東南東ですよ」みたいな言い方をする人でね。
そのくせ、自分が突っ込まれてる事に対してはフル無視、人の事しか言えないんでしょうねぇ。要はそういう自己中心的な書き込みとかしていたのでね、結局ウィキペディアでは活動は無理でしょうと言う事でブロックされてるんですよ。
あなたも今回のやりとり見ていたら、ずいぶんそういうやりとりに似てますよ。だいたいA+B=CだからB=C-Aってのがわかってないと、人との会話って無理だと思いますけどねぇ。
相互補完についても、私リンク張りましたよね、ここでこういう編集をしてるって、そういうのを見たら「わかってないわけないでしょう?」と普通の方は思うわけです。
でも、揚げ足取りさんは、少しでも言い回しが違ったり、突っ込む要素「東と東南東は別物やろう?」みたいなのを見つけると、すぐに食いついてくるわけで。正確な位置情報を示す場合ならそんなあいまいな位置表示じゃなく経度緯度でも示したらいいわけで、東方というあいまいな表現でOKな場面であるにもかかわらず、東南東と、ほんの少し詳しくなっただけの情報を出してきて突っ込んでくるわけで、そんなの別に一緒ジャンと世間では言われるんですよね。
会社で非常階段の手前にある非常口を指さして、火災などではあそこの非常階段を使って外に降りて下さいと言ったら「あれは非常階段ではなく非常口ですよ」と言ってるような感覚というか。
そんな揚げ足取りが、どれだけ反感を買うかは、今後人生経験を増やしていけばよくわかるかと思います。
そういう気をつかえないのであれば、結局はこういうノートでの議論に置いても「重箱の隅を突っつくやりとり」しか出来なくなってしまい、結局議論は長さだけはあるけど意味が無いものになります。
で、自分の気に入る回答じゃなかったらダダをこねる的になってしまうんですよ。
このやりとりなんて、まさにそれでしょう(笑)
結局ここに至るのは「リサーチ不足だと言われたと思い込んだ」みたいな部分でご立腹だったのが原因じゃないんですかぁ?でなきゃ、人格攻撃がどうのなんて普通は書きませんものねぇ。
だって、あなたは自分が人格攻撃されたとでも思ってるんでしょうけど、あなたが私に最初にレスした「これが理解できず、各論の話を延々続けるようでは、wikipediaにいくら文章を書いても、削除されるのがオチだと思いますよ。」なんてのも、ひどい言い回しですよ(笑)いきなり「理解できず」ってのがねぇ。普通は初対面の方にはこういう言い方はしないものですが。
自分がされたことは気になっても人に何をしたか気が回ってない証拠というか。
ま、Route78さんのようにならないように、トラブルにはせいぜい気をつけてくださいね。あなたはそれで良いんでしょうけど、巻き込まれた方も時間とられますから。--永尾信幸 2009年9月20日 (日) 03:13 (UTC)
永尾信幸さんとの会話における、私の主張、もしくは主張のバックボーンは、以下の2点だけです。
  • 『この場で、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない。』
  • 『独自研究は載せない、中立的な観点、検証可能性の、相互補完関係にある三大方針を守らないといけない。』
これを重箱の隅とお考えのようですが、この議論を避けていては何時までたっても、新しく見た人が議論を蒸し返すと思いますよ。
あと、『過剰性能の定義を詳細に決めるべき』という意見も、独自研究の『既存の用語に新たな定義を与える。』にあたる可能性が高いと思います。
『そのくせ、自分が突っ込まれてる事に対してはフル無視』が、大和のことを指しているのなら、
『この場で、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない。』と言っている相手に、『各論の過剰性の是非』で突っ込むことこそ、重箱の隅をつつく揚げ足取りでしょ。
そもそも、一連の永尾信幸さんの私に対する発言の中心となる趣旨・意図は何なのですか? どういう結論に導きたいのですか?
もし、非建設的な個人攻撃が目的でしたら、無視もしくは相応の反応を受けるのがオチだと思いますよ。--Xyzgata 2009年9月20日 (日) 17:58 (UTC)
あら、まだやってるんですか?もうあなたの勝ちで良いんですよ?
ってか、いつ私が三大方針を重箱の隅って言ったのかなぁ?わけわからん・・・
関連する二つ出してるのに、一つ出さなかったから方針を理解してないみたいな事を言うのが重箱の隅だっての!
必要ないって考えるなら、リンク先にあるような初心者向けの編集などしませんよ。
>そもそも、一連の永尾信幸さんの私に対する発言の中心となる趣旨・意図は何なのですか?
>建設的な個人攻撃が目的でしたら、無視もしくは相応の反応を受けるのがオチだと思いますよ
えっと、あなたの方から「~を理解出来ずに」なんて絡んできたわけでしょう?
ちょっとびっくりやわ。自分が被害者だとでも思ってるのかねぇこの人。私が迷惑受けた方やのに。
ちなみに、あなたが主張してるのは、単にこの節におけるあなた個人の一意見にすぎません。ましてや、この節はの題名は「この場で、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない。」ではなく、それをメインで語る節でもありません。
それなのに、これは何でしょう?
  • これが理解できず、各論の話を延々続けるようでは、wikipediaにいくら文章を書いても、削除されるのがオチだと思いますよ。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 00:54 (UTC)
つまり、前にも独りよがりはダメだよって書きましたがあなたが意見を出したら他の人はみんなあなたの意見に対して話題を振るとは限らないって事ですよ。
ウィキペディアってところは多くの人が参加してるので、そのあたり他の人がどういう行動を取って参加してるかって事を考えないと、先に書いたように「独りよがり」になるだけってだけです。
なんだか、自分が書いた内容と違うからって、このような書き方をするあなたに人格攻撃がどうのなんて言えないでしょう?不快なのは、無理矢理あなたの意見をおしつけられてる私の方でもあるんですよ。--永尾信幸 2009年9月21日 (月) 06:39 (UTC)
  • 『三大無用の長物に数えられる大和が具体例として不適当なら、独自研究にならない普遍的・適切な具体例が存在するのですか?』という意味だったんですけど。。。 リサーチ不足ですか。。。 そうですか。。。
  • あと、過剰性能の定義があいまいだから、専門家じゃないから、知識が少ないから独自研究になるのではなく、ここに集まっている人間で具体例を選別しようという行為こそが独自研究でしょう。--Xyzgata 2009年9月18日 (金) 23:24 (UTC)
これが最初に返信くれた内容ですねぇ。リサーチ不足ですか・そうですか・・って、何かスネた感じを受けるのですが、何のことでもない、あなたが良く言ってる三大方針にある「検証可能性」や「中立的な観点」で物事を考えたらそうなるだけですよ。
無用の長物=大和なんてのは検証可能性を満たしたとしても中立的な観点は満たしません。そのため、より具体的にはその当時の関連資料をじっくりと精査しなければならないわけですよ。それをリサーチと称しただけですが。
下の例なんて、何を勝手な思い込みでって感じですね。私、そんな事書いてないんですけどねぇ。
定義の必要性は書いてますが、その定義が何らかの資料に記載されていれば、検証可能性を満たし、独自研究にはなりません。運用によって中立的な観点を満たせることにもなるでしょう。その定義が何にすれば良いのか私にはわかりません。時期によって変化する事ですから、設計時に関連するような記述があればと言うのは思いましたが、具体的に何がとは書いた時には考えてません。ただ、そういう定義が無ければ、主観が入り込み独自研究になる可能性が高いと言う事を言ってるんですよね。
そもそも、定義を勝手に作ると思い込んでる所から痛いのですが、その定義付けに適した物がすぐに見つかってないから一年ほったらかしなんですよ(笑)
記事の削除なんて破壊的な事はしたくないし、それはウィキペディアの方針からも逆行しますから、どうにかして独自研究が入り込まないようなシステムになればと思うんですけどね。でも、一番最初に思いつくのは基準じゃないかと思うんですけどねぇ。だからこういうノートがあるんですから。個々の事案をノートで判別するって事じゃないですよちなみに・・・独自研究にならない範囲でルール化することなども可能ですから、自分の考えで「無理」と決めつけずに、出来る方法が無いかどうかも考えて良いかと思ってます。で、出来る方法を考える=三大方針に反すると短絡的には考えてもらいたくは無いんですよね。
物事を進めるってのは、時間がかかるんですよ。先に「じっくりいきましょう」と書いたように、性急に何かしても、あなたが良く署名を忘れるように、ポカミスが出るんですよ。納期が決められてるわけじゃないんだから、あなたのタイムスケールで話を進めるのはどうかと思います。
ま、いずれにしても、なんだか、あなたは、ちょっと書かれた事に対して「自分に対しての反論じゃないのか」みたいに思い込んで、頭に血が上るのかどうなのかは知りませんが、内容を精査もせず、署名も忘れるほど慌てて返信を書いてるように見えたわけですね。
そのうち、私に対して方針の理解が足らないとか、自分が先生にでもなったかのような振る舞いをしてるわけで、あたかも自分の意見は正論ってのから来てるようにしか見えないんですよね。
なんで、こんなに突っかかってくるかわかんないんだけど、
  • もっというと、↓こんなことやってて話がまとまるはずがないし、意味がない。
  • 『過剰性能』のページを作り、『過剰性能とは、利用者が求めるよりも、性能が過剰な状態。』と定義して、『これは過剰だ、あれは高性能だが、過剰性能ではない』と議論する。
  • 『激ウマ食材』のページを作り、『激ウマ食材とは、利用者が非常に美味しいと感じる食材。』と定義して、『これは激ウマだ、あれはウマいが、激ウマではない』と議論する。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 00:20 (UTC)
なんのこっちゃですね。そんなの当然じゃない。
こういうのを見ても、思い込みが激しくて、冷静に物事を見れていないのがよくわかるかなぁって感じますね。
どこに、何度も言うように「自分が書いた内容に万人が相手してくれるわけじゃないよ」ってのをわかっていただけたらと思いますね。
共同作業であるウィキペディアでは、独りよがりは輪を乱すばかりでなく、記事の生産性をも低下させます。ですので、協調性の無い方はこれまでも無期限ブロックなどになっていますので、そうならないように忠告しておきます。いえ、これはあなたのためというより、先にも書いたように、つきあわされる人も迷惑なんですよ。--永尾信幸 2009年9月21日 (月) 07:05 (UTC)
  • 永尾信幸さんとの会話における、私の主張、もしくは主張のバックボーンは、以下の2点だけです。
会話というより、あなたがいちゃもんつけてくるから返事してただけなんで・・・私は先にも言ってるように、あなたの意見には別に話題に入りたいとは思ってないんですよ。だからといって、ルールを否定してるなんて短絡的に考えられたから困ったわけで。
あなたの主張は別に良いんですよ。2点目もごく当たり前の事が書いてあるだけで、会話にするほどのものでもないですし(笑)
私的には、毎回なにか文句を言ってきてるとしか見えなかったんでね。どっちにしても、あなたの勝ちで良いと宣言したんですから、それで良いんじゃないの?
正直、忙しいんでね、あなたにつきあうヒマは無いのでコレ限りで・・・
あなたも、こんなところで、あなたの思い込みから話題を膨らませて(まさに独自研究ですな)人の手間ばかりかかるような話題を続けずに、他に記事に参画するなり資料を調べるなりすれば良いんじゃないの?
返事は勝手に書いてくれても良いですが。ルールを知らないとか勝手に私の事言っていた部分は謝罪の一つでも欲しいですけどねぇ。--永尾信幸 2009年9月21日 (月) 07:23 (UTC)
下の方で夜飛さんとの間でも意見がかみ合わなかったというか、あなたが突っかかるだけで議論に至るまでにならなかったような事例がありますね。なぜ自分が立て続けに他のウィキペディアンと会話がうまく進まないかはウィキペディアを今後続けていく上では考えていく必要があろうかと思います。ルールを知り、厳格に運用していこうという気持ちはわかりますが、それを進めるにも多数の方との合意などが必要になってきます。すぐに「あなたは何も理解していない」みたいに高飛車なやりとりをするなら、いくら相手があなたに協力したいと最初思っていても、敵をどんどん作るだけです。だって、私が最初書いた段階でも今でもそうですが、あなたの言ってること自体が間違ってるとか言ってるわけじゃないですから。それを勝手にあなたが被害妄想的に突っかかってきていますから、協力したいと思っても、こんな状況ではなかなか味方は増えてくれないと思います。
ちょっと、下の方も読んでいて感じましたので追記させてもらいました。--永尾信幸 2009年9月21日 (月) 09:08 (UTC)
『えっと、あなたの方から「~を理解出来ずに」なんて絡んできたわけでしょう?』とのことですが、
『百科事典に記すにあたってはリサーチ不足を否めません。』と、最初に絡んできたのは、永尾信幸さんだと思いますが。。。
『自分がされたことは気になっても人に何をしたか気が回ってない証拠というか。』とは、ご自身の言葉です。
『この場で、過剰性能か否かを議論すること自体が独自研究であり、意味がない』と主張している私に対して、『大和を過剰性能とするのはリサーチ不足だ』と延々と絡んでくる様子を見て、まっとうなコミュニケーションは諦めてました。 協調性がないというはそのとおりだと思います。--Xyzgata 2009年9月21日 (月) 13:56 (UTC)
えーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、あの「大和の件をそのまま過剰性能の記事にするならリサーチ不足」ってのを攻撃だと思われたのですかぁーーーーーーーーーーーーーーー!!!
でも、そんなの記事にするつもりなんて無かったでしょ?誰もこんな中立的な観点に反するのを記事にするなんて思ってないからさらっと流せるはずですけどねぇ。
なんだ、こんなのを根に持っていてここまでネチネチやってきたのか?
あ、いや、そりゃ悪かった。三大方針をわかってたら、そう受け止めるとは思わなかったから何とも思ってなかったが、確かに中立的な観点がわかってなければ、私の書いた内容も理解出来なかったのは仕方ないし、攻撃を受けたと思われるのも仕方ない。失礼した。
このノートの内容としては、主観的な意見が本文をおかしくしてるのが明白だったので、主観的な意見を廃したいってのがあったんで、ある意味主観的な意見の例にもなるかなと思っただけなんだよ。もちろん検証可能性は満たしてるから、あなたには非はないし、中立的な観点からそれを見るには他の文献を当たらないと出てこないわけだから、引き合いに出したのは良くなかったかもね。
でも、『大和を過剰性能とするのはリサーチ不足だ』って書いたのは最初だけで、あとは全くあなたの言う意味不明な内容に対しての返信だけなんだけどね。もちろん返信の中での回答としてそういう話が出る事はあったけど、なんだ、これをねぇ。。。いや、受けとめ方は人によって違うからあなたがそう受け止めたんだったら仕方ない事だもんなぁ。
だって、ずっと私がそんな事を主張していたって思ってんだろ?なら、どうしょーもないよなぁ。それで各論がどうのこうのって良く言ってたんだ。そりゃ話は食い違うよ(笑)
でも、良かったよ、そうやって書いてくれて。やっとあなたが絡んでくる理由がわかったから。
そうか、ずっと大和の件をねぇ。。。これでゆっくり寝れるわ(笑)--永尾信幸 2009年9月21日 (月) 14:45 (UTC)

