ブラディ・サンデー (U2の曲)
「ブラディ・サンデー」 | ||||
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U2 の シングル | ||||
初出アルバム『WAR(闘)』 | ||||
リリース | ||||
規格 |
7インチ・シングル 12インチ・シングル | |||
ジャンル | ロック | |||
レーベル | アイランド | |||
作詞・作曲 | U2 | |||
プロデュース | スティーヴ・リリーホワイト | |||
チャート最高順位 | ||||
USメインロックチャート7位 オランダ3位 | ||||
U2 シングル 年表 | ||||
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「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)はU2のサードアルバム『WAR(闘)』のオープニングソングにして、3rdシングル(ヨーロッパと日本限定のリリースだった)。血の日曜日事件をテーマにした曲で、「New Year's Day」と並んでU2の代表曲となった。
解説
[編集]「WAR」のレコーディングを中断してボノとアリが結婚式を挙げジャマイカに新婚旅行へ行っている間、エッジが1人で書いた曲。恋人との痴話喧嘩とおのれの作曲能力のなさのせいでむしゃくしゃした気持ちを思いきり曲作りにぶつけた。2004年にボノがなくした鞄が見つかった際、その中にあったノートに既に「SBS」のアイデアが書き込まれていたということから[1]、以前から血の日曜日事件をテーマにした曲を書こうというアイデアはバンド内にあったようだ。
この頃、ボノはジョン・レノンにどっぷり嵌っていて、そのハンドブックをいつの胸ポケットに入れて持ち歩いていたそうで、恐らくジョンの同テーマ、同タイトルの曲に触発されたのだろう。ボノが考えたのは血の日曜日事件とカソリックとプロテスタント双方の一大行事であるイースター・サンデー(復活祭)という2つの日曜日を対比させることだった。2010年6月18日にニューヨーク・タイムズに寄せた記事で、ボノは次のように述べている。
「(この曲は)小さなことについて歌って大きな理想について触れようとしたけどうまくいかなかった曲だ」「自分のような髪の毛をして怒りを持ったロック・ファンがいればサラエヴォだろうとテヘランだろうと、どこへ行ってもきっとこの歌は歌われるはずだ」「実際、どんな地域でも解決はすぐに見出すことはできるはずだ。このアイルランドの歴史の一コマからなにか学べる教訓があるとしたら……たとえば、バグダッドやカンダハルにとってなにかあるとしたら、それはこういうことになる。ものごととは悪い方向へとはたちまちにして変わっていくし、いい状況へと変わっていくにはとても時間がかかってしまうけれども、でも、しっかりいい方向へと変わっていくことはできるということだ」[2] — ボノ
当初、エッジが書いた冒頭の歌詞は「IRAやUDAの権利について話すのは止めてくれ」だったが、あまりに直接的すぎることからか、現在のものに改められた。
ラリーはリリーホワイトからクラックトラック(メトロノーム)を使うよう勧められていて、渋っていたのだが、尊敬するSly & the Family Stoneのドラマー・アンディ・ニューマークから、「クラックトラックなしでドラムを叩いたことがない」と教えられ、自分も使うことにした。「SBS」をひとつに求めているのはラリーのドラムといわれているが、「あれは郵便局のマーチングバンドにいた経験が生きた」とラリー自身も述べている。
僕たちは政治的な人間ではないし、政治とも関係がない。君が北アイルランドについて話したように、SBSを聴くと、人々は「ああ、イギリス軍に十三人のカソリック教徒が銃殺されたあの事件だね」って言うんだけれど、この歌はその事件についてのものじゃないんだ。あれは小いわば北アイルランドで最も有名な小さな出来事で、それだけで「どれぐらい? どれくらい僕たちはこの問題に耐えなければならないのか?」と言うのは大袈裟だよ。カソリックだろうがプロテスタントだろうがなんだろうが、僕は誰が誰かなんてこと気にしない。日々、辛苦と憎悪に塗れて人々が死んでいるけれど、その事実にたいして僕たちは「なぜだ?そこにどんな意味があるんだ?」と問いかけているんだ。だからこの歌はエルサルバドルや他の似たような場所にも当てはまる――人々が日々死んでいるね。政治のことは忘れよう、お互いに撃ち合うのは止めて、話し合いの椅子につこう……「政治はクソだ」という物言いに加担するバンドはたくさんいる。が、それがどうだって言うんだい? 本当の戦いは人々が死んでいることだ。それこそが真の戦いなんだよ。[3] — ラリー・ミューレンJr.
