マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ
マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ Margarete Julia Netke-Löwe | |
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出生名 | Margarete Julia Löwe |
生誕 | 1884年6月27日 |
出身地 |
ドイツ帝国 ブレスラウ (現 ポーランド ヴロツワフ) |
死没 |
1971年4月30日(86歳没) 日本 東京都港区白金台 |
学歴 |
ベルリン音楽学校 (現: ベルリン芸術大学) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 |
声楽家(ソプラノ) 音楽教育者 |
マルガレーテ・ユリア・ネトケ=レーヴェ[1](Margarete Julia Netke-Löwe、1884年(明治17年)[2][注釈 1]6月27日[2] - 1971年(昭和46年)4月30日[2])は、ドイツの声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。外国人教師として来日し、日本の声楽家を数多く育てた。東京芸術大学名誉客員教授[2]。
経歴
[編集]1884年、ユダヤ人ジャーナリストのエルンスト・レーヴェの娘としてブレスラウ(現・ポーランド領ヴロツワフ)に生まれた。同地の王立アウグスタ高等女学校を卒業し、英語教員免許状を取得。ブレスラウで語学教師としての見習い期間を修了し、ベルリン、ミュンヘン、フランクフルト・アム・マインで声楽を学んだ。ベルリンでは、ベルリン音楽学校[2](現: ベルリン芸術大学)で学び卒業した。フランクフルトではヨハネス・メスハールトとライムント・フォン・ツル=ミューレンに師事[3]。ドイツ、オーストリア、オランダ、バルト三国、スウェーデンなど[2]でコンサート活動を行う。
来日
[編集]1924年(大正13年)10月に東京音楽学校に招かれて来日し、1931年(昭和6年)までドイツ歌曲・唱歌の教師を務めた。その後は東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)で教師を務める傍ら、日本各地や台湾、満州、中国を巡るツアーに参加した。夫は写真家[注釈 2]・画家[2]のマルティン・ネトケ。
1930年代半ばにナチスがドイツで権力を握るようになると、ユダヤ人のネトケ=レーヴェと彼女の夫は、東京の日本社会でもドイツ東洋文化研究協会(OAG)からも排除され、ドイツに戻ることもできなかった。この間、1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールでは声楽部門の審査員[4]などを務めたが、ネトケ=レーヴェが東京音楽学校の教師に戻ることができたのは1946年(昭和21年)[5][注釈 3]であった。
戦後
[編集]1950年まで東京音楽学校教師を、1965年まで東京芸術大学講師を務め、同大学退職時に「外国人名誉客員教授」の称号を得た。その後も、宮城学院女子専門学校(1933年~1940年、現・宮城学院女子大学)や自由学園(1937年~1944年)でも教えた[3][6]。1971年(昭和46年)4月30日、東京都港区白金台の自宅にて老衰のために死去[7][8]。
業績
[編集]主な門下生として、伊藤武雄[7]、木下保[7]、佐藤美子[7][9]、立川清澄[7]、田中信昭[7]、長門美保[7]、四家文子[6][7]、関種子[9][10]、伊藤京子[11]、細川碧[12]、白石顕雄[13]、薗田誠一[9][14]、徳山璉[9]、澤智子[9]、黒澤貞子[9]、斎藤静子[9]、岩谷広子[9]などがいる。
受賞・栄典
[編集]- 1955年:ドイツ連邦共和国功労勲章
主なディスコグラフィー
[編集]- CD ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集 日本語版 オムニバス[15]
著作・寄稿等
[編集]- 音楽 第10號(1933年3月)シューベルトの「魔王」演奏手引/マ・ネトケ、レーヴェ 乙骨三郎 訳、27頁[16]
- 月刊楽譜.22(5);5月號(月刊楽譜発行所、1933-05-01)聲樂家から見たブラームスの意義/ネトケ・レーヴエ[17]
- 月刊楽譜.24(2);2月號(月刊楽譜発行所、1935-02-01)ネトケ・レーヴエ先生謝恩演奏會 近衞氏とレーヴエ夫人及門下生[17]
- 月刊楽譜.24(6);6月號(月刊楽譜発行所、1935-06-01)ネトケレーヴエ夫人[17]
- 婦人之友 .29(4)(婦人之友社 、1935-04)私の好きなCORNER 愛する部屋/マルガレーテ・ネトケ・レーベ[17]
- 婦人之友.31(7)(婦人之友社、1937-07)ネトケ・レーヴエ夫人とお鶴さん[17]
- 婦人之友.31(12)(婦人之友社、1937-12)口繪 住み方工夫 食器戶棚/ネトケ・レーペ[17]