コンコルド

過剰性能#過剰性能とされた歴史上の例」から、「コンコルド」を削除しました[4]。コンコルドは、並ぶもののない世界一高性能な旅客航空機にして、しかし燃料を喰いまくることから採算性は取れず、太平洋の定期路線にデビューすることはついにありませんでした。このことから、「過剰性能」と見なすことは妥当かもしれません。しかし、本文が掲げる過剰性能の定義には、コンコルドは該当しないと思われます。
本文における過剰性能の定義:
過剰性能(かじょうせいのう)、オーバースペック和製英語)とは、機械装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。”


コンコルドが世界一速く飛ぶことは英仏両国民の誇りだったのではないでしょうか。利用者がコンコルドの長所(とにかく速い)を評価していなかったとは言えないと思います。コンコルドは、「利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態」だったのでしょうか?
利用者は高い性能を評価していたけれど、残念ながら採算性は取れなかったということではなかったのでしょうか。
コンコルドを削除した件で、夜飛さんからお叱りを受けました(Wikipedia:コメント依頼/114.148.253.34)。夜飛さんがコンコルドについての記述を復帰なさることについて反対するつもりはありませんが、冒頭において書かれた定義と矛盾しないようにしてほしいと思います。--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 14:35 (UTC)--114.148.253.34 2009年9月16日 (水) 16:31 (UTC)(間違った記事間リンクを訂正。)

パソコン

過剰性能#過剰性能とされた歴史上の例」から、「パソコン」を削除しました[5]
本文が掲げる過剰性能の定義には、パソコンは該当しないと思われます。
本文における過剰性能の定義:
過剰性能(かじょうせいのう)、オーバースペック和製英語)とは、機械装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。”
パソコンにどの程度のスペックを求めるかは、人それぞれです。何を持ってパソコンが過剰性能であると言えるのでしょうか?
--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 14:46 (UTC)
追記:携帯電話についてもパソコンと同じ理由で削除しました。--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 15:02 (UTC)

(インデント戻し)この個別案件に関しては、新たな市場動向の着眼点として「ネットブック(ないしネットトップ)」を加えることで、なおも少なからぬユーザーにとって昨今のパソコンは過剰性能であったことが明確化できることでしょう。なお、各々のユーザー個人の視点によっては「過剰じゃない場合もある」ことは文中で言及されており、十分に事実に沿った記述だといえましょう。それはさておいても個人視点で語った上で除去する必要も見出せません(→#114.148.253.34記述除去関連)。以上の署名の無いコメントは、利用者:Yatobi氏が2009年9月16日 (水) 10:42に投稿したものです(114.148.253.34 2009年9月19日 (土) 05:06 (UTC)による付記)。

DAT

過剰性能#過剰性能とされた歴史上の例」から、「DAT」を削除しました[6]
本文が掲げる過剰性能の定義には、DATは該当しないと思います。
本文における過剰性能の定義:
過剰性能(かじょうせいのう)、オーバースペック和製英語)とは、機械装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。”
DATは、業務用としては評価されています。「利用者」にはプロフェッショナルも含まれると考えるべきではないでしょうか。DATを一度も買ったことはない人についても、放送コンテンツを享受することでDATの恩恵を受けてきたと言えます。
DATについては、過剰性能と呼ぶべきではなく、高性能と評価して呼ぶ方が適切であると思います。--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 15:02 (UTC)

スーパーカー

過剰性能#過剰性能とされた歴史上の例」から、「スーパーカー」を削除しました[7]
本文が掲げる過剰性能の定義には、スーパーカーは該当しないと思うからです。
本文における過剰性能の定義:
過剰性能(かじょうせいのう)、オーバースペック和製英語)とは、機械装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。”
スーパーカーが日常の足としては過剰性能であるに違いありませんが、スーパーカーのオーナーは、高い性能を求めてスーパーカーを購入するのではないでしょうか。--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 16:37 (UTC)

Lisa

過剰性能#過剰性能とされた歴史上の例」から、「Lisa」を削除しました[8]
本文が掲げる過剰性能の定義には、Lisaは該当しないと思うからです。
本文における過剰性能の定義:
過剰性能(かじょうせいのう)、オーバースペック和製英語)とは、機械装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。”
Lisaは、GUIを利用できる初めての市販されるコンピュータでした。高価であるから売れなかったという書き方ならば頷けもしますが、「利用者」が求めるよりも過剰な高性能だったという理屈はちょっとおかしいと思うのです。同一価格帯の他のコンピュータと比較した場合Lisaは、GUIにマシンパワーを喰われる分、非効率であると見なされたのではないでしょうか。Lisaの後継機種である初代のMacintoshがLisaよりも低スペックであったこを理由にLisaは過剰性能であったと言うことは可能かと思いますが、一方で、わずか数年で平凡なスペックに成り下がってしまった程度の「過剰性能」に過ぎないと見なすこともできます。--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 16:37 (UTC)--114.148.253.34 2009年9月15日 (火) 16:56 (UTC)

概要および具体例おいて、独自研究は削除されるべき

スーパーカーなど嗜好的な製品は、過剰性能の例としては不適切ではないでしょうか? ユーザーが求めている性能なわけですから。 説明も、設計目的の過剰性能を説明しているのではなく、性能のアンバランス=工学上の過剰性能を説明しているような気がします。例えば、PS3のように、ユーザーが求める以上に画質がいいとかの方が適切な気がします。  
電車も何種類か具体例にあげられていますが、失敗した理由が過剰性能にあったのか、システム設計ミスだったのか、判断が難しいところです。また試作のものを例にあげるのも疑問です。
セガサターンも、単に設計が上手くなかったのかもしれません。

いずれにしても、どのような製品・商品を例にあげても、その製品・商品に携わる人・利害関係者がいるわけですから、通常以上に独自研究にならないよう留意する必要があると思います。少なくとも、必ず出典(評論家の批判でなく、工学関係者の著書など)つきで記述すべきで、できれば、具体例として取り上げるだけの必然性・説得性も(教科書などで、具体例として頻繁に取り上げられているとか・・・)必要だと思います。

合意無しに削除するのも問題ですが、出典なしの具体例の放置も問題だと思います。

ある程度期間をおいて、

(1)出典が明示されないものは削除、
(2)出典があっても、具体例として取り上げるだけの必然性・妥当性のないものも削除(合意形成が必要だが)

すべきだと思います--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 11:46 (UTC) 修正--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 12:39 (UTC)

