ポール・ヴィノグラドフ (音楽家)
ポール・ヴィノグラドフ Paul Vinogradoff | |
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出生名 |
パーヴェル・ミハーイロヴィチ・ヴィノグラードフ (Па́вел Миха́йлович Виногра́дов) |
生誕 | 1888年6月15日 |
出身地 | ロシア帝国 ルブリン県ヘルム |
死没 |
1974年12月3日(86歳没) 日本 東京都新宿区中落合 |
学歴 |
パリ音楽院中退 モスクワ音楽院卒業 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト、作曲家、音楽教師 |
担当楽器 | ピアノ |
ポール・ヴィノグラドフ(Paul Vinogradoff, 1888年6月15日[1] - 1974年12月3日[2])はロシア帝国出身のピアニスト、作曲家、音楽教師。
経歴
[編集]ロシア帝国ルブリン県ヘルム(現在のポーランド領ヘウム)の陸軍駐屯地で軍人の子として生まれ、2歳の頃に母から音楽の手ほどきを受けた。6歳のときに子供同士の遊びでの事故で左目の視力を失ったために軍人や官吏への進路は閉ざされ、音楽の道へ進むこととなった[3]。8歳でパリ音楽院に入学し、エミール・デコムに師事[4]。パリで会ったアレクサンドル・スクリャービンの推薦を受け、有力者の尽力により奨学金を得て、9歳でモスクワ音楽院付属高等音楽学校に入学した。モスクワ音楽院ではコンスタンチン・イグームノフにピアノを、セルゲイ・タネーエフ[1]に作曲を師事し、院長ワシーリー・サフォーノフの仲介によりイグームノフ邸に7年間寄宿した。1911年に銀メダルを獲得して音楽院を卒業。1913年から2年間、帝室トムスク音楽学校の校長を務めた[5]。
父の赴任地のハバロフスクを訪れたのち、北京、奉天、ハルビン、ウラジオストクに滞在して音楽活動をした。1917年にハルビンの歌手ローザ・ラパポルト[注釈 1]と結婚。その後、日本を訪れて演奏活動をしていたが、1923年の関東大震災で横浜の自宅と財産を失ったことをきっかけに、妻を伴いジャワ、スマトラ[7]への演奏旅行に出発[5]。1924年8月にはオーストラリアのシドニーに移住し、1932年から1936年までニュージーランドで活動した[8]。オーストラリア国籍を取得している[2]。
1937年に単身で再度来日。日本音楽学校、東洋音楽学校、武蔵野音楽大学、日本大学芸術学部で教鞭を執った。1969年2月11日に明治100年記念外国人叙勲において勲四等瑞宝章を受章[9]。1974年12月3日に新宿区中落合の聖母病院で死去[10]。告別式はニコライ堂で行われ、横浜外国人墓地に埋葬された[11]。
作品
[編集]- ピアノ名曲集 [1](共同音楽出版社、1969年)NCID BA86321475
- ピアノ名曲集 2(共同音楽出版社、1970年)NCID BA86321475、国立国会図書館書誌ID:000001314398
- よろこびの歌 Glory Song (ベートーヴェン作曲、ヴィノグラドフ編曲)
- ロシアの子供の歌 Russian Children's Song (ヴィノグラドフ編曲)
- ジプシーの歌 Gipsy's Song (ヴィノグラドフ編曲)
- 人形のワルツ Dolls Waltz
- アルペジオのためのエチュード Etude Arpeggio
- 心配ごと Anxiety
- 子供のための組曲第2番 Second Children's Suite
- クリスマスのベル Christmas Bells
- 悲しきワルツ Melancholic Waltz
- ポエーム Poem
- 夢 Dream
- 昔の国のおどり Old Country Dance
- 木枯らし Gentle Wind
- マズルカ Mazurka
- 重音で編曲された小犬のワルツ Chopin Waltz, Op.64,No.1 (in Double Notes) (ショパン作曲、ヴィノグラドフ編曲)
- 重音で編曲されたショパンのワルツ Chopin Waltz, Op.64,No.2 (in Double Notes) (ショパン作曲、ヴィノグラドフ編曲)
教え子
[編集]- 多美智子[4](旧姓: 粕谷[12])
- 岡本滋子[13]
- 粕谷喜久子(旧姓: 福田)[14]
- 金沢孝次郎[15]
- 川澄康哉[16]
- 木村圭二[17]
- 小鍛冶邦宏[18]
- 古村義尚[18]
- 鈴木美智子(旧姓: 小原)[19]
- 世良譲[20]
- 宅孝二[21]
- ダン道子[22]
- 花井清[23]
- 東貞一[24][25]
- 日高実則[26]
- 福田一雄[27]
- 福田一穂[27]
- 本間徳男[28]
- 松村順吉[29]
- 三浦泰[30]
- 森田佳三[31]
- 柳昌子[32]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 音楽年鑑 1970, p. 79, ヴィノグラドフ.
