ヘレン・ジェイコブス
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ヘレン・ジェイコブス | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Helen Hull Jacobs | |||
愛称 | 第2のヘレン | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 同・アリゾナ州グローブ | |||
生年月日 | 1908年8月6日 | |||
没年月日 | 1997年6月2日(88歳没) | |||
死没地 | 同・ニューヨーク州イーストハンプトン | |||
利き手 | 右 | |||
殿堂入り | 1962年 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全仏 | 準優勝(1930・34) | |||
全英 | 優勝(1936) | |||
全米 | 優勝(1932-35) | |||
優勝回数 | 5(英1・米4) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全仏 | 準優勝(1934) | |||
全英 | 準優勝(1932・36・39) | |||
全米 | 優勝(1932・34・35) | |||
優勝回数 | 3(米3) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全米 | 優勝(1934) | |||
優勝回数 | 1(米1) | |||
ヘレン・ジェイコブス(Helen Jacobs, 1908年8月6日 - 1997年6月2日)は、アメリカ・アリゾナ州グローブ出身の女子テニス選手。フルネームは Helen Hull Jacobs (ヘレン・フル・ジェイコブス)という。1932年から1935年にかけて全米選手権「4連覇」を達成し、ウィンブルドン選手権でも1936年に優勝した。しかし、同じ「ヘレン」という名前のヘレン・ウィルス・ムーディに4大大会女子シングルス決勝で6度も敗れたことから(全仏選手権1度、ウィンブルドン選手権4度、全米選手権1度)、1930年代の女子テニス界で“Helen the First”(第1のヘレン)と呼ばれたムーディと対比されて、ジェイコブスは「第2のヘレン」と呼ばれた。
来歴
[編集]ジェイコブスは1932年から1935年まで、全米選手権に大会4連覇を達成した。初めての全米決勝進出は1928年であったが、この時はヘレン・ウィルス(ムーディの結婚前の名前)に 2-6, 1-6 で敗れている。それから4年後、ジェイコブスは1932年の決勝戦でカロリン・バブコックを 6-2, 6-2 で破り、4大大会初優勝を達成した。翌1933年の大会は、全米選手権決勝では2度目となるジェイコブスとムーディの「ヘレン対決」となった。ジェイコブスが第1セットを 8-6 で先取し、ムーディが第2セットを 6-3 で奪い返した後、最終第3セットをジェイコブスが 3-0 とリードしたところで、ムーディが背筋痛を訴えて試合を途中棄権するアクシデントが起きた。これでジェイコブスは全米選手権2連覇と同時に、ムーディとの対戦で唯一の勝利を挙げた。1934年と1935年の決勝では、ジェイコブスはサラ・ポールフリーに2年連続で勝っている。ところが、1936年の決勝でジェイコブスは華やかなキャラクターを持つアリス・マーブルに 6-4, 3-6, 2-6 の逆転で敗れ、大会5連覇を逃した。その後、ジェイコブスは1939年と1940年の全米決勝でもマーブルに敗れている。これでジェイコブスの全米決勝成績は「4勝4敗」で終わった。4度の準優勝は、最初の時はムーディに、後の3回はマーブルに敗れたことになる。
ヘレン・ジェイコブスは1936年のウィンブルドン優勝者となったが、ここでも不運が続き、通算で5度の準優勝がある。1934年の決勝戦だけは、相手はイギリスのドロシー・ラウンドであったが、他の4度はすべてムーディに敗れた。唯一の優勝となった1936年の決勝で、ジェイコブスはドイツのヒルデ・スパーリングに 6-2, 4-6, 7-5 で競り勝っている。スパーリングは1935年から1937年まで全仏選手権に大会3連覇を達成した選手であるが、ウィンブルドンでは1931年と1936年の2度準優勝に終わった。
ムーディとジェイコブスによる「2人のヘレン」の歴史は、1928年全米選手権の女子シングルス決勝戦から始まった。2人は通算11度(うち決勝戦で6度)対戦したが、ジェイコブスが勝ったのは1933年の全米決勝(ムーディの途中棄権による勝利)の1度だけである。全仏選手権での決勝対決は1930年の1度だが、ウィンブルドンの決勝では1929年、1932年、1935年、1938年の4度敗れた。とりわけ1935年と1938年の決勝戦では、ジェイコブスがムーディのウィンブルドン「7勝」(ドロテア・ダグラス・チェンバースによる当時の大会最多優勝記録に並ぶ)と「8勝」(チェンバースの記録を更新)の記念碑を見守る立場に回った。ムーディは8度目のウィンブルドン優勝を最後に現役を退き、最後までジェイコブスの壁として立ちはだかったのである。その力関係から、当時のテニスファンたちは「悔しがって足を踏み鳴らすジェイコブスが、ムーディの後をついて行く」という描写を好んだ。選手時代に、ジェイコブスはテニスに関連した著書を3冊出版している。
テニス経歴を退いた後、ヘレン・ジェイコブスは第2次世界大戦でアメリカ海軍に入隊して司令官の仕事に携わった。当時米国海軍で働いていた女性は、ジェイコブスを含めて5人だけだったという。ジェイコブスは1944年に“Storm Against the Wind”(風に逆らう嵐)という題名の小説も書いた。1962年に国際テニス殿堂入り。35年後の1997年6月2日、ヘレン・フル・ジェイコブスはニューヨーク州のイーストハンプトンにて、心臓発作のため88歳で長逝した。
4大大会優勝
[編集]- ウィンブルドン選手権 女子シングルス:1勝(1936年) [準優勝5度:1929年・1932年・1934年・1935年・1938年]
- 全米選手権 女子シングルス:4勝(1932年-1935年)/女子ダブルス:3勝(1932年・1934年・1935年)/混合ダブルス:1勝(1934年) [大会4連覇。準優勝4度:1928年・1936年・1939年・1940年]
- (全仏選手権女子シングルス準優勝2度:1930年・1934年/女子ダブルス準優勝:1934年)
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
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1932年 | 全米選手権 | カロリン・バブコック | 6-2, 6-2 |
1933年 | 全米選手権 | ヘレン・ウィルス・ムーディ | 8-6, 3-6, 3-0(棄権) |
1934年 | 全米選手権 | サラ・ポールフリー | 6-1, 6-4 |
1935年 | 全米選手権 | サラ・ファビアン | 6-2, 6-4 |
1936年 | ウィンブルドン選手権 | ヒルデ・スパーリング | 6-2, 4-6, 7-5 |
外部リンク
[編集]- ヘレン・ジェイコブス - 国際テニス殿堂のプロフィール