コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

マトヴェイ・ザハロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マトヴェイ・ザハロフ
Матвей Захаров
生誕 (1898-08-17) 1898年8月17日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 トヴェリ県ヴォイロヴォ
死没 (1972-01-31) 1972年1月31日(73歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 モスクワ
所属組織 赤衛隊
赤軍
ソビエト連邦軍
軍歴 1918年11月 - 1972年1月
勲章 ソ連邦英雄(2度)
レーニン勲章5個
十月革命勲章
赤旗勲章4個
一等スヴォーロフ勲章2個
チェコスロバキア社会主義共和国英雄
社会主義諸国から19個の勲章
出身校 高等参謀勤務学校など
墓所 クレムリンの壁墓所
テンプレートを表示

マトヴェイ・ヴァシリエヴィチ・ザハロフ (ロシア語:Матве́й Васи́льевич Заха́ров1898年8月17日 - 1972年1月31日)は、ソビエト連邦の軍人。参謀本部軍事アカデミーにはザハロフの記念碑がある。

経歴

[編集]

1898年8月17日にロシア帝国のトヴェリ県ヴォイロヴォに誕生した。マトヴェイが1歳の時に一家はサンクトペテルブルクに転居した。15歳の時に組立工見習いとして働く。1917年2月に赤衛隊に入隊し、冬宮占拠とペトログラードを襲撃したコサック部隊の撃退に参加した。同年12月に共産党に入党した。

1918年3月にペトログラードの砲兵指揮官課程に入校して同年11月に南部戦線ロシア語版第10軍に勤務し、砲兵中隊、後に大隊を指揮した。戦闘中負傷したが、戦列から離れなかった。1919年に高等参謀勤務学校で学び、卒業後は再び南方戦線に戻って師団砲兵補給科長、旅団作戦担当参謀長としてツァリツィン防衛に参加した。

1928年にM.V.フルンゼ名称軍事アカデミー、1937年7月に参謀本部軍事アカデミーを卒業した。その後は軍参謀長、レニングラード軍管区及びオデッサ軍管区の参謀長、労農赤軍参謀総長補佐官を歴任した。

1941年6月に始まった独ソ戦の時は北西方面、カリーニン、予備、ステップ、第2ウクライナ戦線の参謀長を歴任した。1945年7月にザバイカル戦線参謀長に就任し、関東軍の撃破に貢献した。

1945年10月に参謀本部軍事アカデミー校長となり、その後は副参謀総長、軍主任監察官を歴任した。1953年5月からレニングラード軍管区司令官、1957年11月から在ドイツソビエト軍集団総司令官となり、1959年5月にソ連邦元帥に昇進した。

1960年4月から1963年3月まで参謀総長・国防第一次官となり、1971年9月に国防省監察総監となった。ザハロフは一連の党会議代議員に選出され、1961年10月に党中央委員会委員、1954年3月に第4期以降の最高会議代議員となった。

1972年1月31日にモスクワにて、病気が悪化して73歳で死去した。ザハロフの遺骨は、赤の広場クレムリンの壁墓所に埋葬された[1]

脚注

[編集]
  1. ^ 訃報欄『朝日新聞』昭和47年(1972年)2月1日夕刊、3版、11面

外部リンク

[編集]
先代
ワシーリー・ソコロフスキー
セルゲイ・ビリュゾフ
ソビエト連邦軍参謀総長
1960年4月 - 1963年3月
1964年11月 - 1971年9月
次代
セルゲイ・ビリュゾフ
ヴィクトル・クリコフ