- ^ a b コトバンク. ヴィノグラドフ ポール.
- ^ 小山内 2016, p. 207.
- ^ a b 深水 2018.
- ^ a b 小山内 2016, pp. 207–208.
- ^ 小山内 2016, p. 218.
- ^ 小山内 2016, p. 212.
- ^ 小山内 2016, pp. 211–213.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 39, 楽壇事情.
- ^ 音楽年鑑 1975, p. 135, 楽壇事情.
- ^ 小山内 2016, pp. 208–209.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 84, 多美智子.
- ^ 音楽年鑑 1964, p. 58, 岡本滋子.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 92, 粕谷喜久子.
- ^ コトバンク. 金沢 孝次郎.
- ^ 音楽年鑑 1964, p. 194, 川澄康哉.
- ^ 音楽年鑑 1966, p. 85, 木村圭二.
- ^ a b 音楽年鑑 1970, p. 54, 小鍛冶邦宏, 古村義尚.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 116, 鈴木美智子.
- ^ 音楽年鑑 1966, p. 115, 世良譲.
- ^ 音楽年鑑 1932, p. 53, 宅孝二.
- ^ 音楽年鑑 1964, p. 104, ダン・道子.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 139, 花井清.
- ^ コトバンク. 東 貞一.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 217, 東貞一.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 142, 日高実則.
- ^ a b 音楽年鑑 1970, p. 145, 福田一雄, 福田一穂.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 149, 本間徳男.
- ^ 音楽年鑑 1966, p. 255, 松村順吉.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 153, 三浦泰.
- ^ 音楽年鑑 1970, p. 231, 森田佳三.
- ^ 音楽年鑑 1964, p. 146, 柳昌子.
参考文献
[編集]- 小山内道子 著「亡命ロシア人ピアニスト・ポール・ヴィノグラードフの足跡を追って ―1937年再来日前のオーストラリア、ニュージーランドにおける演奏活動とその周辺―」、中村喜和、長縄光男、沢田和彦、ポダルコ・ピョートル 編『異郷に生きる VI : 来日ロシア人の足跡』成文社、2016年、207-220頁。ISBN 978-4-915730-80-1。
- 深水悠子 (2018年10月25日). “多 美智子 第2回 ロシアピアニズムの継承”. わたしたちのピアノ教育史. 全日本ピアノ指導者協会. 2024年2月21日閲覧。
- 東京音楽協会 編『音楽年鑑 昭和8年版』音楽世界社、1932年。NDLJP:1211504。
- 『音楽年鑑 昭和40年版』音楽之友社、1964年。NDLJP:2526518。
- 『音楽年鑑 昭和42年版』音楽之友社、1966年。NDLJP:2526520。
- 『音楽年鑑 昭和45年版』音楽之友社、1970年。NDLJP:2526523。
- 『音楽年鑑 昭和50年版』音楽之友社、1975年。NDLJP:12431034。
- 「ヴィノグラドフ ポール」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』 。コトバンクより2024年2月21日閲覧。
- 「金沢 孝次郎」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』 。コトバンクより2024年2月21日閲覧。
- 「東 貞一」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』 。コトバンクより2024年2月21日閲覧。