スーパーカーに関しては、かなり上にも同様の話をしておりますが、「乗用車一般としてみた場合(まあ概要部分に重複するが)」を挙げて「過剰性能」に位置付けた上で、これを求める利用者(ユーザー)にとっては趣味性のために過剰とはみなされないと説明すれば、より過剰性能の性質(最終的にはユーザー自身の価値観が決める)をより明確化できると思います。電車については、かなり上にある議論(#過剰性能の例の整理)にもあるように、その各々で評価判断すべき部分に悩ましい問題があるようにも思い微妙ですが、最終的に採用されたかや運用され続けたかどうかという客観的判断の場で「過剰だったかどうか」の判断がつくと思います。まあセガサターンに関してだけは、デュアルコア的な設計思想が前世代マシンのメガドライブから継承したものでもあるし、またソフトウェアリリース傾向(対応ゲームソフト全体の指向性)の問題も絡んでいるため、一概にハードウェアの設計のみに求めるのもどうかと思うので「かなりビミョー」(過去にコメントアウトした上で#過剰性能の例の整理で個別に議論して刈り込んだ記述とどっこい)かと。
なお出典に関しては、検証可能性という観点から見ると、例として示された事物のリンク先記事にある内容(同じような記述が見出せるか)およびそこに出典があるかどうかを加味するのが妥当かと思います。例示の部分は一種の一覧記事にあたり、一覧記事ではその各々の説明の要約で済ませたほうが(リンク先の記事との重複もなく)スマートですので。例示の吟味はたしかに必要ですが、同時に「どの程度の水準以上を例としてふさわしいと見るか」のローカルルール化推進もいいかもしれません。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 13:08 (UTC)(補記)2009年9月16日 (水) 13:12 (UTC)
ここで、過剰性能か否かを議論するのは独自研究そのもので、我々の判断は無意味です。
問題は、世間もしくは有識者に、過剰性能として認知されているのか、それも、記事に取り上げるほどに認知されているのか? 認知されていることが検証できるのか? の2点です。
出典は明記される必要があります。またwikipediaの記事は出典元とはできません。--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 13:29 (UTC)
ああいえ、誤解があったようなのですが、Wikipediaの記事を出典とするのではなく、Wikipedia上の出典を備え検証可能性を満たした記述(記事の一部)の要約を本節に示すのがスマートだという次第です。リンク先記事に出典が示された同種の記述があった場合、同じ出典をこちらに重複・転載する手間を省こうという趣旨で、この提案は検証可能性を損なうものではありません。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 13:38 (UTC)
情報の出典を明記してください。出典が不明な記述は、除去の対象となります。
これがwikipediaのルールです。
(wiki内のリンクをたどればソースにたどり着けるといっても、wikiの記事は変化していきますので、このページで必要な出展はこのページで明記されるべきです。)--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 13:46 (UTC)
いや、出典が完全に不明なら除去されても仕方がないが、その趣旨においてリンク先記事が検証可能性を満たしているなら、等しくその要約も(意味を違えない限り)検証可能でしょう(まあ分別のある大人なら容易に検証可能な事柄も多々ありますが)。Wikipediaの記事に限らずWeb上のドキュメントは絶えず変化していますから、出典情報を方々の記事で重複させるよりも、一元化させたほうがメンテナンス性も高いと思います。また本項ローカルルールとしても、説明はリンク先記事の(部分)要約に限定としておけば、外部リンク先消滅や移動の際に該当記事で調整されれば、結果的に本項の検証可能性も維持されるわけですから、利便性は高いと考えます。一方、リンク先記事で出典の解釈などに問題があって該当記述が除去ないし修正されれば、これは適時本項の修正をすれば良い訳で、これもローカルルールとして決めておけば、該当項と本項で同じ出典の解釈で同じように(重複して)議論を繰り返す手間も省けると思います。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 14:44 (UTC)
Wikipedia:チュートリアル 出典 <== ここを読んでください。
失礼ながら、夜飛さん独自ルール・解釈は受け入れられないと思います。
あと、例えば、『スーパーカーは設計目的による過剰性能の代表例』であることを示す出展が、wikipedia内に存在するのですか? 存在するならそのページを教えてください。--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 15:03 (UTC)
(インデント戻し)なんていうかな、一種の一覧記事としてメンテナンスの便も鑑み簡易に対応するというのが趣旨なんだが、まあ趣旨が伝わらないならこれ以上口を挟むのも(繰言にしかならないので)よしときます。一方、スーパーカーの過剰性能に絡めた出典は知りませんね。ただし、これはスーパーカーが厳密な定義を持たないという一端を持っても、厳密に全体の論として出典足りえる資料が得がたいと考えられるためですが。反面、スーパーカーの枠ではなくその枠内に含まれる各々の車種の性質を挙げれば、公式のスペック上からも「乗用車一般で扱うことのほうが無茶」な側面はいくらでも汲めるとはいえ、それらを更に羅列することは全く説明的とは言えませんね。ただし例えばの記述として「スーパーカーの代名詞にも挙がるランボルギーニ・ディアブロは最高時速300km/h超を叩き出すが、日本の公道ではその最高速性能を生かすことはできない。道路交通法違反となるためである。」というのは、客観的事実として出典以前に反駁の余地の無いように思いますけどね(同車のスペックシートと道路交通法第二節を出典として貼ってもいいし)、検証可能性という意味では(記事中にこう書けという意味ではありません)。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 15:57 (UTC)
スーパーカーで日本の公道を300km/hで走れば道路交通法違反、アウトバーンなら合法。モデルガンは日本の公道では持ち歩くのでさえ銃刀法違反。どちらも、実用品として日本の法律に対しては過剰。 過剰性能の定義である『利用者の要求する性能』に対してスーパーカーの性能が過剰であることの根拠は不明。
wikidediaは夜飛さんの個人的思想・嗜好の発露の場ではないことを認識されるべきだと思います。--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 17:12 (UTC)(修正)--Xyzgata 2009年9月16日 (水) 20:22 (UTC)
いや、なんだかな…「乗用車としての機能・用途」において「(最高速性能だけを取ってみても)過剰な性能になる」といってるんですが。もちろん、乗用車としてではなくインテリアだとかレースカーだとか植木鉢の台(脱線)としてみた場合には、関係なかったり過剰ではなくなりますが。モデルガンは関係ないでしょう。客観的な事実を私的な趣味思想だとみなすのは兎も角としても、せめてスーパーカーが一般愛好者向けには乗用車として販売されていることの延長にある部分だということは解ってほしかった。--夜飛/ 2009年9月16日 (水) 23:11 (UTC)
『「乗用車としての機能・用途」において「(最高速性能だけを取ってみても)過剰な性能になる」』とのことですが、『利用者の求める性能』に対して過剰なのですか? その出典はあるのですか?--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 01:01 (UTC)
あと、『設計目的による過剰性能』とは何を意味しているのですか?『設計時の目標性能が過剰』ということですか? --Xyzgata 2009年9月17日 (木) 01:05 (UTC)
(インデント戻し)…えーっと、それはつまり「日本でスーパーカーが乗用車として扱われていることの出典を示せ」ということですね。すみません、関係しそうな情報は分散し過ぎ多過ぎて示しきれません…とりあえずフェラーリ限定で2009年度だけでも輸入車新規登録台数は極端な増大傾向らしいですね。と、なんか余計な混ぜ返しな風味もあるのでちょっと息抜き。実は本件に連動してちょっと片手間に好奇心から方々を見て回ったときにちょっと変な…というか壮絶なニュースをみつけました。異例! ベンツ試乗事故で助手席の販売ディーラーを書類送検(産経MSN記事)ですが、警視庁東京湾岸署曰く逮捕理由として「『アクセルを踏むとすぐにスピードが出るので気をつけてください』などの適切な助言をしなかった疑い」だそうで…とまあ、いずれにしても「乗用車としては扱われていない」とみなすほうが無理があるし。もう少し、合理的に行きましょうよ。それでもなお態度を崩さないというのであれば、もう記事を見捨てようと思いますが。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 11:14 (UTC)
なお「設計目的による過剰性能」の意味だそうですが…小生のあずかり知らぬところです。小生に聞かないでその記述を行った利用者:Wikiner会話 / 投稿記録さんにお尋ねください。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 11:19 (UTC)
横から失礼します。他の比較対象と違い、自動車の場合、どこを基準にするかでオーバースペックであるかどうかが変わってしまうのが今回の論争の原因と推察しました。定義をつけて、一般公道を走ると定義した場合、とか条件付けをするなりしないと、スーパーカー論争は解決しないように思います。--Craford 2009年9月17日 (木) 11:21 (UTC)
そうですね。前提条件は説明の上で欠かせないと思います。いずれかのエンスージアストが購入したスーパーカーに(どこに満足しているかは別として)満足していることをもって、車両としての性能が公道運用において過剰であることを過剰性能だと表現することを否定したとしても、意味のない理由付けのように感じます。件のエンスージアストは、もしかしたら真っ赤っかなボディの塗装に満足しているのかもしれないし、各々の愛好家がどのような理由で満足しているかなどは一概に論じることのできる性質のものではない(スーパーカーの性質/魅力は最高速のみで語られうるものでもない)のですから。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 11:37 (UTC)
もう一度聞きます。
『スーパーカーの性能が』が『利用者の要求する性能』より『過剰』なのですか? その出典はあるのですか?--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 11:45 (UTC)
横槍ですが、アウトバーンでも制限速度のある区間と無い区間がありますし、300km走行を続けていれば捕まりますよ。—以上の署名の無いコメントは、61.123.76.200(会話履歴)さんによるものです。
質問を質問で返すようで申し訳ないのですが、そもそも「利用者の要求する性能」というのは何を指すのでしょう。というよりも、スーパーカーのオーナーは何を求めてそれらの製品を購入したのでしょう。そんなものは一概に言えるものではないし、その用途もユーザーによって様々でしょう。小生が述べているのは、そんなあやふやなものではなく、「乗用車として扱った場合」に限定しているのです。まあ「飾って眺めて楽しむため」とか「サーキットでレースカーとして運用する」場合には、最高速性能は関係なかったり理にかなったものでしょうが、「(公道で)乗るため」に購入したユーザーにとって、その最高速性能は必要になるのか…という以前に、使うことができますか?これ以上、同じところにこだわるのであれば、もはや合理性で扱える以前の理由付けと考えます故、記事を見捨てる所存です。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 11:56 (UTC)
冒頭文に『過剰性能とは、機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。』とありますが、これを説明するために具体例をあげているのではないのですか?--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 12:07 (UTC)
ならば、利用者が乗用車として用いる場合、道路交通法に定められた制限よりも遥かに高い最高速性能(3倍超)は「求められる性能よりも更に高い性能ではない」とできうるだけの論拠を示しなさい。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 12:16 (UTC)
具体例を記述しているのは夜飛さんであり、その根拠・出典を提示する義務は夜飛さんにあります。
私に根拠を求めるのは、悪魔の証明を要求していることになります。--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 12:22 (UTC)
(インデント戻し)?…根拠や出典足りえる情報はもう示しましたが?Xyzgataさんのしていることは、自分が気に入らない記述に根拠のない難をつけて否定しているだけですね。小生が求めているのは、悪魔の証明ですらありません。判ぜられる限り明らかに答えが真にならない命題をXyzgataさんが主張しているため、その根拠を求めているだけです。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 12:28 (UTC)
具体例をあげる場合は、冒頭文の『過剰性能とは、機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態、またはその性能を持つ機械装置を指す。』に関する例であるべきだが、その根拠・出典が明記されていないと思います。
根拠や出典足りえる情報を示したをおっしゃられるなら、もう一度コピペしてください。--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 12:35 (UTC)
[9]において、乗用車として扱われていること(車両登録がなされている)および公道でスピード出し過ぎればどうなるかも示しましたが、それ以前にもランボルギーニ・ディアブロのスペックシートと道路交通法第二節という一意で参照可能な資料の情報も示しましたが?その態度だけでも、Xyzgataさんが相手の発言をろくに読んでいないことが確認できました。というよりも、事物への理解と論理的思考が成されていないことが良くわかりました。残念ながらXyzgataさんには事物を説明するという意味において、百科事典であるWikipediaにふさわしい行動が期待できません。反論のためだけの反論ではお話になりません、さようなら。--夜飛/ 2009年9月17日 (木) 12:44 (UTC)
それは、『制限速度を超過する性能を有している』ことの根拠です。
冒頭文の『過剰性能とは、機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態』であることの根拠にはなっていません。--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 12:59 (UTC)

