ペーター・ポスト
ペーター・ポスト(Peter Post、1933年11月12日 - 2011年1月14日[1])は、オランダ・アムステルダム出身の元自転車競技選手。6日間レースでは一時歴代第1位となる65勝をマークし、「6日間レースの顔」とも言える存在であったが、ロードレースでも活躍し、またチームディレクターとしても名を上げた。
選手時代
[編集]ロードレース
[編集]1960年にエネコ・ツアーの前身にあたるロンド・ファン・ネデルラント、1962年にドイツ・ツアーで総合優勝を果たした他、オランダ人選手として初めてパリ~ルーベを1964年に制したが、トラックでの走りを熟知しているポストらしく、ルーベの競技場でブノニ・ブエイを最後に競り落としての勝利であった。
6日間レース(トラックレース)
[編集]ロードレースにおける実績も十分一流と呼べるものであるが、やはりポストといえば、6日間レースのほうが特筆すべき実績を残している。初期の頃はリック・ファン・ローイとコンビを組む回数が多く、10勝をマークしているが、後にスイスのフリッツ・フェニンゲルとの名コンビで19勝をマーク。1968年のミラノ大会で、リック・バンステーンベルヘンがマークしていた通算40勝を上回る41勝をマークして歴代第1位となった。
その後、後に自身の歴代通算勝利記録を更新する若手のベルギー人・パトリック・セルキュとコンビを組み、1971年まで2人のコンビで14勝をマーク。通算65勝を挙げた。同レースにおいて出走回数が100回以上の選手の中で、通算勝率が4割を超えている(155戦65勝。勝率4割1分9厘)のはポストただ一人である。
この他のトラックレースの実績として、オランダ国内選手権の個人追い抜き種目において6回の優勝を果たした他、欧州選手権においては通算14回の優勝を果たしている。1963年にオランダ スポーツマンオブザイヤーを受賞した。
65勝の足跡
[編集]勝目 | 年 | 開催地 | パートナー |
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1 | 1957 | シカゴ | ハーム・シュミッツ |
2 | 1959 | アントウェルペン | ヘリット・スヒュルト、クラウス・ブクダール |
3 | 1959 | ブリュッセル | ヘリット・スヒュルト |
4 | 1959 | ミュンスター | ルシアン・ジエン |
5 | 1960 | アントウェルペン | ヘリット・スヒュルト |
6 | 1960 | ベルリン | リック・ファン・ローイ |
7 | 1960 | ヘント | リック・ファン・ローイ |
8 | 1961 | ケルン | リック・ファン・ローイ |
9 | 1961 | アントウェルペン | リック・ファン・ローイ、ウィリー・ファンニッツェン |
10 | 1961 | ブリュッセル | リック・ファン・ローイ |
11 | 1961 | ヘント | リック・ファン・ローイ |
12 | 1962 | ベルリン | リック・ファン・ローイ |
13 | 1962 | アントウェルペン | リック・ファン・ローイ |
14 | 1962 | ドルトムント | リック・ファン・ローイ |
15 | 1963 | ケルン | フリッツ・フェニンゲル |
16 | 1963 | ミラノ | フェルディナンド・テッルッツィ |
17 | 1963 | ブリュッセル | フリッツ・フェニンゲル |
18 | 1963 | チューリッヒ | フリッツ・フェニンゲル |
19 | 1964 | ケルン | ハンス・ユンケルマン |
20 | 1964 | アントウェルペン | フリッツ・フェニンゲル、ノエル・フォレ |
21 | 1964 | ベルリン | フリッツ・フェニンゲル |
22 | 1964 | ブリュッセル | フリッツ・フェニンゲル |
23 | 1964 | チューリッヒ | フリッツ・フェニンゲル |
24 | 1965 | ベルリン | フリッツ・フェニンゲル |
25 | 1965 | エッセン | リック・バンステーンベルヘン |
26 | 1965 | アントウェルペン | クラウス・ブクダール、ヤン・ヤンセン |
27 | 1965 | ドルトムント | フリッツ・フェニンゲル |
28 | 1965 | ブリュッセル | トム・シンプソン |
29 | 1965 | チューリッヒ | フリッツ・フェニンゲル |