またエレクトリック・ヴァイオリンで、後にIn Tua NuaやThe Waterboysに参加するスティーブ・ウイッカムが参加している。バス停にいたエッジに「君たちのレコードにヴァイオリンは要らないか?」と尋ね、電話番号のメモを渡し、採用された。
スタジオはエネルギーに満ちていた。集団的熱狂以上のものだ。バンドがライブ演奏するように準備されていて、僕はコントロールルームでそれに合わせて演奏した。SBSのテイクを録り終えた後、皆、幸せそうで、恐らく、バス停で声をかけてきた見知らぬ人間が実際に演奏できたものだから、ほっと胸を撫で下ろしているようだった。僕は雇われて、エッジが「Take My Hand(Drowning Manの原曲)」というもう一つの曲を演奏し、そのラフミックスが入ったテープを貰った僕は、次の週までに曲に入れるヴァイオリンの音を考えた。それから僕とエッジとリリーホワイトで、ヴァイオリンの音を重ねて、ストリングセクションのように一つのヴァイオリンの音にしたんだ。このとき、僕は実に多くのことを学んだよ。[4] — スティーブ・ウイッカム
ライブ
[編集]2015年7月24日の時点で800回近く演奏され、3番目にライブで演奏された回数が多いU2の曲である。[5]
1982年12月20日、初めてベルファストで「SBS」を演奏した際[6]、ナーバスになったボノは「もしも気に入らなければ、二度とベルファストでは演奏しない」と断ってから演奏したのだが、終わると観客席は興奮の坩堝となった(ただし、ベルファストではThe Joshua Treeツアーの1987年6月24日の公演以来、「SBS」は演奏されていない)。その後、ボノは「SBS」を演奏する度に「これは反逆の歌ではない」と断りを入れるようになり、Warツアーでは白旗を振って「ノー・モア!」と観客を煽るパフォーマンスを行った。1985年のライブエイドでもU2は「SBS」を演奏した。
The Unforgettable FireツアーでもThe Joshua Treeツアーでも「SBS」はライブの中核をなしたが、映画「U2/魂の叫び」には、1987年11月8日、IRAが仕掛けた爆弾により11人が死亡し、60人以上が負傷する大惨事となったエニスキレン爆破事件に怒る、同日デンバーで行われた公演におけるボノの熱いパフォーマンスが収録されている。
少し話をさせてほしい。アイルランド系アメリカ人がよく俺に、故郷の「革命」がどうのこうのという話をふってくる。自分自身は20年も30年もその故郷には帰っていないのに、「レジスタンス」の話をする。「革命のために命を捨てるという栄光」とか――「革命」ね、クソくらえだ。「革命のために人を殺すという栄光」を語ってみろって。寝ている人をたたき起こして、妻子の目の前で撃ち殺す、それのどこに「栄光」がある? 戦没者追悼の式典で、昔もらった勲章を取り出して磨いて集まってきたようなお年寄りを爆弾で攻撃することの、そのどこに「栄光」がある? 何が「栄光」だって? 人々を死なせて、あるいはこの先ずっと身体が不自由になるかもしれない、あるいは死体になって瓦礫の下に――「革命」の瓦礫の下に、アイルランドでは大多数が望んでもいない「革命」の瓦礫だ。もうたくさんだ![7] — ボノ
この公演で「SBS」は「本物」になったと考えたボノは「SBS」を二度と演奏しないと決めた。実際、1989年のLovetownツアーでは一度も演奏されず、Zoo TVツアーでも一時期セットリストに入っていただけだった。が、1997-1998年のPopmartツアーのサラエボ公演の小ステージでエッジがアコギで演奏し、新たな手応えを掴むと、再びセットリストの常連となり、2001年のElevationツアー、2005-2006年のVertigoツアー、2009-2011年の360度ツアーでは毎回演奏された。
サントラ
[編集]- 「ブラディ・サンデー」(2002年、アイルランド、イギリス、監督ポール・グリーングラス) - ベルリン国際映画祭金熊賞授賞。「SBS」のライブヴァージョンがエンドクレジットで流れる。
オマージュ
[編集]- シネイド・オコナー
- 「Gospel Oak 」というEPに収録されている「This is a Rebel Song」という曲が、「SBS」に対するアンサーソングになっている。ボノが「これは反抗の歌ではない」と前置きしてから「SBS」を歌いだすのに対し、シネイドは「これは反抗の歌です」と断って、とても優しく穏やかに「「愛しているわ、頑固なイギリス人さん/あなたの激怒は、まるで私の子宮をえぐる拳みたい/私がやったと思い込んでいることを、あなたは許してくれないのかしら/私を愛して。私はあなたの女なのです……」と歌い上げるのだ。