- フィルハーモニー.24(5)(NHK交響楽団 、1952-05)ゲルハルト・ヒュッシュ/レーヴェM.ネトケ[17]
- 音楽の友.8(5);五月號(音楽之友社 、1950-05-01)ネトケレーベ[17]
- 音楽の友.10(6);六月号(音楽之友社、1952-06-01)ゲルハルト・ヒュッシュの芸術/レーヴェ M.ネトケ;桂近乎訳[17]
- 音楽の友.11(9);九月号(音楽之友社、1953-09-01)四人の来朝声楽家の印象/ネトケ・レーヴェ[17]
- 音楽の友.12(9);九月号(音楽之友社、1954-09-01)昔の生徒・今の生徒/ネトケ・レーヴェ[17]
- 音楽の友.17(9);9月号(音楽之友社、1959-09-01)ネトケ=レーヴェ/中山悌一[17]
- シューマン 歌曲集 : 唱法と解釈 M.ネトケ・レーヴェ 著[他](音楽之友社、1955)[17]
- シューベルト歌曲集[2]
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ 日本語表記は、「ネトケ=レーヴェ」、「ネトケ・レーヴェ」、「ネトケ・レーベ」、「ネトケレーヴェ」など、揺れが見られる。
- ^ a b c d e f g h “ネトケ・レーヴェ マルガレーテ”. コトバンク 20世紀日本人名事典. 2020年4月5日閲覧。
- ^ a b 東京芸術大学百年史 2003.
- ^ 日比谷公会堂でコンクール第一夜『大阪毎日新聞』(昭和13年4月10日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p58 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ “「外國人教師關係書類」(明治18年〜昭和24年)の公開について”. 東京藝術大学アーカイブセンター. 2020年4月5日閲覧。
- ^ a b 千田恭子, 森田信一「わが国における洋楽導入と声楽の専門技術修得の過程」『富山大学人間発達科学部紀要』第2巻第2号、富山大学人間発達科学部、2008年3月、45-56頁、CRID 1390853649822167424、doi:10.15099/00000665、hdl:10110/3272、ISSN 1881316X、2024年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 音楽取調掛と東京音楽学校の外国人教師たち 2020.
- ^ 「楽壇事情」『音楽年鑑 昭和47年版』音楽之友社、1972年。NDLJP:12431031 。
- ^ a b c d e f g h 「楽壇に咲く国際美談 故国を追はれた恩師へ教へ子が慰安の催し 花形歌手総動員でけふ謝恩音楽会」『都新聞』1935年1月20日。
- ^ “第二章 アリオンの再建(1936~1941年頃)”. 法政大学アリオンコール. 2020年4月12日閲覧。
- ^ “伊藤京子”. 日本人オペラ名鑑. 2020年4月6日閲覧。
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 592–593, 細川 碧.
- ^ 日本の作曲家 2008, pp. 350–351, 白石 顕雄.
- ^ 「薗田 誠一」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』 。コトバンクより2021年12月31日閲覧。
- ^ “ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集3集 日本語版”. 平凡の友. 2020年4月5日閲覧。
- ^ 東京芸術大学百年史 2003, 東京音楽学校篇 第2巻, p. 952.
- ^ a b c d e f g h i j k l m “ネトケ”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年4月5日閲覧。
参考文献
[編集]- “23. マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ”. 音楽取調掛と東京音楽学校の外国人教師たち. 東京藝術大学音楽学部大学史史料室 (2020年7月). 2021年12月31日閲覧。
- 細川周平、片山杜秀 監修『日本の作曲家 : 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年。ISBN 978-4-8169-2119-3。
- 東京芸術大学百年史編集委員会 編「第3章 大正・昭和の東京音楽学校. 第5節 教職員. 2 外国人教師. (5) マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ Margarete Netke-Löwe」『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻』音楽之友社、2003年、1223-1224頁。ISBN 978-4-2760-0615-7。