ブラジル連邦鉄道500形電車
ブラジル連邦鉄道500形電車 ブラジル都市鉄道会社500形電車 リオデジャネイロ州都市鉄道会社500形電車 SuperVia500形電車 | |
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500形(2002年撮影) | |
基本情報 | |
運用者 |
ブラジル連邦鉄道 ↓ ブラジル都市鉄道会社 ↓ リオデジャネイロ州都市鉄道会社(Flumitrens) ↓ SuperVia |
製造所 |
日本車輌製造(艤装・台車) 日立製作所(艤装・電気機器) 川崎重工業(艤装)[1] 東芝(電気機器)[2] |
製造年 | 1975年 - 1977年 |
製造初年 | 1975年 |
製造数 |
120両 (電動制御車60両 付随車60両) |
運用開始 | 1977年 |
投入先 | リオデジャネイロ近郊鉄道 |
主要諸元 | |
編成 |
基本4両編成 (Mc+T1+T2+Mc) |
軌間 | 1,600 mm |
電気方式 |
直流3,000 V (架空電車線方式) |
最高運転速度 | 90 km/h |
設計最高速度 | 120 km/h |
起動加速度 | 2.88 km/h/s |
減速度(常用) | 2.88 km/h/s |
減速度(非常) | 3.96 km/h/s |
車両定員 |
185人(着席54人)(電動制御車) 197人(着席60人)(付随車) |
車両重量 |
58.0 t(電動制御車) 43.5 t(付随車) |
全長 | 22,760 mm |
車体長 | 22,000 mm |
全幅 | 2,998 mm |
車体幅 | 2,940 mm |
全高 |
4,400 mm (集電装置折り畳み時) |
車体高 | 4,110 mm |
床面高さ | 1,305 mm |
台車 |
ND-14(動力台車) NT-43(付随台車) (鋼板溶接構造、コイルばね支持、揺れ枕方式) |
車輪径 | 965 mm |
固定軸距 | 2,692 mm |
台車中心間距離 | 15,000 mm |
発電機 | 日立製作所 CLG-361(30 kVA) |
主電動機 | 日立製作所 HS-360-Ar(1,500 V、230 A、1,200 rpm) |
主電動機出力 | 315 kW |
駆動方式 | 吊り掛け駆動方式 |
歯車比 | 3.14(66:21) |
出力 | 1,260 kW |
編成出力 | 2,520 kW |
引張力 | 15.9 t |
制御方式 |
間接制御方式 (多段式電動カム軸制御) |
制御装置 | 日立製作所 MM-HHTB-20A |
制動装置 | 電磁自動空気ブレーキ(発電ブレーキ併用) |
保安装置 | デッドマン装置 |
備考 | 主要数値は[3][4][5]に基づく。 |
500形は、ブラジル連邦鉄道(Rede Ferroviária Federal Sociedade Anônima、通称RFFSA)がリオデジャネイロの近郊鉄道へ向けて1977年から導入した電車。 日本企業である日本車輌製造と日立製作所、および川崎重工業によって製造され、後述するO Samurai(サムライ)やJapona(ジャポナ - 日本の)、およびCara Dura(カラ・デュラ - 強面)などの愛称で親しまれている。
2020年現在はリオデジャネイロの近郊鉄道網の運営を行うSuperViaが所有している[3][4][5]。
導入までの経緯
[編集]1970年代、リオデジャネイロ都市圏の鉄道の通勤・近郊区間では、公的資金の投入不足による車両や施設のメンテナンス不足が深刻さを増し、それに起因する故障や事故が相次いでいた。そして乗客14人が死亡、376人が負傷したとされる大規模な脱線事故まで発生し、不十分な運営に対する乗客の抗議活動が暴動に発展するにまで至っていた[6][注釈 1]。
この事態を解決するため、1976年にブラジル連邦鉄道は国立経済開発銀行(BNDE)[注釈 2]からの資金援助により、駅舎・信号システム・軌道の更新を伴う大規模な近代化が行われることとなった。その中で車両についても抜本的な近代化が行われることとなり、複数の日本企業グループも参加する国際入札が1975年に行われた結果、日本車輌製造(車体、台車)・日立製作所(車体、機器。幹事企業)・三井グループ(窓口企業)による企業連合が受注を獲得した。そして1976年に最初の車両が製造されたのがこの500形電車である[8][4]。
製造は上記の2社のほか、川崎重工業にて車体、東芝にて電気機器の製造が行われ、総勢5社による分担作業となった[1][2][9]。以下に車体製造および艤装の割り当てを示す。
製造企業 | 製造数 | 両数 | 備考 |
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日本車輌 (豊川蕨製作所) |
