フランシス・ダーシー=オズボーン (第7代リーズ公爵)
第7代リーズ公爵フランシス・ゴドルフィン・ダーシー・ダーシー=オズボーン(英語: Francis Godolphin D'Arcy D'Arcy-Osborne, 7th Duke of Leeds、1798年5月21日 – 1859年5月4日)は、イギリスの貴族、政治家。1826年から1830年まで庶民院議員を務めた[1]。1799年から1838年までカーマーゼン侯爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]第6代リーズ公爵ジョージ・ウィリアム・フレデリック・オズボーンと妻シャーロット(1776年3月16日 – 1856年7月30日、初代タウンゼンド侯爵ジョージ・タウンゼンドの娘)の息子として、1798年5月21日にロンドンで生まれた[1]。1815年5月4日、オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]。
1816年夏にフランスを旅した後、1817年にコルネット(騎兵少尉)として竜騎兵第10連隊に入隊、1820年に半給扱いとして王立西インドレンジャー連隊(Royal West India Rangers)のエンサイン(歩兵少尉)に転じ、1821年に竜騎兵第10連隊の中尉に昇進、1823年に現役給に戻った[3]。1824年にアイルランド駐留になり、1825年に陸軍大尉に昇進、同年に再びフランスを旅した[3]。1826年にライフ・ガーズ第2連隊の大尉に転じ、1828年に軍務から引退した[3]。
1826年イギリス総選挙でヘルストン選挙区から出馬して、父の影響力により無投票で当選した[4]。庶民院で演説した記録はなく、1827年3月にカトリック解放法案に反対票を投じ、1828年2月には審査法廃止にも反対票を投じた[3]。1828年5月に再びカトリック解放法案への反対票を投じたが、父の6代リーズ公爵は1827年より主馬頭を務めたこともあって、首相の初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーに同調して貴族院で賛成票を投じた[3]。2人は最終的に成立した1829年ローマ・カトリック信徒救済法に対しても1828年と同様の投票をした[3]。1830年イギリス総選挙には出馬せず、庶民院議員を退任した[4]。
1838年7月2日、繰上勅書により父からキヴァートンのオズボーン男爵位を継承したが、直後の7月10日に父が死去したためリーズ公爵位を継承、1839年2月19日にリーズ公爵として貴族院議員に就任した[1]。父の死に伴い、ホーンビー城など継承者の決まった遺産を継承したが、6代リーズ公爵が遺言状で継承者を指定できる5万ポンド余りの遺産は6代リーズ公爵にとって息子同然のサックヴィル・ウォルター・レーン=フォックス(7代リーズ公爵の妹の夫)が継承した[3]。
庶民院議員の退任以降、7代リーズ公爵の政治観は徐々にホイッグ党の傾向が現れ、1840年代には穀物法廃止に賛成した[3]。
1849年8月6日、ヴィクトリア女王の特許状を得て姓を「ダーシー=オズボーン」に改めた[1]。
1859年5月4日にジフテリアによりセント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエアのクラレンドン・ホテル(Clarendon Hotel)で死去、12日にハートヒルで埋葬された[1]。叔父初代ゴドルフィン男爵フランシス・ゴドルフィン・オズボーンの息子ジョージ・ゴドルフィン・オズボーンがリーズ公爵位を継承した[1]。一方、ダーシー・ド・ネイス男爵位、コンヤーズ男爵位、ポルトガルの爵位であるメルトラ伯爵位は妹の息子サックヴィル・ジョージ・レーン=フォックスが継承した[1]。
家族
[編集]1828年4月24日、ルイーザ・キャサリン・ハーヴィー=バサースト(Louisa Catherine Hervey-Bathurst、1791年ごろ – 1874年4月8日、初代準男爵サー・フェルトン・ハーヴィー=バサーストの未亡人、リチャード・カトンの娘)と結婚したが[1]、2人の間に子供はいなかった[3]。ホランド男爵夫人エリザベス・フォックスはルイーザ・キャサリンを「非常に愚かな、アメリカ生まれの未亡人」(profoundly stupid American-born widow)と形容し、2人の結婚に父の6代リーズ公爵が心を痛めたとしている[3]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire. Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 516–517.
- ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (L to R) (英語). Vol. 3. Oxford: University of Oxford. p. 1046.
- ^ a b c d e f g h i j Fisher, David R. (2009). "OSBORNE, Francis Godolphin D'Arcy, mq. of Carmarthen (1798-1859), of 16 Bruton Street, Mdx.". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月23日閲覧。
- ^ a b Jenkins, Terry (2009). "Helston". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月23日閲覧。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by the 7th Duke of Leeds
- フランシス・ダーシー=オズボーン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "フランシス・ダーシー=オズボーンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ジェームズ・タウンゼンド卿 ハリントン・ハドソン |
庶民院議員(ヘルストン選挙区選出) 1826年 – 1830年 同職:ジェームズ・タウンゼンド卿 |
次代 ジェームズ・タウンゼンド卿 サー・サミュエル・ペチェル準男爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ジョージ・オズボーン |
リーズ公爵 1838年 – 1859年 |
次代 ジョージ・オズボーン |
キヴァートンのオズボーン男爵 (繰上勅書により) 1838年 – 1859年 | ||
ダーシー・ド・ネイス男爵 1838年 – 1859年 |
次代 サックヴィル・レーン=フォックス | |
コンヤーズ男爵 1838年 – 1859年 | ||
ポルトガルの爵位 | ||
先代 ジョージ・オズボーン |
メルトラ伯爵 1838年 – 1859年 |
次代 サックヴィル・レーン=フォックス |