本ページの削除について

『過剰性能』のページは、
削除対象になるもの ケース E: 百科事典的でない記事
  • 独自の研究結果の発表
  • 百科事典的な記事に成長する見込みのないもの
  • 百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事
に該当するのではないでしょうか?
理由は、
(1)『過剰性能』、『高性能』、『低性能』などなどは、百科事典の独立した記事にするほどの著名性・特筆性がない。必要なら『性能』の一項目として記述するのが妥当。
(2)英語版wikipediaにも、『over quality』『over spec』『over specification』などのページは存在しない。(積極的な理由にはならないが)
(3)『過剰性能』、『高性能』、『低性能』などの具体例は、世の中に無数に存在するが、その中の数個、数十個を記事にするのは独自研究に該当し、現状の記事の大部分は独自研究の羅列となっている。
です。
ただ、工学や経営学などに、『過剰性能』に関する研究分野や体系的な分類・分析などがあるのならば、百科事典的な記事に成長する可能性はあるとは思いますが、ネットで検索した限りでは見当たらない。
よって、現在の状態では、『過剰性能』のページを削除し、要すれば『性能』に統合するのが妥当だと思います。いかがでしょうか?
賛同される方がいれば、削除依頼を出そうと思います。--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 17:44 (UTC) (修正)--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 20:17 (UTC)
お世話になります。Xyzgataさんのみ積極的に動いていて、まだ本ページの執筆関係者の意見がばらばらな感じなので、現時点ではコメントとします。
ご提案の内容は理解しましたが、「性能」に統合するとなると、現在「性能」から例として示されている、「分解能」「解像度」などの項目も、本項目と同様に「例示」で示されているため、どのように統合していくか考えないとならないような気がします。上記項目を「関連項目」にする手もありますが、あまり抽象的にしてしまうと、百科事典として使いにくくなるため、扱いが難しいように思います。
あくまで、「性能」という位置づけだけ見て、
  • 必要以上の性能を持つ場合、「過剰性能」と見なされる場合がある
という表し方もありそうですが、分解能、解像度のような性能は、過剰性能の考え方が薄く、良ければ良いほどいいといった傾向があるため、過剰性能との関係づけが難しくなりそうです。
また、この理由付けで過剰性能を表すと、コンピューターのパーツの改良(水冷化や、クロックアップなど)を行い、最高性能を求めていくために使用される、『「オーバースペック」化する』という言葉をどこにカテゴライズするかという、また別な問題がおきそうな気もしています。
例示については、完全に消去するのではなく、読み手の立場から考えて、代表的なものとしてこういうものがある、という意味で例示するのはありだと思いますので、本項のような長文説明でない形で例を示せば良いのではないでしょうか?
初版から4年も執筆されている記事ですので、単純に独立項目として必要ないから削除というスタイルはとれないです。結果的に統合という形で必要となる記事を移動しつつ、元となるページを消す場合、元となるページを消す形となりますので、削除依頼という形ではなく、統合提案でWikipedia全体に公開して意見を募った上で進めなければならないと思いますので、かなり大変な作業になるかと思います。そういう流れになった場合にはご協力いたしますが。
いかがでしょうか?--Craford 2009年9月19日 (土) 07:25 (UTC) --Craford 2009年9月19日 (土) 07:41 (UTC) 一部加筆修正
コメントありがとうございます。
性能』の例として、「分解能」「解像度」と一緒に「過剰性能」が記載されている件ですが、「過剰性能」を削除して問題ないというか、削除すべきだと思います。理由は、「分解能」「解像度」などは、性能の一分野を表すものであり、「過剰性能」、「高性能」、「低性能」などは性能の評価を表すものであり、同列に並べている現状に問題があると思います。
『分解能、解像度のような性能は、過剰性能の考え方が薄く、良ければ良いほどいいといった傾向があるため、過剰性能との関係づけが難しくなりそうです。』とのことですが、これは、あらゆる性能に関して言えることで、それがこのページの混乱の要因になっているのだと思います。また、仮に分解能・解像度に過剰性能の概念がないとしても、問題ないと思います。
パソコンのオーバースペック化というのは、多分、「パソコンを買った状態のカタログスペックから、改造して高性能化する」という意味だと思いますが、それは、現状の『過剰性能』にも含まれていない概念なので、別の話になると思います。『オーバースペック化 (パソコン)』のようなページを作れば、改造のノウハウなど、いろいろことが書けそうですがが。。。
具体例については、過剰性能の分類・分析などの理解の助けに記載するのは良いと思います。(現状のスーパーカーのような個人的知識・嗜好の披露でなければ)
>そういう流れになった場合にはご協力いたしますが。
よろしくお願いいたします。--Xyzgata 2009年9月19日 (土) 17:59 (UTC)
Crafordさんが書かれてるように「読み手の立場から考えて、代表的なものとしてこういうものがある、という意味で例示するのはあり」という点があると思いますので、一気に記事を削除する破壊的な行動はノーですし、この状況でページを削除しようと言う行動はウィキペディアでも推奨されて無いと思いますが・・・
というのも、既に多くの方がこの記事に対して編集を行ってる事実は、過剰性能と言うものが比較的認知されてる裏返しと言えるわけで、問題点を洗い出して記事を修正していく方向の方が建設的であろうと思います。
ただし、記事の修正の中には、Xyzgataさんが少し書かれてるような「明らかにおかしい感じがする」部分は消去するなり言い回しを変えるなりしても良いと思います。
特に性能が高いとか低いとか言う部分を個人の主観で論じるのはウィキペディアのガイドラインにもある「大言壮語をしない」にも抵触するかと思いますので、客観的な指針との比較をどうするかなど、消去するにも何と比較して不要かと言う部分は論じる必要があります。でなければ、不要と言うのも単に書き手の主観が入り込む余地がありますので。主観が入り込むイコール独自研究につながる話なので。
いずれにしても、記事が不要かどうか、削除すべきかどうかについては、削除するのではなく記事を問題無い方向に作り直す方が良いと私は思ってます。
ただ、性能なんてのは、時代とともに基準になる値が変わるものですから、その部分を加味しないと収拾はつきません。出たときは誰も使わないようなすごい性能を有していて、世界一と言われたものでも、今ではとても使えないなんて場合もあります。それを今の時代から見ると過剰性能とは言えないでしょうが、出た当時に見たら過剰性能とも言えるかと思います。また、出た当時には誰も使わない性能だったのですが、それはその後他の条件を整備することで使えるようになる性能だとしたら、出た当時の過剰性能と思われる性能は、将来の条件整備を見越していたわけですから、これを過剰と呼ぶのはおかしいかとも思います。
このように、過剰かどうかの判断というのが、そのものの歴史の中で変化しているというのが大きな問題点ですから、どの段階で比較するのかは決めておかないといけないでしょうね。
ちょっと書きましたが、方法とか実際の手直しとか、そこまでやってる時間はありませんので、私が直接手を下してどうこうというのはあまり出来ないのは恐縮ですが・・・--永尾信幸 2009年9月20日 (日) 03:01 (UTC)

例えば[10][11][12][13]等等、グーグルで調べただけで過剰性能という言葉が世間一般に普通に通行しているのは解ります。削除の対象であるとはとてもいえないと思います。61.123.76.200 2009年9月20日 (日) 05:05 (UTC)

過剰性能と言う言葉が一般的でないから削除・統合すべきと言っているのではなく、
『過剰性能』:利用者の要求に対して過剰な性能。
『適正性能』:利用者の要求に対して適正な性能。
『性能不足』:利用者の要求に対して不足な性能。
『高性能』 :通常より高い性能。
『低性能』 :通常より低い性能。
このような言葉を独立した記事にする必要性・特筆性がないんじゃないですか? という話です。
『○○な△△』を意味する『○○△△』のページをつくり、執筆者が思いつく『○○△△』な具体例をリストアップする。という行為をしていたら、収拾がつかなくなるでしょう。
例もあまり必要とは思えないんですが、例を書くなら、特定の商品を過剰と断定するのではなく、『要求速度120km/hの自動車に、最高速度200km/hの性能を与えること』とか、『想定使用期間6年の小学生向け商品に、30年の耐久性能を与えること』とかで十分な気がします。--Xyzgata 2009年9月20日 (日) 16:48 (UTC)
  • 『○○な△△』を意味する『○○△△』のページをつくり、執筆者が思いつく『○○△△』な具体例をリストアップする。という行為をしていたら、収拾がつかなくなるでしょう。
ウィキペディアには検証可能性というルールがありますので、そんな思いつくままにリストアップするなんて事はできません。ですので、対象になるような記事はそう多くは無いでしょう。ですので収拾がつかなくなるような事は無いと思いますね。上の方の節「概要が醜い・・・」で検証可能性へのリンクを張って戴きましたが、Xyzgataさんの方も再度内容を確認して戴ければと思います。
ある程度シンプルなもので良いのではとは私も思いますが、記事については認知度が高いのですから、それなりに発展させる事を考えるのがウィキペディア的には建設的じゃないかと思いますね。
例えば「大言壮語をしない」の中でも説明されていますが、客観的事実を羅列しながら読者にそれを判断させるという方法があります。記事は壊すことでなく作る事を考えていけば良いと思いますね。
まぁ、ウィキペディアで言う「事実」は検証可能性に基づく「事実」であって、本当かどうかは二の次にならざるを得ない点はありますが。--永尾信幸 2009年9月21日 (月) 05:25 (UTC)
>このような言葉を独立した記事にする必要性・特筆性がないんじゃないですか? という話です
そういう話であるならば「私はそうは思わない」と述べるしかありませんね。おそらく他の方もそうだと思います。はっきり言ってそれはあなたの主観に過ぎないでしょう?
例え話をして見ましょう。「身長が高い(低い)」というだけでは特筆性は無いでしょう。しかしそれが「世界一身長が高い(低い)」だったら?極端な事例というのは大体の場合、特筆性があります。高性能・低性能が特筆性が無いとしても過剰性能に特筆性が無いというのは論理として成り立ちません。私が挙げた雑誌記事は過剰性能という概念で一冊の雑誌が作れることを示しているわけで、これをして特筆性が無いとはとても言えません。
日本の携帯電話は過剰性能によって世界市場では受けいられず、携帯電話のガラパゴスと揶揄されるのは有名な話です。これならば出典も豊富ですし、例として挙げるならばこれが良いかと思います。
更にこのように携帯電話会社の経営方針に関ることに関して過剰性能という概念が重要視されている現実を見て、これを百科事典として独立項目にすべきではないというあなたの意見は承認できません。61.123.76.178 2009年9月21日 (月) 14:24 (UTC)
削除・統合・現状のまま、どれが妥当かは最終的に主観の刷り合わせですから。。私も自分の主観が必ずしも正しいとは思っていないので、いきなり削除依頼を出さずに、このようにご意見を伺っているわけです。
まず、『過剰性能とは、利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態』ですから、例えば、要求性能170馬力に対して200馬力も10000馬力も過剰性能であり、超高性能=過剰性能ではないと思います。
googleで検索すると、(なんかおかしいような気もしますが)
"高性能" -wikipedia に一致する日本語のページ 約 6,790,000 件[14]
"過剰性能" -wikipedia に一致する日本語のページ 約 8,580 件[15]
ですが、読んで字の如くの『形容詞+名詞』の『高性能』『過剰性能』『高身長』などは、『性能』や『身長』のページに記載するのが妥当じゃないでしょうかと言う話です。
同じ『形容詞+名詞』でも、過剰数のように、『過剰数』三文字で学術用語になっている場合は特筆性があると思いますが。--Xyzgata 2009年9月21日 (月) 23:28 (UTC)
>このようにご意見を伺っているわけで
であるならば。前にも言いましたけど「私はそうは思いません」。故に削除にも賛成しません。あなたは「ご自分の主観」を述べるのみで外部からの評価・根拠は示されないままです。その状態では賛成はできません。削除依頼に出されてもかまいませんが、現状では反対多数になることは目に見えてますよ。何らかの説得力ある根拠を示してください。61.209.180.206 2009年9月23日 (水) 13:10 (UTC)