4両13編成 | 52両 | |
日立製作所 (笠戸工場) |
4両9編成 | 36両 | |
川崎重工業 (兵庫工場) |
4両8編成 | 32両 | 下請け? |
合計 | 4両30編成 | 120両 |
なお、本形式を製造した日本車輌、日立製作所および川崎重工業は当時セミステンレス車両の製造実績はあったものの、日本国内向けを含めてオールステンレス車両の製造実績がなく、同社としても異例の受注となった。一方、当時日本国内のオールステンレス車両の製造を一手に担っていた東急車輛製造は入札に失敗して本プロジェクトを失注したことに危機感を覚え、軽量ステンレス車体の開発を行うきっかけともなった[10]。
構造
[編集]リオデジャネイロでの通勤輸送への使用を前提に、使用環境の過酷さと乗客による破壊活動の横行への対策として徹底した堅牢さと保守の容易さを追求した設計となった。
編成・基本構造
[編集]編成は非貫通・3枚窓の前面を有する電動制御車(E500形、E1500形)と中間に連結される付随車(ER500形、ER1500形)の2つの車種によって構成される。基本編成は電動制御車+付随車の2両を1ユニットとし、それを背中合わせに連結した4両編成(E500形+ER500形+ER1500形+E1500形)だが、動力制御車の機器配置は前後車両とも同一であり、付随車についてもバッテリーや充電用抵抗装置の有無[注釈 3]を除き同一の設計となっているため、SuperViaに所有権が移管された2002年以降にはブラジル中央駅 - ジャペリ駅間のジャペリ線において、9両編成での運用を行うため、運用を離脱した編成の付随車を組み込んだ5両編成が3編成登場し、基本の4両編成と併結して運用されている。営業運転においては編成を2本繋いだ8・9両編成での運用が主体で、最大3編成まで増結可能である[4][5][11]。
設計においては安全性や保安性に重点が置かれており、1964年製の400形をはじめとする従来の鋼製車両との互換性や、現地で容易に修理が可能なコスト面においても配慮が加えられている。後述の通り日本の電車には類例のない高出力の電動機を用いることで、各車450人・4両編成合計1,800人という超満員時でも20 ‰の勾配区間で最高速度90 km/hが出せる性能を有する[11]。
車体・内装
[編集]従来の車両とは異なり500形の車体は耐腐食性の効果を持つステンレス(SUS304)で製造され、屋根上の換気ダクトカバーや強度を高めるために設置された前面の衝突柱、台枠の大部分もステンレスで作られている。高温多湿な環境下を走行することから屋根や外板裏面・床面にグラスウール、乗降扉周辺の外板裏面にはアンダーシールをそれぞれ張り、断熱材として使用している。また側面と屋根はプラグ溶接に加え側鋼体の長桁とガゼットを介した溶接接合を実施し、熱影響による鋼体の歪みを防いでいる[5][12]。
運転台側の窓は安全ガラスを使用し、側面の窓についても劣化および破壊活動による取り外しを避けるという観点から、一般的に多く使用されるHゴムではなくアルミ型材を用いて取り付けが行われている。この窓の構造は下窓固定式の2段式で、投石等による外部からの衝撃によって破損して車内に破片が飛び散る危険のあるガラスの代わりにポリカーボネートシートが用いられており[注釈 4]、上部には通風グリルが設置されている。空調装置は設置されておらず、通風は天井に設置されたファンデリアや換気扇によって行われる。乗客用の乗降扉は日本でも多くの採用例があるDD-45DS形開閉装置を用いた幅1,300 mmの両開き式が片側4箇所づつ設置されているが、乗客の動線を考慮して両側で若干扉位置を変える千鳥配置としている[13]。またこの車両には従来車と異なり、走行時に扉が開いたり、逆にドアが開いている状態で力行できないようにする保安装置が施されている[5][14][13][注釈 5]。
乗務員室は運用面や安全面の観点から客室とは完全に独立しており、日本の車両とは異なって客室と往来可能な扉も設置されていないが、仕切り壁は取り外し可能な構造となっている。先頭部の連結器は日本製の密着自動連結器を用い、従来車との混結による営業運転は考慮されていないが、BP管やMR管は従来車と設計を合わせているため緊急時の連結は可能となっている。連結面は棒連結器によって繋がっているほか、妻面には幌が設置されており車両間の往来が可能である[5][15][注釈 6]。
座席は通勤輸送での使用を考慮したオールロングシートで、保守や破損防止の観点からモケットがない繊維強化プラスチック(FRP)製を採用している。また車内には跳ね上げ式の吊り革やステンレス製の握り棒、座席上には荷棚も設置されており、これらは現地の人々の体格を考慮した設計となっている[13]。
機器・台車