30 | 1966 | エッセン | フリッツ・フェニンゲル |
31 | 1966 | ミラノ | ジャンニ・モッタ |
32 | 1966 | アントウェルペン | フリッツ・フェニンゲル en ヤン・ヤンセン |
33 | 1966 | ヘント | フリッツ・フェニンゲル |
34 | 1966 | アムステルダム | フリッツ・フェニンゲル |
35 | 1967 | ブレーメン | フリッツ・フェニンゲル |
36 | 1967 | エッセン | フリッツ・フェニンゲル |
37 | 1967 | アントウェルペン | フリッツ・フェニンゲル、ヤン・ヤンセン |
38 | 1967 | ミラン | ジャンニ・モッタ |
39 | 1967 | ベルリン | クラウス・ブッダール |
40 | 1967 | フランクフルト | フリッツ・フェニンゲル |
41 | 1968 | ミラノ | ジャンニ・モッタ |
42 | 1968 | ロッテルダム | パトリック・セルキュ |
43 | 1968 | ロンドン | パトリック・セルキュ |
44 | 1968 | ベルリン | ヴォルフガング・シュルツェ |
45 | 1968 | ヘント | レオ・デュインダム |
46 | 1969 | ブレーメン | パトリック・セルキュ |
47 | 1969 | アントウェルペン | パトリック・セルキュ、リック・ファン・ローイ |
48 | 1969 | ロッテルダム | ロマン・デローフ |
49 | 1969 | ロンドン | パトリック・セルキュ |
50 | 1969 | ドルトムント | パトリック・セルキュ |
51 | 1969 | フランクフルト | パトリック・セルキュ |
52 | 1969 | アムステルダム | ロマン・デローフ |
53 | 1970 | ケルン | パトリック・セルキュ |
54 | 1970 | ブレーメン | パトリック・セルキュ |
55 | 1970 | アントウェルペン | レネ・パイネン、クラウス・ブクダール |
56 | 1970 | フロニンゲン | ヤン・ヤンセン |
57 | 1970 | ロンドン | パトリック・セルキュ |
58 | 1970 | ブリュッセル | ジャック・ムリュー |
59 | 1970 | チューリッヒ | パトリック・セルキュ en エリッヒ・シュパーン |
60 | 1971 | ロッテルダム | パトリック・セルキュ |
61 | 1971 | グルノーブル | アレン・ファン・ランケル |
62 | 1971 | アントウェルペン | レネ・パイネン、レオ・デュインダム |
63 | 1971 | ロンドン | パトリック・セルキュ |
64 | 1971 | ベルリン | パトリック・セルキュ |
65 | 1971 | フランクフルト | パトリック・セルキュ |
チームディレクター時代
[編集]1972年に現役を引退したポストは、1974年にTI・ローリーの監督に就任。ハニー・クイパー、ヘリー・クネットマン、ヤン・ラース、ヨープ・ズートメルク(全てオランダ人。また、いずれも世界自転車選手権のプロ・個人ロード優勝経験者)といった名選手たちを指揮した。また1983年にはパナソニックの監督となり、フィル・アンダーソン、エリック・バンデレールデン、ビアチェスラフ・エキモフ、オラフ・ルードヴィッヒ、マウリツィオ・フォンドリエストらを指揮。歴代のチームディレクターとして高い評価も与えられている[2]。
パナソニックの監督を退任後は一時現場から離れたが、2005年からラボバンクの顧問役として活動していた。
また、1965年のツール・ド・フランスにおいて、ドーピング使用を認めた[3]。
2011年1月14日、アムステルダムで死去。77歳没。
脚注
[編集]- ^ http://nos.nl/artikel/211655-peter-post-overleden.html
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2008年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月6日閲覧。
- ^ http://geschiedenis.vpro.nl/artikelen/35548104/
外部リンク
[編集]- ペーター・ポスト - サイクリングアーカイヴス