具体例の削除

※節を分けました。--Xyzgata 2009年10月4日 (日) 02:42 (UTC)

その後、何ら反論無しにいきなり「出典なしにつき、過剰性能とされた歴史上の例を削除」などと述べて削除するとは。今後、同じことを繰り返さないようにお願いします。

あ、いちおう言っておきますが、「出典無き記述は削除」の原則は解ってますよ。それを盾とした強引な編集をとがめているのですよ。61.209.180.206 2009年10月3日 (土) 14:20 (UTC)
要出典明記のタブを貼って2週間経ちましたが、一切、出典が明記されませんでしたので、Wikipediaの三大基本方針の一つ、検証可能性
1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
に基づき削除しました。
もし、再度掲載したいのであれば、出典付きで再掲載してください。
『「出典無き記述は削除」の原則は解ってますよ。それを盾とした強引な編集をとがめているのですよ。』とのことですが、一つも出典を提示しないで削除を拒否するのはどのようなルールに基づいた行動なのでしょうか?--Xyzgata 2009年10月3日 (土) 14:40 (UTC)

記事を破壊する行為を止めなさいと言っているのですよ。出典無き記述を削除するならするでこのノートで何らかの告知をすれば良いのに、記事自体を削除するかどうかを論じていたはずが、それが受け入れられないと見れば部分削除という行為に出るのは単に「気に食わないから削除」としか見えないのですよ。結局、この記事自体に対する削除提案は取り下げということで良いのですか?61.209.180.206 2009年10月3日 (土) 16:15 (UTC)

上の『概要および具体例おいて、独自研究は削除されるべき』、『本文の「概要」は酷すぎると思う』の節で、
  • 概要で記述されている具体例、歴史上の例は、全て、
(1)出典が明示されていない。執筆者に出典を明示する意思がない。
(2)冒頭文の定義『過剰性能とは、機械や装置の利用者が求めるよりも、更に高い性能を持っている状態。』に該当しない。
(3)例の選択が恣意的で、独自研究にあたる可能性が高い。
以上の理由より、即時削除でいいと思います。--Xyzgata 2009年9月17日 (木) 13:45 (UTC)
など、再三出典の明示をお願いし、要出典のテンプレートも貼り付け、2週間待ち、一件の出典さえも提示されなかったの上での削除です。
上の(1)~(3)をクリアできる具体例があれば掲載することには反対しません。
ページの削除は、統合の方向で考慮中です。--Xyzgata 2009年10月4日 (日) 03:04 (UTC)
そもそもさぁ、Xyzgataさんって、この記事の編集を一度もしてないんですよね。(削除とかそれに伴う物を含まない、実際に記事を組み立てようとする為の編集のこと)この記事の内容についての知識がどの程度あるのでしょう?下でも書いてあるけど、自分がおかしいと思うのは良いけど、それを元に行動を起こしちゃいけないと思いますけどね。以前も東京モノレールの昭和島駅で「通過列車があった」のような記述に対してそのことを知らない編集者が要出典を主張して、出典が出ないから削除するような行為[16](2006年9月13日あたりの要約欄参考)に出ていた事があったんだけど、9月14日に編集した人が「古い時刻表を見ればわかるはなし」と書いてるように、そんなのはその記事を書こうとするきちんとした知識がある方ならわかって当然なんですよ。それに対して9月13日に書かれた方は自分が知識が無いのを棚に上げて出典を要求してるんですね。
こんな人を小馬鹿にした行為は無いですよ。で、出典を出された後に自分の非を認めるでもなく雲隠れですよね。実社会じゃありえません。実社会では裏も取らずに軽率な発言や行動に出たら、必ずその人に対して軽蔑の目が向けられます。ウィキペディアは匿名性があるので実社会では軽蔑されるような行為でも平気で出来てしまう嫌いがあります。本来なら9月13日にそこまで偉そうに書いた方は、出典が出たなら謝罪なりするのが普通ですが、個人が特定できないのを良い事に雲隠れですものね。
あと、再三お願いって、お願いされた覚えは無いけど。書いたから全員に伝わってるなんて思わないことですね。二週間ってのも短いなぁ。社会人が多いんだから、そうそう見れないし、調べれないからねぇ。で、過去に記事を書いた方もウォッチリストに入れてなければ、どんな話が出てるかもわからないけど。本当に出典を示してもらいたかったら、記事を書かれた方の会話ページなどにお願いしに行かれましたか?それくらいしたら「お願いした」だの言えるとは思いますが、この流れでお願いしただのどうだの言われたくは無いですね。--永尾信幸 2009年10月4日 (日) 03:21 (UTC)


今回はえらい強引ですねぇ。記事を破壊することはウィキペディアでは推奨されてないんですけどねぇ。もっと建設的に考えないと。
出典が無いから削除ってのは、よくウィキペディア初心者が陥る事が多いようで、その多くは単に「要出典」を出した方がその事についての知識が無いケースが大半です。
要は「なに、これぇ、ぼくこんなのしらなーい」「誰か教えてぇ」みたいな感じで要出典を使うわけで、それはある意味とっても迷惑な話です。だって、ウィキペディアは学校では無いですから、そんな「てめえが無知なだけなのに、なんでそれをわざわざ教えなきゃならんのか」って事になるのよね。だから、要出典を張って、更にとっとと削除する方ってのは多くの方から風当たりが強かったりします。
出典ですが、EF200はJRガゼット1999年10月号にJR貨物の方がEF200が「地上設備との協調がはかれていない」点を書いてあり、EF210はその点を配慮した旨記載されています。101系については鉄道ファン2006年4月号を始め多くの文献に「使ってみたら地上設備が追いつかなかった」の記載があります。オーバースペックとしての出典だけどね。
だから、なんて言うのかなぁ。削除とかするのは良いんだけど、削除しようとする側も「だって僕知らないもの」じゃなく、自分なりに調べて欲しいんですよね。少し前のノートの会話で「リサーチ不足」に少しいらだったようですが、このような事を続けていくと表だって言われなくても、やっぱりXyzgataさんがちゃんと裏を取って発言しないと言う風に感じる方は多いんじゃないかと思います。
最初から削除ありきで事に当たってるようにしか見えないんですよ。先にも書きましたが記事は破壊するものではなく伸ばすものです。記事の中に問題点があったとしても、それを解決するような方法も考えていかなければならないかと思います。
すぐに規則がどうのこうのと言いますが、それなら他の記事も見て「出典が無い」とわめいてきたらどうでしょう。あちこちに出典の無い記事なんてありますよ。その多くは、その記事の内容を研究してる人だったら、有無を言わさず出典があることがわかってるものとかなんですよ。だから、誰も「要出典」なんて書かない。逆にそう書くのは「そのことについての知識が浅い方」だから「知識もないのに編集するな!」と思われちゃうわけです。
「こっちは青信号渡ってる(ルールにのっとり)んだから、誰からも何も言われる筋合いはない」みたいな考えでウィキペディアに参加するとトラブルは絶えませんよ。--永尾信幸 2009年10月3日 (土) 16:38 (UTC)
『過剰性能とは、利用者が求めるよりも、更に高い性能』という、客観的評価が難しい事項の具体例を記載するのに、出典が無いのは論外だと思いますが、検証可能性・中立的な観点・独自研究は載せない を満足する具体例の記載には反対しません。--Xyzgata 2009年10月4日 (日) 03:27 (UTC)
私は出典を出した内容について記事を書いたわけじゃないですが、ちょっと調べればすぐに出てくるってのは、何度もそういうのを読み聞きしていたからです。だから、他の人も要出典などと出さなかったわけで、マグナムとかなんとかありましたが、あんなのも専門に研究されてる方からしたら「出典など山のようにあるけど、そんなのちょっと本読めばわかるだろ」と返されるだけに感じます。
私もこの記事自体はある程度否定的なんですが、それはXyzgataさんも書かれた「いくらでも書けるじゃないか」みたいな部分で、実は過剰性能にかかわる検証可能性を満たすような記述なんて、かなり多くの文献で多くの物に対して書かれています。
それを、いっぱい出されたら困るなとは思ってます。Xyzgataさんとの考えの違いは、私はそういう記述が多く文献にある事を見て知ってるから怖いと感じてるのであり、Xyzgataさんは検証可能性を満たさない記述が多くなる点で怖いと感じてる部分でしょうか。
また、私がこれはまずいなと思うのは、例えば101系などでも複数の文献でオーバースペックの記述があり検証可能性を満たしていても、実際に晩年は性能不足でした。そう考えると過剰性能で書いても良いのかなって疑問があるわけです。これについては何が良いのか私もよくわかりません。
だから、内容をよく精査すると言うのは、検証可能性の有無という入口部分での話ではなく、それは満たしているけど書いて良いかどうかという部分も重要かなと思います。--永尾信幸 2009年10月4日 (日) 03:56 (UTC)
  • 「スーパーカー△△は500馬力」、「微分積分はニュートンが発明した」など、客観的事実に関する記事の場合は、誰でも調べられるものだから、必ずしも出典が必要だとは思わないが、
「スーパーカーは過剰性能である」、「長野県人の60%は幸福だと感じている」など、人の主観に関する記事の場合は、アンケート調査でもしないとわからない事項だから、必ず出典付きで記事にする必要がある。
と思いますが、いかがでしょうか?
  • 結局このページは、ここに集まった数十人?が、自分の関心のある分野から、自分が過剰性能と思っている製品をリストアップしているだけで、検証可能性も、独自研究の回避も、中立性も、守られていないと思います。『利用者が過剰性能と思っている』ことを示す出典がないことには議論にもならない。が、出典があっても独自研究になる可能性が高いでしょう。
  • 「出典など山のようにあるけど、そんなのちょっと本読めばわかるだろ」 → それなら、記事中に出典を一つ記載すれば、検証可能性に関する問題は永遠に解決します。どうして記載しないのか不思議です。--Xyzgata 2009年10月4日 (日) 10:17 (UTC)
要約欄に出典を書くとか、参考文献欄を活用するなど、出典を示す方法はいくつかあるのですが、なかなか普及はしてないですね。多くの方が「何かで読んだのは間違い無いから」と記憶だけで書くケースも多い点も原因の一つではないかと考えています。(記憶にあっても、編集前に元の文献を再度チェックするのは編集者の当然の義務なんですけどねぇ)
また、ウィキペディアは百科事典ですから、その記事の編集と言うのは専門的知識を必要とします。私は三大方針なども大事でしょうが、個人個人が自分の専門外の記事の編集には手を出さない事も大事ではないかと思っています。というのは、『東京』という記事があって「東京は日本の首都であり~」という書き出しに対して知識が無ければ「東京が日本の首都である出典を示せ」なんて書きかねないわけです。
そんな客観的事実をと言うかも知れませんが、客観的事実である点は誰が判断するのかという話で、これは独自研究につながる可能性が多いにあるわけですから「みんな知ってる当然の話だから」だけでは出典を出さない理由にはなりません。『四国』という記事に「四国は4つの都道府県からなる」とあった場合、まだ日本の都道府県を学んでいない小学生が「四国は5つだと聞いた覚えがある、4つであるという出典を示せ」なんて言われた時にゃって感じですね。
つまり、出典明記を厳格に運用すると、このような馬鹿げた「要出典」などが氾濫することになるわけです。たぶん101系やマグナムの事など「東京は日本の首都である」と同じくらい専門家の中では有名な話なんじゃないかと思います。結局、先にも書きましたが「要出典」を貼る方にもその記事に対しての知識が問われます。
私は何の知識も無いのに「要出典」を貼るのは、ある意味マナー違反だと思ってますし、全体の生産性を下げる行為だと思ってます。また、有能な編集者がそのような馬鹿げた奴と一緒にプロジェクトなど出来ないからとウィキペディアから出て行くかもしれません。それはウィキペディアにとって損失です。
だから、そのジャンルを研究していたら当然わかるような内容について知識も無い方がしゃしゃり出てきて「要出典」など貼る必要は無いです。そもそも知識が無いなら編集しないのが一番です。私は今回の削除などでも出典についての話はある程度Xyzgataさんに同調できるとしても、内容を精査せずに削除してる点は非常に問題であると考えます。
二週間お願いしたけど返答が無かったので削除したと言っても、実際にこの記事を加筆した編集者に連絡を取った形跡もないですし、本当にこの記事に出典があるかどうかを確認したければ、まず各々のノートページで意見を伺う事から始めるのがスジではないかと思います。
自分が知らない事の確認や自分が疑問に思う事の相談というのはウィキペディアにとって重要な事です。チェック機能が働いてると言えるからなのですが、それはあくまでもチェック機能であって「要出典」というのを記事を破壊するために使用してはいけないのは、このプロジェクトの本質を考えれば自ずとわかる話です。
ですので自分が記事の内容について疑問に思うなりするなら、まず会話ページで加筆者に対して「この記述に疑問があります」みたいな形で問い合わせる所から始めるべきでしょう。加筆者が今見てるかどうかわからない、記事の要約欄やノートページでうだうだ言っても始まりません。「要出典」と、人の加筆に対して疑いの目を向ける行為をするわけですから、当然、それだけの責任を「要出典」を貼るものも持つべきでしょう。その責任が負えないのであれば、簡単に「要出典」は貼って欲しくないです。--永尾信幸 2009年10月5日 (月) 00:48 (UTC)
101系が過剰性能であることが有名な話なら、文献もたくさんあるのでしょうから、永尾信幸さんが記事に出典の数十文字を記入すれば、検証可能性の問題は永遠に解決ですよ。もし、文献がないのなら専門家という偏ったコミュニティの偏った認識かもしれません。
永尾信幸さんは、『101系って、本当に利用者が過剰性能と思っているの?』と疑問にもつ読者に対し、永遠にノートで論破していくおつもりですか?
繰り返しますが、『△△のうどんはしょっぱい』、『JRの1010系は過剰性能』など、利用者の主観的な基準があって、初めて評価可能な事項を記事にする場合は、必ず出典が必要だと思います。これを専門家云々や、『東京は日本の首都であり~』の話と混同するようでは、お話になりません。--Xyzgata 2009年10月5日 (月) 03:21 (UTC)