- DJシャドウ
- 「Lost And Found」という曲でラリーのドラムをサンプリングしている。
- ジェイ・Z
- 2008年のグラストンベリー・フェスティバルで「SBS」と「Heart Of The City」をマッシュアップした曲を披露した。
- 阿部和重
- 「Deluxe Edition」という短編集に「SBS」というタイトルの作品がある。
カバー
[編集]スピーカーからドラムの音が聞こえると、(SBSに)夢中になった。たぶんその前には『Blue Manday』がかかっていて、クラブの客たちはワイルドになってた。俺は男が踊るのを見ていて、彼みたいにクールになりたいと思ってた。あの曲は俺に突き刺さって離れなかった[8] — ソウル・ウィリアムズ
評価
[編集]- オールタイム
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- 1989年ラジオヴェロニカ(オランダ)が選ぶオールタイムベスト500第41位[9]
- 1999年スタジオ・ブリュッセル(ベルギー)の視聴者が選んだオールタイムベストソング第19位[10]
- 2004年ローリングストーンが選ぶオールタイムベストソング500第268位[11]
- 2004年ロックの殿堂・ロックを作った500曲[12]
- 2006年Qマガジンが選ぶ80年代ベストシングル40第18位[13]
- 2009年ガーディアンが選ぶ誰もが知っている曲1000[14]
- 2009年ラジオヴェロニカ(オランダ)が選ぶ80年代ベストソング100第14位[15]
- 2010年ローリングストーンが選ぶオールタイムベストソング500第272位[16]
- 2012年Qマガジンが選ぶベストソング1001第419位[17]
脚注
[編集]- ^ https://cityofblindinglights.seesaa.net/article/201111article_12.html
- ^ https://rockinon.com/news/detail/36401
- ^ http://www.atu2.com/news/u2-3.html
- ^ http://www.atu2.com/news/30-years-of-war-5-questions-with-steve-wickham.html
- ^ http://www.u2gigs.com/tourdb-stats.html
- ^ http://www.u2gigs.com/show1059.html
- ^ http://nofrills.seesaa.net/article/65542069.html
- ^ http://u2log.com/2007/11/06/trent-reznor-does-sunday-bloody-sunday/
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/veronica.html
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/studio.htm#1999
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/rstone.html#500Songs
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/steveparker/halloffame.htm
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/qlistspage3.htm#Best Of The 80s
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/guardian100.htm#1000Songs
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/veronica.html#80s
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/rstone.html#songs2010
- ^ http://www.rocklistmusic.co.uk/q1001_songs.htm#q250