[編集]動力台車(ND-14形)、付随台車(NT-43形)は軸ばね・枕ばねにコイルばねを、振動衝撃防止にオイルダンパーを設置した台車で、使用路線の過酷な条件に適した堅牢な設計となっている一方、従来車に使用されているブレーキシューの搭載を可能とする、現地調達が困難な心皿用の耐磨レジンを使用しないなど、部品の互換性や保守の容易さにも配慮がなされている。スリップや非常ブレーキ使用時には各台車に設置された砂撒き装置からの散砂が行われる[16]。
主電動機は日立製作所製のHS-360-Ar形(315 kW・1,500 V・230 A・1,200 rpm)[注釈 7]が各動力台車に2基、各制御電動車に4基搭載され、2個直列配置されたものが2組ずつ制御装置により並列制御される。製造時には日本の電車では既にカルダン駆動が主流となっている状況下ではあったが、構造の簡便さと保守の容易さから補極式直流軸巻界磁・自己通風方式を用いた吊り掛け駆動が採用されている[13]。
各付随車にはブレーキ用の圧縮空気を供給するコンプレッサー、車内照明や換気装置に給電するCLG-361形電動発電機が1組づつ設置され、一方が故障した際には自動的にもう一方からの延長給電が行われるようになっている[17]。集電装置は下部交差型のパンタグラフが使用されており、制御電動車の屋根上に2基搭載している[17]。
多段式電動カム軸制御を採用したMMC-HHTB-20A形制御装置には発電ブレーキの使用が考慮された設計になっており、最高時速70 km/hから指定された低速度域まで動作するようになっている。また発電ブレーキ併用の電磁自動空気ブレーキやコンプレッサーは従来車と同じWABCO製のものが採用されており、運転や保守の容易さに配慮が置かれている[18]。
運用
[編集]1976年末に最初の車両が日本からブラジルへ向けて輸出され、現地での試運転で良好な結果を収めたのち、翌1977年から営業運転に導入された。リオデジャネイロ都市圏の各通勤路線に導入され、"O Samurai"(サムライ)と称されるほどの高い評判を得て、以降導入される電車の基礎となった。
一方でブラジル連邦鉄道の運営、特に定刻運行の欠如に抗議する乗客の破壊活動は当車の導入後も収まらず、それによる車両への投石、座席や機器の破損が相次いだにもかかわらず、抜本的な修理は長年施行されなかった。老朽化した一部の機器の交換などの更新工事が実施されたのは、1984年の国営ブラジル都市鉄道(CBTU)への運営引き継ぎを経て、さらに政府の他にリオデジャネイロ州が協力して誕生したFlumitrensへの運営引き継ぎのあとのSuperViaへの民営化を挟んだ1996年から2000年にかけてとなった[19]。この間、投石により先頭車前面には多数の窪みが生じ、哀れな状態になりつつも活躍した姿から、Cara Dura(カラ・デュラ - 強面、もしくはド根性、勇敢という意味)という愛称も生まれた。
また、非公式の車内販売が車両間を頻繁に移動する行為が問題として浮上したため、ブラジル都市鉄道の時代に車両間の貫通扉が常時締め切り扱いとなり、貫通幌の使用が中止されたほか、SuperVia移管直後までに大半の先頭車の前面中央の「おしゃぶり」と呼ばれる通風口が塞がれた[19][4]。
なお、塗装は登場時は無塗装だったが、後年ブラジル都市鉄道では窓下に緑色と青色の細線、Flumitrensにおいては窓下に橙色と朱色の細線という各企業のコーポレートカラーに塗装されるものも現れた[19]。SuperViaにおいてはこれまで無塗装であった車両の一部とそれ以前から塗装が施されていた車両に対し、車体全体を同社のコーポレートカラーであるエメラルドグリーン色、白色、赤色、青色で大胆に塗装した。
2012年からは一部編成の冷房化が実施され、それらの編成に対しては同時に窓の密閉化、座席と壁の再塗装、床材の交換も行われた[4][5][20][21]。冷房化された車両は無塗装および窓下にエメラルドグリーン色の線を配置した塗装である[4]。
新型車両の導入に伴う置き換えにより、冷房化が施行されていない車両に廃車が進行しており、2018年時点の在籍車両数は23編成95両[4][5][22]。
なお、一部の車両は事業用車両に改造され活躍している[19]。
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1979年・ブラジル連邦鉄道時代の500形
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SuperVia塗装の500形
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SuperVia塗装の500形
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広告が施された500形