他のジャンルは知識が無いので分かりませんが、鉄道車両関係が全部削除されていたのでビックリしました。「出典が必要」ということと、「出典が呈示されなければ、ノートで議論中のものでも、関係無く削除してよい」というのは全く別の次元の話ですよ。明らかに記事の破壊、コミュニティーの破壊です。このような行動はWikipediaでは歓迎されません。今後は絶対に慎んで下さい。L25.203.l03.26 2009年10月5日 (月) 09:08 (UTC)

101系が過剰性能であるような話は東京が日本の首都でありと同じ程度の話なんですよ。それすらわからずに記事に参加するような事は止めて欲しいと言うことです。要は、無知なのに編集しようとする姿勢がこういう結果を生んでるという事に気がつかないのですか?大和が三大無用の長物だとかその程度の知識で大和を語ろうとするのと同じなんです。だからリサーチ不足だって言ったんですが、そういう記事の内容について無知な方がルールがどうのといっぱしのことを言って乱入してくるから平和に事が進んでるのがいたずらにトラブルわけで。
ちなみに101系の件は別に私は加筆者じゃありません。既に出典は示しました。なのに削除した記事を元に戻そうとしないXyzgataさんは何様のつもりなんでしょう(笑)
私にとって101系の記事が消えようが残ろうがどちらでも良いのですが、Xyzgataさんのような感覚で他の記事などに「要出典」とか書かれたら迷惑この上ないんで、ここであーだこーだ言ってるわけですよ。
ちなみに「日本の首都は東京である」と同じ程度の低レベルな話をXyzgataさんがしてるって事に早く気がついて下さいね。
本当に、記事の内容もわからないのに「要出典」だとかチャチャを入れて欲しくないですね。私がXyzgataさんに限らず知識もないのに要出典ばかり貼り付ける「教えて君」に神経質になるのも、迷惑だからですよ。
そんなの自分で調べろよ、すぐに出てくるから。レベルの話です。それが出来ないのにこういう記事の編集は止めて欲しいですねぇ。Xyzgataさんは全く建設的な事をやってないって事も合わせて良く自分の行動を省みて下さい。--永尾信幸 2009年10月5日 (月) 09:23 (UTC)
それと、うどんがしょっぱいとか、101系は過剰性能だとかは、利用者の主観的な基準ではなく、文献に記載されていたら何ら問題ありません。自分が知らないから編集者の主観だと言う考えもちょっと困りますね。だから、反論するにはその記事の内容についての深い知識が必要なんですよ。本来「要出典」と言える方は、そのことに対して深い研究をしてる方が「私は今まで多くの文献を見てきたが、この説は聞いた事も見たことも無い、どこに出典があるのか教えてほしい」という深いレベルで使われるものです。Xyzgataさんのように記事の内容について無知な方が「俺、知らんから教えてくれ、教えてくれないと書かれてる事はウソだって事で削除しちゃうぞ」みたいな低レベルな使われ方はして欲しくないって事です。
で、記事を書かれた方に出典のお願いはしていってるのですか?ここまで記事の破壊までに至ったわけですから、それだけの責任は持って欲しいものです。でなければ、単なる「自分が知らないからぐちゃぐちゃにしただけ」のアラシです。--永尾信幸 2009年10月5日 (月) 09:29 (UTC)
専門家って書いたから主観的意見と思われたかな?専門にしていたら出典がある事なんて誰だってわかる、それはつまり日本の首都が東京であると言うのと同じ程度の話って事です。
だから、私から見たらXyzgataさんが101系について出典がどうのと言うのは、「日本の首都が東京である」というのに出典を示せと言ってるくらいの話だって事です。
それだけ自分の無知さ(ここで語られてる内容の話ですよ、Xyzgataさんがどういうジャンルに長けてるかとか知りませんが、そちらも含めて全てを示すものではありません)を棚に上げて「出典・出典」がみじめに見えるし、そんなどこにでも出典があるものに対してぐちゃぐちゃ言うなよ、そう上で書いた東京モノレールの昭和島の記事と同じなんですよ。
出典を書いたら済むじゃなく、知りもしないのに記事を疑ってかかるXyzgataさんの姿勢がおかしいわけです。ここでの会話でも出典を出しても「そう、それが当然」だけで終わらせてますが、結局それなら「教えて君」ですよ。
そうそう私が出典を出した記事はもう見て貰えましたか?出典が知りたかったわけですから、教えて貰った以上、それを確認する責任もXyzgataさんにはあるのですよ。
それだけ「要出典」をぶつける行為と言うのは、それまでの執筆者をバカにした行為である事をよーく考えて下さいね。
実社会で、それをやってみなさい(笑)どうなるか・・・他人が言った言葉に「それは信用できない出典を示せ」とくってかかり、出典を示されたから「あ、そう」で終わって良いとは普通の感覚の方だと思わないはずです。
そう考えたら、出典がある記事に対して「要出典」などと書いて、自分自身その事柄に無知であるというのは、どれだけ失礼な事を言っているか。実社会と照らし合わせて考えたらすごくよくわかると思います。
いずれにしても、記事を破壊したままなんですから、加筆者に対して「出典をお願いします」と言って回るくらいはしてくださいね。このままじゃあまりにも無責任です。--永尾信幸 2009年10月5日 (月) 10:10 (UTC)
ちょっと考えすぎかも知れないですが会津観光史学の件でXyzgataさんの会話ページにCrafordさんから編集の内容について「出典をお願いします」と書かれたのが9月16日の午前中、そして、この過剰性能で「要出典」などを言い出したのが同じ9月16日の夜。何か自分が言われた事の当てつけをこのページにぶつけたような感じすらします。
思い過ごしだったら良いのですが、ここでこれだけ「出典の明記」を主張するXyzgataさんが、その直前に「要出典」の指摘を受けている訳ですから、普通に考えると「出典の有無をどうこう言える立場に無い」と私は思いますけどね。自分が出来てないことを、どの口が人に対して言えるのかって思います。
また、せっかく会話ページにお願いに来られてるんだから、人に言う前に自分が襟を正すのが当然のことだと思いますし、Xyzgataさんが加筆して指摘された会津観光史学の記事について優先に処理しなければならないはずではないでしょうか?
その責任を果たさずに、こんなところで出典がどうのとの議論を続けていること自体、なんだか手順を間違えてる気がしますね。
まず自分が編集した内容には責任を持つこと。
この例のように自分自身の編集に責任を取られていない方に三大方針がどうのこうのと偉そうに言われたくは無いです。
更に、このノートと平行してチェスのノート[17]にも参加してるようですが、その中でXyzgataさんが主張してるWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用なんてのは、まさにこのノートでXyzgataさん自身が行ってることに他ならないんです。
ウィキペディアのルールってのは、どんな場面でも何でも解決できる魔法ではありません。矛盾点はやはりあると思うんですよね。中立的な観点と言っても、複数の主張がある場合で、検証可能性を満たす文献がある一方の主張が書かれたものしか出てなかった場合、もう一方の主張を引き合いに出すことが出来ません。それどころか、もう一方の主張があると言うこと自体「独自研究」と言われかねません。報道管制下におかれるような状況などの思想や出来事などはこれに当たるような事も多いかと思います。それが本当に中立な観点かどうかと言うとやはり疑問ですが、ウィキペディアではそれ以上の事をすることができません。
これは一例であって、この議論には関係無い話ですが、結局ルールを盾に何かを主張するのは良いのですが、それが絶対だと思わない方が良いと言う事ですね。--永尾信幸 2009年10月6日 (火) 03:40 (UTC)
会津観光史学・チェス・過剰性能の各ページでの私の姿勢は一貫しているつもりですよ。
会津観光史学は、出典なしを理由に文章を削除されても文句は言いません。出典付きで復活させるか、誰か詳しい方の加筆を待つだけです。そういう過程を経てwikipediaの記事は洗練されていくのだと思いますが。
チェスの方は、出典のない文章を含めて案出しをしている段階で、自分の主張は出典なしでもOK、他人の意見は一言一句出典を要求するという、議論を拒否するような態度を改めるように言っているだけです。
過剰性能については、何度も言いますが、
  • 『△△のうどんはしょっぱい』、『JRの1010系は過剰性能』など、利用者の主観的な基準があって、初めて評価可能な事項を記事にする場合は、必ず出典を明記すべき。
  • 『○○社の□□は失敗作』、『JRの1010系は過剰性能』など、利害が生じる事項で、批判的記事を書く場合は、必ず出典を明記すべき。
このように二重の意味で、『JRの1010系は過剰性能』などの記事を書く場合は、必ず出典を明記すべきであり、有名な話だから出典はいらないと言う態度はwikipediaでは許されない態度だと思います。
このような微妙で利害が生じる事項を羅列しながら、出典が1件もない。出典を要求すれば、『wikipedia内のリンクをたどれば検証できる』、『専門家の間では有名な話だから出典を出す必要はない』など、耳を疑うようなことを主張し続け、ついには『素人は口を出すな』と出典を求める側を非難する始末。
2週間の猶予を持って、記事を削除することがそれほど強引とも思えませんし、出典付きでの復活を強引に削除するつもりもありません。
私の行動が、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用と思うなら、私に対してアクセス禁止の申請でもなさればよろしいんじゃないですか?
それよりも、永尾信幸さんは、私を非難することが目的と化して、訳が分からなくなってるんじゃないですか?--Xyzgata 2009年10月6日 (火) 05:29 (UTC)
永尾信幸さんの、出典は必要ないという意見は、永尾信幸さんの意見として尊重されるべきものですが、
同時に、私の出典が必要だという意見も尊重されるべきであり、2年前から具体例が適当なのかどうかの議論が続いており、出典が必要との私の意見が荒唐無稽な意見というわけではありません。
双方の意見を尊重すれば、出典が必要ということになります。
『素人は口を出すな』と説き伏せようとしている永尾信幸さんこそ、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないではないですか?--Xyzgata 2009年10月6日 (火) 06:03 (UTC)
私の事より、Xyzgataさんの事を書いたんですが、そこはスルーですか?
ウィキペディアが百科事典であることを考えるなら「素人は口を出すな」と言われても仕方ないでしょう。
ただ、現実的には誰でも編集できることがウリですから、素人を排除することは出来ません。
であるなら、素人なら素人らしく、編集するにはしっかりとリサーチしてから編集して欲しいんですよ。
そうすれば、記事に出典が書かれて無くてもリサーチしてる過程で自ずと目にするような話なので、わざわざ出典がどうのと噛みつく必要もありません。
逆に「出典・出典」と言う方は、全く記事に対してリサーチしていないからじゃないかとも思うのですよね。「日本の首都は東京」と同じくらい「101系の過剰性能」が有名なのに、それすら知らないのに何を思ってこんな暴挙に出るんでしょうねぇ。101系の本の1冊でも読んだことありますか?無いでしょう?なのに何を言ってるんでしょうねぇ。やっぱり自分が出典の明記をお願いされた、その報復ですか?
この程度の知識しかないのなら、どの記事でも「出典を示せ」と言いかねませんね。
  • 私に対してアクセス禁止の申請でもなさればよろしいんじゃないですか?
そうですね。私に関連する記事の近くで同じような事が起これば考えますね。
  • 初めて評価可能な事項
とは、どういう状態を言うのでしょう。基本的に文献に記載されてるものがウィキペディアに記載されてるわけですから。
