マリア・テレーザ・デ・フィリッピス
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マリア・テレーザ・デ・フィリッピス | |
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マリア・テレーザ・デ・フィリッピス (1949年) | |
基本情報 | |
国籍 | イタリア |
出身地 | 同・ナポリ |
生年月日 | 1926年11月11日 |
死没地 |
イタリア 同・ロンバルディア州スカンツォロシャーテ |
没年月日 | 2016年1月8日(89歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1958-1959 |
所属チーム |
'58 マセラティ '59 ポルシェ |
出走回数 | 5 (3スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1958年モナコGP |
最終戦 | 1959年モナコGP |
マリア・テレーザ・デ・フィリッピス(Maria Teresa de Filippis, 1926年11月11日 - 2016年1月8日)は、イタリア出身の元レーシングドライバー。
F1史上初の女性ドライバーとして、記録に名を残している。
経歴
[編集]兄弟と自動車で競い、勝った経験からレースに興味を持ち、足を踏み入れる。スポーツカーレースで活躍し、1955年よりマセラティの公式ドライバーとなる。
1958年、ノンタイトル戦であるF1シラクーザGP参戦し、5位でフィニッシュ。その後、自身が所有していたマセラティで第2戦モナコGPに出走し、初めてF1にエントリーした女性ドライバーとなった。この際は予選落ちとなったが、第5戦ベルギーGPにも参戦すると、予選を19位で通過しF1デビュー。決勝でも、10位完走を果たしている。
その後、第9戦ポルトガルGP・第10戦イタリアGPにも参戦し、共に予選を通過(決勝はどちらもリタイヤ)。翌1959年開幕戦モナコGPでは、ポルシェのF2マシンで参戦したが予選不通過となり、同年をもってレースから引退した。
その後、現役時代に縁の深かったマセラティ社で名誉会長を務めている。
2016年1月10日に死去が報じられた。89歳没[1]。
エピソード
[編集]- 当時F1に参戦していたルイジ・ムッソは恋人であり、結婚の話も持ち上がっていた。フィリッピスのデビュー戦である1958年ベルギーGPでは、2人揃って決勝に進出したが、ムッソは続く第6戦フランスGPで事故死。2人揃ってのレースはこれが唯一となった。
- ピーター・コリンズ、ジャン・ベーラ等、ムッソ以外のトップドライバーとも仲が良かったが、その多くは事故で逝去。フィリッピスの引退には、これらからの失意もあると言われる。
- F1で決勝に進出した女性は、フィリッピスとレラ・ロンバルディの2名のみ。(共にイタリア出身でもある。)
レース戦績
[編集]F1
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | WDC | ポイント |
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1958年 | マリア・テレーザ・デ・フィリッピス (マセラティ) | 250F | マセラティ I6 | ARG | MON DNQ |
NED | 500 | BEL 10 |
FRA | GBR | GER | ITA Ret |
MOR | NC | 0 | |
セントロ・スッド (マセラティ) | POR Ret |
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1959年 | ポルシェ | RSK (F2) | ポルシェ F4 | MON DNQ |
500 | NED | FRA | GBR | GER | POR | ITA | USA | NC | 0 |
F1 (ノン・チャンピオンシップ)
[編集]年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
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1958年 | マリア・テレーザ・デ・フィリッピス (マセラティ) | 250F | マセラティ I6 | BUE | GLV | SYR 5 |
AIN | INT | CAE |
1959年 | BUE | GLV | SYR | INT Ret |
OUL | SIL |
出典
[編集]- ^ “F1初の女性ドライバー、マリア・テレーザ・デ・フィリッピスが逝去”. F1-Gate.com (2016年1月10日). 2016年1月10日閲覧。