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 事故原因は速度超過により曲線を曲がりきれなかったことで、当核の車両はイギリスで製造され、またブラジルでもノックダウン生産により増備されたブラジル中央鉄道200形電車であった。多くのカリオカ(リオデジャネイロ市民)はこの事故を悼み、のちに事故を歌ったサンバが生まれたという。
- ^ ブラジル国立経済社会開発銀行(BNDES、Banco Nacional Desenvolvimento Economico e Social)[7]の前身にあたる開発銀行。
- ^ ER500形(T1)にのみバッテリーや充電用抵抗装置が搭載されている。
- ^ 同様の理由から戸袋窓もなく、側面は同時期に日本から輸出された韓国鉄道1000系電車のような外観となっている。
- ^ 当時、リオデジャネイロ近郊鉄道の電車は車両不足による混雑で、朝夕を中心に走行中も自動扉が開いたままの状態で運行していた。しかし、本形式もブラジル都市鉄道会社からSuperVia初期の時代にかけて、扉別のロックを解除することにより、しばしば走行時に一部の扉が閉まらない状態で走行し、それはリオデジャネイロ近郊鉄道が一つの舞台の名作映画、セントラル・ステーションの一場面においても見ることができる。
- ^ 後述の通り、この幌は途中で使用中止となり、車両間の往来は一旦外に出ないと不可能となった。
- ^ 駆動方式が違うため単純には比較できないものの、この主電動機の出力は新幹線N700系電車の305kWをも上回る。
出典
[編集]- ^ a b 『車両とともに明日を拓く : 兵庫工場90年史』兵庫工場90周年事業社史編纂委員会編集、1997年。
- ^ a b 「Recent export of electric vehicles and their electrical equipment.」『Toshoba Review International Edition』第113号、東芝、1978年1月2日、12-17頁。
- ^ a b 長尾昭彦 1977, p. 10-21.
- ^ a b c d e f g h TUE Série 500 - Ferreoclube - 2016年8月24日作成・2019年8月26日閲覧
- ^ a b c d e f g h Hitachi/Nippon Sharyo – Série 500: O samurai de inox - TrensFluminenses - 2012年11月9日作成・2019年8月26日閲覧
- ^ Acidente em Magno - 17/07/1975 - AF Trilhos do Rio - Passado, presente e futuro: tudo na mesma linha ! - 2015年2月10日作成・2020年5月2日閲覧
- ^ ブラジル国立経済社会開発銀行と国際協力銀行 国際協力銀行 2012年11月作成 2019年8月26日閲覧
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 10.
- ^ 「運輸・運搬」『日立評論』1978年1月、38-40頁。
- ^ 『鉄道ファン』1993年4月号 p.98
- ^ a b 長尾昭彦 1977, p. 10-11.
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 14-15.
- ^ a b c d 日立評論1978年5月号:直流3,000V全ステンレス鋼製電車
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 16-17.
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 18.
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 19-20.
- ^ a b 長尾昭彦 1977, p. 23-26.
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 22-23,27.
- ^ a b c d Hitachi Série 500, os famosos trens japoneses - Transporte Suburbano Flumiense - 2010年6月20日作成・2020年5月2日閲覧
- ^ 長尾昭彦 1977, p. 27.
- ^ 長尾昭彦「ブラジルとアルゼンチンの鉄道車両輸出についての雑感」『JREA』第31巻第1号、鉄道車両技術協会、1988年1月、42-43頁、ISSN 0447-2322。
- ^ AGETRANSP 2018, p. 120.
参考資料
[編集]- AGETRANSP (2018年). “RELATÓRIO DE ATIVIDADES Câmara de Transportes e Rodovias CATRA” (PDF). 2019年8月26日閲覧。