逆に聞きたいのが「要出典」を出す際に、何を基準で「要出典」と書いたのでしょう?「自分が知らないから」ですか?それだととっても自己中心的な意見ですよね。そんな主観的な自己中心的な事で他の人の手をわずらわす事をして欲しくないですね。無知なら無知らしい対応をお願いしたいですね。
とにかく自分が「要出典」と出す事で人の迷惑になってる事に気づいていないってのが問題かなと思います。そこに気づかないようであれば、ルールをとやかく言う前に、ウィキペディアのような共同作業は無理ですよ(笑)
まぁ、ここであれこれ書かれてるようですが、自分が言ってる理想通りちゃんとXyzgataさんも編集なさったらどうでしょう。自分が出来てもいないのに理想論だけ言って他人に絡んでも誰も応援してくれません。
それと「私は出典が要らない」とか言ってませんけどねぇ。そんなこと書いて無いんだけどなぁ。「出典があるから記事になってる、だからわざわざ出典を書く必要も無い」って意味合いなんだけどなぁ。
だから、素人が訳もわからないくせにその記事に首を突っ込んで「俺が知らんから教えろ」じゃぁアラシだって話ですよ。
例えば101系の件でも「私はこれだけの書籍を確認して見ましたが、どうも書かれてる内容は見あたらないです。どこにあるか教えてくれませんか」とでも言えば、誰もが親切に教えてくれるでしょう。
それを「出典が無ければ削除するぞ」なんて脅しのような文言でくってかかる人に誰が救いの手をさしのべるでしょう。
ウィキペディアは多くの方が参加してるのですが、自由に何をしても良いというわけではありません。
Xyzgataさんにおかれてはまず記事に絡む話をする場合は、最低限その記事についての事を調べてから会話に参加して欲しいんですよ。何も知らないのに「それは主観だ」とか主張されても常識的に考えて相手にされないのは明白です。--永尾信幸 2009年10月6日 (火) 07:06 (UTC)
  • 会津観光史学・チェス・過剰性能の各ページでの私の姿勢は一貫しているつもりですよ。
  • 会津観光史学は、出典なしを理由に文章を削除されても文句は言いません。出典付きで復活させるか、誰か詳しい方の加筆を待つだけです。そういう過程を経てwikipediaの記事は洗練されていくのだと思いますが。
私が書いたのは「出典を明記すべき」と書いていながら、自分で記事を書く際にはそれをしていない事を指摘しただけです。
自分が出来ても居ないことを他人にとやかく言う事を普通の感覚の人はやらないし、またそう言われた側も真剣に受け止めてくれないと言うだけです。
だって出典付きで復活させれなかったと言う事は「独自研究」で加筆した事になるわけですから。
結局、何を言っても、そういう行動の後だと、いい訳にしか受け取ってもらえません。結局悪く思われるのはXyzgataさん自身なんです。
「腕尽くで」の方は、チェスの方の事ではなく、ここでの話、出典があるから記載されていた記事内容まで「自分が出典が無いと思い込んで勝手に削除してる点」ですね。「要出典」を書いたら一定期間立てば削除して良いなんて安直に考える事自体が「腕尽くで」にあるルールの悪用に他ならないでしょう。もっと記事を発展させることを考えるなら、先にも書いたように執筆者に対して、XyzgataさんがCrafordさんにお願いされたように出典のお願いをすることも可能かと思います。Crafordさんは自分なりに調べた結果を基にXyzgataさんにお願いしに来ています。そういうのが普通の姿だと思うのですが、Xyzgataさんは、ここで告知したから後は出典を出さない方が悪いような言い方をしていますね。
少なくともCrafordさんがされたような事を、各記事の執筆者にお願いに上がったら、いくつかの出典は出してもらえたと思いますよ。
そう言う過程を踏まないと言う事は、Xyzgataさんは、この記事の不備を是正とするもしくは伸ばそうとするのではなく、この記事を破壊する事を主目的にしているようにしか受け取れません。私以外にもXyzgataさんが記事の破壊をしてると書かれてるのはまさにその裏付けですよね。
ですので、いくらここでXyzgataさんがルールがどうのと正当性を主張しても、結局やっていたのはアラシであり、先の「腕尽くで」にある悪意に満ちた使い方にしかなっていないんです。
だって、私が出典を示した後も、まだ記事を元に戻さないというのは、Xyzgataさんにとって記事の成長はどうでも良いからじゃないかな?
記事を伸ばしたかったら、出典がわかった段階で除去したXyzgataさん自身が戻すべきでしょうし、その際は出典を示した方にはお礼くらいは言う物です。
ずっと前にも書きましたが、Xyzgataさんにとって、この記事は「削除ありき」からのスタートであり、そういうスタートの仕方は「腕尽くで」に他ならないんです。--永尾信幸 2009年10月6日 (火) 07:27 (UTC)
Wikipedia:検証可能性
1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割
専門家は、その話題に関する個人的・直接的な知識だけではなく、その話題に関して既に発表された情報源に関する知識をも持ちあわせているゆえに、専門家であると考えています。出典がなく、検証不可能であるならば、専門家を自称する編集者が、直接的・個人的知識をもとに寄稿することは禁止されています。
某重工の元設計開発者として言わせてもらうと、『自称専門家が生半可な知識で、出典なしで、特定企業の特定商品の批判を書くな。』ですよ。自分が同業他社の製品に関する批判的な記事を書くとき、出典なしなんて怖くてできないですけどね。
永尾信幸さんのような専門家には、開発者には見えない何かが見えるんですかね?--Xyzgata 2009年10月6日 (火) 11:57 (UTC)
Xyzgataさんには、あなた自身の行動の、どの部分が問題になっているのか、理解なさるおつもりが永遠に無いようですね。ただひたすら、御自身の行動の正当性を主張するだけで。
必要なことは「他に編集に携わっている人の考えや予定などを汲み取ってから、行動(削除)すべき。」ということです。「Wikipediaの根本のルールに従っているから、他の編集者が、記事をどのような方向に持って行こうと考えているかなどは、一切考慮する必要は無い。」という考えは、大変不適切です。今回のケースでしたら、いきなり削除するのではなく、「何日以内に出典が出なければ、どこの部分を削除しますよ。」と予め宣言しておくべきだったと思います。
まあ、これ以上、鉄道関係など、私が関わる部分に首を突っ込まれなければ、別にどうでも良いですが。L25.203.l03.26 2009年10月6日 (火) 14:59 (UTC)
なんて言うか、除去された内容は既に検証可能性を満たしていますが、単にXyzgataさんがその事実を知り得ないために「出典がわからん」とだだをこねてるだけにしか見えません。
それはそうと、検証がなされていないと思った理由を聞きたいですね。鉄道関係は全て検証が出来てる内容ですが、何故に「要出典」と書かれたのかですね。
既に出典が明らかになってる物までウィキペディアでは除去を認めては居ません。
単に、Xyzgataさんが無知故にわからなかっただけじゃないですか?
自分が無知であるという事はちゃんと認識した方が良いですよ(笑)--永尾信幸 2009年10月6日 (火) 15:44 (UTC)
検証可能性を満たしているのなら、復活させればいいんじゃないですか?
出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
出典がなく、検証不可能であるならば、専門家を自称する編集者が、直接的・個人的知識をもとに寄稿することは禁止されています。
を理由に、出典がない限り何度でも削除し、そのうちアクセス制限を申請しますけどね。
現実世界の人様の仕事結果に、ケチをつけることの重大性を認識した方がいいですよ。
というか、『Xyzgataさんが無知』を繰り返すだけで、復活させる度胸もないんでしょ。--Xyzgata 2009年10月6日 (火) 16:01 (UTC)
すまんが、101系とEF200の出典は出してるけど、放置してるのはどういう理由かな?
無知の意味を理解していないようだが、その記事に対して少しでも調査をすればすぐに出てくるような内容すら知っていないという状態だ。101系の本を読んだことがあるのか答えてもらってないが、知りもしないのに「要出典」を付ける行為自体が主観的な行為ではないか?で、さっきも聞いたが「要出典」を付けた理由は何だ?なぜ検証可能性を満たしていないと言い切れるのだ?「日本の首都は東京である」に要出典を出すのと同じと書いた通り、客観的事実に対して、なぜあなたは「要出典」を付けようと思ったのか?その部分が聞きたい。
結局、自分が知らなかったからじゃないか?そんな状態で記事を破壊するような行為が許されると思ってるのか?ルールを盾に、そういう記事の破壊に至る行為を行う事が、まさしく「力尽く」である事に気がつかないならウィキペディアでは好まれないでしょうね。
また、現世世界の人様の仕事結果って何ですか?ウィキペディアで自分が行った行為がルールの下に正当であるから、誰からもチャチャ入れて欲しくないってのも、なんだかわがままですね。人様の仕事結果を主張したいのなら、今まで書いてきたように、各々の加筆者に対して「出典を教えて下さい」のようなお願いをしてみたらどうです?仕事と言っても、単に気に入らない記事を削除しただけじゃないですか。しかも出典がある記事も削除のままにしてるなんて、正常な人間の考える行動とは思えません。それをして仕事と言われても「笑い」を誘ってるとしか思えません(笑)
そもそも、先にも書きましたが、記事の破壊行為はおやめ下さい。また、出典のわかった内容はちゃんと元に戻すなり、記事編集に対しての責任をきっちりとってください。このままだと非常に無責任です。
それと、私は専門家ではありませんが、専門的に研究してる事はあり下記の太線の要件を満たします。
  • 3.3 自主公表された情報源 [編集]
  • ウェブサイトを作ったり本を自費出版したりした上で、自分がある分野の専門家だと主張することは誰にでもできます。そのため、自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。例外となりうるのは、関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいこともあり得ます。しかし、注意してください。もしその専門研究者のブログに掲載された情報が本当に書く価値のあるものならば、他の誰かが既に執筆していたはずです。
いずれにしても、記事を破壊しようとする行為は慎む物であり、この記事でも何度も書いていますが記事を伸ばそうと言う気持ちの中で行動に出るのであれば、要出典を付けたとしても、その記事を書いた方々には「このような内容で要出典を付けさせてもらっています」「出典が無い場合は当該記事を削除する場合もあります」などと連絡するのが社会的な礼の元での仕事と言えるでしょう。何でも権利ばかり主張してもうまくいかないのが現世でもありウィキペディアの世の中でもあるんですよ。
少なくとも、XyzgataさんがCrafordさんにお願いされたような行為は最低限必要で、そういう行為をするから、トラブル無くスムーズにウィキペディアの編集が出来るんだって事を、今回のノートでのグダグダを元に反省してみてはいかがでしょう?
何度も同じ事の繰り返ししか言えないXyzgataさんにこれ以上何を言っても無駄だってのはよくわかりましたので、これ以上書くのは止めますが、ずっと前に書いた「こっちはルールを守ってるんだ!誰にとやかく言われる筋合いがあろうか」と自分が正しいんだという思い込みの姿勢はトラブルを招く可能性がある事は良く覚えておいた方が良いでしょう。--永尾信幸 2009年10月7日 (水) 07:57 (UTC)
永尾信幸さんの主張は、高度すぎて、20%程度しか理解できないのですが・・・
記事を復活させたいのなら、出典を記事中に明記の上、永尾信幸さんが復活させれば良いのではないですか?
世の中に過剰性能な製品が無数にあるにも関わらす、永尾信幸さんの自称専門分野の2・3の具体例だけを記載するのが、独自研究では無いと言い切れるのならですけど。--Xyzgata 2009年10月7日 (水) 11:52 (UTC)

(インデント戻します)

しばらくぶりです。久々に覗いたところ、また過熱状態になってしまっているのでコメントいたしますね。
具体例については、永尾信幸さんとXyzgataさんで言い争いみたいになってしまっていますが、以前Xyzgataさんが挙げられていた「『要求速度120km/hの自動車に、最高速度200km/hの性能を与えること』とか、『想定使用期間6年の小学生向け商品に、30年の耐久性能を与えること』とかで十分な気がします。」だと理解しにくいという点で、現実的な例を挙げるのはありかと思います。
以前私が書いたように思いますが、過剰性能を示す上では、求められる性能をあげておかないとならないので、これを意識した上で書く必要があります。
自動車のように、法定速度という定義が存在する場合、スーパーカーをはじめとする特定の車種については、「公道を走ることを前提とした場合」という本来の目的を与えた上で、最高速度、馬力等が過剰性能であることを示すことは可能だと思います。ただ、数多くの車種を載せる必要はなく、一般的な車の定義の範囲(普通車、レーシングカー)等で1例づつくらい挙げていくのがスマートな解決法ではないでしょうか?。
定義が存在し、それを超えていることが明確な情報(自動車を例とした場合、法定速度は法律にあり、車の性能はメーカーの公式サイトのスペックページで表せる)があるのであれば、書籍でなくとも出典として成り立つと思います。
ただ、室内に人がいる状態でカギを掛けるとアラームがなる、など、本来自動車として必要としない人災防止のための機能なども、自動車の目的からすると過剰な性能であるため、なにをもってそれを過剰性能とするか、というところをしっかり書かないとまた荒れる元になってしまいます。
例外として、必要性能を定義せずに、単に世界最速に挑み続けているスーパーコンピューターランキングのようなものもあるため、こういった例は特殊な扱いにしなければなりません。
鉄道や航空機等、ターゲットが違うものについても、上記のような目的を示すことができれば、わかりやすい具体例としてまとめることが出来ると思います。
--Craford 2009年10月7日 (水) 12:50 (UTC)
追記。
早すぎた発明や、大艦巨砲主義との違いとかを表せると、このページをより有用な項目にできるような気がします。--Craford 2009年10月7日 (水) 12:58 (UTC)
Crafordさん、勝手にお名前を使わせてもらってましたが、私自身Xyzgataさんの言ってるルールについては尊重しています。私の論点はルールを厳格に運用するのは良いが、回りに配慮できなければトラブルになるって意味合いなんですが、その当たりが平行線で・・・私は「過剰性能」では加筆した当事者ではないのですが、出典を求められたので代わりに提示しました。本来、記事を育てようと言う意志があれば出典の明記があればそれを元に削除した内容を修正するのがスジなのですが、Xyzgataさんはそれは出典を示した者がすればよいと言う意見のようで。もちろん、私が出典が明確になった部分を差し戻して何の問題も無いのですが、結局Xyzgataさんが行った行為の尻ぬぐいを他の人がやると言う実績を作ってしまい、Xyzgataさんは他の記事でも同じように自分が知らない事が書いてあれば「要出典」などを貼り付けて他の利用者のコミュニティを疲弊させる事を行う可能性が高いんですよね。
私がどうこう言うのも筋違いでしょうけど、このようなユーザーはまず自分がウィキペディアに参加するにはルールの遵守を振りかざしただけでは回りから受け入れて貰えない点を早い段階で誰かが言う必要があると思うんで、これだけ堂々巡り(笑)をやったわけです。
少なくともXyzgataさんが行おうとしてる行為自体は、ウィキペディアでのチェック機能が正しく稼働してる裏付けであり、その行動自体が悪いわけではなく、逆に運用さえ間違えなければ多くの方から感謝される行為だと思ってるのですが、その運用段階で多くの方とトラブルを起こすくらいなら、それは誰からも感謝されないのではと思うんですよね。いわゆる自己満足に陥ってるだけというか。
  • 世の中に過剰性能な製品が無数にあるにも関わらす、永尾信幸さんの自称専門分野の2・3の具体例だけを記載するのが、独自研究では無いと言い切れるのならですけど。--Xyzgata 2009年10月7日 (水) 11:52 (UTC)
これはXyzgataさん自身の書き込みですが「過剰性能」が無数にあるなんて誰が定義したのでしょう?たとえ無数にあったとしても検証可能性を満たしてウィキペディアに記事として書けるのはごく一部にすぎません。結局自分が例えば見たままの主観から「過剰性能」がたくさんあると思い込んでるようですが、そのこと自体が独自研究なんです。自分が独自研究の上で「無数にある」みたいな意見をもとにして議論をしてることに気がついてないんですよね。だから、検証可能性を満たしていてもXyzgataさん自身の判断で独自研究と思い込んでしまってるんでしょう。出典を示してるのにまだ独自研究がどうのと言う点を見ても、何が検証可能性を満たし、何が独自研究なのかの区別がつかないまま、そのルールを振りかざしてるのは明確です。
このような理論になるのは、Xyzgataさん本人の編集時の考え方に起因するかもしれません。
以前の会津なんとかでも独自研究のような意見を書き込んでいましたので、加筆者が出典を書かない場合は独自研究的に書き込んでると思ってる可能性が高そうです。
ウィキペディアで加筆等をされる多くの方は、検証可能性を満たすかどうか文献を確認してから書き込みますが、Xyzgata自身にその習慣が無いので、そのような意見になってしまうのかなと思います。
そんな状況でXyzgataさん自身が他の記事に「要出典」を書かれてるというのが、やはり本末転倒かと思いますし、要出典を付けるなら付けるで、少なくともその内容については少なからず知識が欲しいものです。でなければ、ここで何度も書いていますが「ぼく知らないから教えて、教えてくれなかったら削除するぞ」にしか回りは見えないので。
要出典というルールを決めた際にまさか誰も「その記事について全く知識が無いものが、要出典を使うなんて事は予想してない」と思うんですよね。その意味では当該ルールの見直しも考えなければならないかも知れません。
基本的にXyzgataさんは「過剰性能」という記事が無くなれば良いと思ってるようなので、細かい点はもう言っても無駄かなと思ってますね。ただ、本人が記事を修復する気持ちがなさそうなので、出典を明らかにした部分は近々差し戻そうと思います。--永尾信幸 2009年10月7日 (水) 14:19 (UTC)--永尾信幸 2009年10月8日 (木) 04:37 (UTC)追記
とりあえず101系電車についてのみ復活させました。出典はいくつもあるのですが、あちこちで読んだ文献をそれぞれ探してくるのが面倒なので目についていくつかのみ上げています。当時から現在までほぼ焼き直しの記事などが多数存在していますので、比較的出典を検証するのは簡単だと思われます。
少なくとも簡単な一文であっても、そこに至るには数十・数百冊の文献を見た結果なんですよね。だから、出典と言われても、そこら辺の専門誌の多く(笑)なんて答えになったりするわけで。要出典と簡単に言う方ほど、そういう複数の文献を調べた結果が記事になってるという事実をわかってないのかも知れません。
まぁ、私の場合は「出典=俺」がウィキペディアのルール上で認められてますから、別にこうやって参考文献を出さなくても、出典は私のブログや私のサイトとしても良いんですけどね。--永尾信幸 2009年10月8日 (木) 16:11 (UTC)
101系に関しては、本来これだけの性能で運転したかったので、その性能の電車を作った。それを実際に走らせてみたら設備面(例えば架線の温度上昇や変電所容量など)がその電車を走らせるレベルになく、仕方なく電車の方の性能を落としていったという話です。
となると、101系が過剰性能というわけではなく、当時の設備が過少設備であった話で、この記事に取り上げるのは少しおかしいと思います。
過大か過小かは、使用者が何を求めたかですから、そのあたりを良く見ていかないと多くの事例で過剰性能となりうるものがあります。
飛行機などは二重系統になっているモノも多いですが、それなども言ってみれば過剰性能です。普段使う事の無い設備を搭載してるわけですから。ただ、なぜそれがあるのかという理由がわかれば過剰とは誰も言わないでしょう。
要は単純に必要な性能と持ってる性能を比較するだけではおかしな話になりかねないと言う事かなと思いますが、この記事自体、主観が多く入りかねない危険な記事に感じます。--永尾信幸 2008年11月15日 (土) 10:41 (UTC)
とのことですが、復活された文章にも、101系が需要に合わせて設計されたと書かれてあり、利用者の要求よりもさらに高い性能を有したと書かれていないですね。利用者の要求に対する電源設備の性能不足、もしくはシステム設計の失敗 の例じゃないですか?--Xyzgata 2009年10月9日 (金) 03:41 (UTC)
そうですね、今のままでは101系のみならず当時の国鉄の状況などの知識の無い方が見るとそう感じるかも知れませんので、少し手直ししておきました。--永尾信幸 2009年10月10日 (土) 13:31 (UTC)