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メゾン=ラフィット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Maisons-Laffitte


地図
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) イル・ド・フランス地域圏
(département) イヴリーヌ県
(arrondissement) サン=ジェルマン=アン=レー郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 78358
郵便番号 78600
市長任期 ジャック・ミヤール
2008年-2014年
自治体間連合 (fr) なし
人口動態
人口 22,566人
2006年
人口密度 3343人/km2
住民の呼称 Mansonniens, Mansonniennes
地理
座標 北緯48度56分49秒 東経2度08分44秒 / 北緯48.9469444444度 東経2.14555555556度 / 48.9469444444; 2.14555555556座標: 北緯48度56分49秒 東経2度08分44秒 / 北緯48.9469444444度 東経2.14555555556度 / 48.9469444444; 2.14555555556
標高 平均:38m
最低:22 m
最高:57 m
面積 6.75km2
Maisons-Laffitteの位置(フランス内)
Maisons-Laffitte
Maisons-Laffitte
公式サイト http://www.maisons-laffitte.fr
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メゾン=ラフィットMaisons-Laffitte)は、フランスイル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県コミューン

地理・交通

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メゾン=ラフィットはセーヌ川左岸に沿い、サン=ジェルマン=アン=レーの森fr)の東に位置する。コミューン面積にはセーヌ川に浮かぶコミューン島も含まれている。サン=ジェルマン=アン=レーの約10km北東、パリの約18km北西に位置する。

県道D308が主要道路としてパリ=ポワシー間を結ぶ。1843年より鉄道のパリ・サン・ラザール=ルーアン路線のメゾン=ラフィット駅があり、RER A線トランジリアンL線の駅となっている。また、ラ・デファンスとの間を走るバス路線がある。

歴史

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メゾン=ラフィット城
ロングイユ通り

メゾン=ラフィットについて最初に記録したものは、820年前後のイルミノンの多翼祭壇画fr)にさかのぼる。メゾンとはラテン語のmansioに由来する。この記録はイルミノンという名の修道士によって書かれたもので、543年にクローヴィス1世の子キルデベルトが建てたパリのサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の資産を識別するため意図して書かれた。しかし多翼祭壇画に描かれたMansionis Villaの名がメゾン=ラフィットと符合するかどうか疑問がある。財産目録には、穀物の畑やブドウ畑が記載されていた。川があるにもかかわらず、村には漁業に関する記載がされていない。村の名は長くメゾン=シュル=セーヌ(Maisons-sur–Seine)であった[1]

メゾン=ラフィットの歴史は11世紀に明確となる。この時代以降、領主の邸宅の系譜を作成することが可能となる。最初の領主はニヴァール・ド・セトゥイユ家である。彼の子ジョフロワ1世は、1060年から1066年まで、サン=ワンドリユ修道院にメゾン=シュル=セーヌの門を自由に通過する権利を授けた。また1087年頃にメゾン=シュル=セーヌのクーロンブ修道院に教会を、土地とブドウと徴収した税金に一部や献金を与えた。

現在もある教会の周囲に家々が集まって村が形成された。その周囲を墓地や司祭館、旧修道院、城が囲んでいた。

メゾンの封土はニヴァール・ド・セトゥイユの子孫に受け継がれ、その後2人の姪とゴークール家のジャン2世の手に落ちた。1602年、ジャン8世・ド・ロングイユが分割されていたメゾン荘園を統一した。1629年に後継者となったルネ・ド・ロングイユはパリ高等法院の長であり、フランソワ・マンサールに命じて城を建てさせた。

1759年に聖職者シャリーヌが人口を数えたとき、822人であった。内訳は、耕作地の約40%占めるブドウ栽培農家であった。

ロングイユ家の末裔が城と土地を手放した後、主となったのはアルトワ伯(のちのシャルル10世)であった。彼がフランス革命で海外へ逃亡した後、変遷を経て1804年にジャン・ランヌ将軍が新たな領主となった。しかし将軍の死後、未亡人はメゾン領を銀行家ジャック・ラフィットへ売却した。1830年から1831年までフランスの首相を務めたラフィットは、退陣後に不動産取引のためメゾンの領地を分割することに決めた。1833年、厩舎やその付属建築物が、ル・パルク地区(Le parc)で大勢のバイヤーに建築材料を提供するため壊された。彼は新たな通りや広場を設置し、既存の通りを軸として幾何学的設計がなされた。ラフィットは新しい広場や通りに、フランス第一帝政にちなんだ名を付けていった(ナポレオン広場など)。1838年には100戸が既に建っていたが、さながら『メゾン=ラフィットの素晴しい眺め』という広告を集めた版画のアルバムのようだった。これら多くの建物は中流階級が社会的理想とする、小さな建物であった。この新たな住宅地は鉄道の到来に助けられ、より住宅が増え富裕層が移ってくるようになった。

1882年、コミューンはジャック・ラフィットの姓をコミューン名に加え、正式にメゾン=ラフィットとした。

経済

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2019年をもって競馬開催を終了し、調教施設としてリニューアルするメゾン=ラフィット競馬場[2]があるため、コミューンは別名『馬のまち』(cité du cheval)という。

メゾン=ラフィットのル・パルク地区は、コミューン面積の60%を占め、メゾン=ラフィット住民の約40%が暮らしている。

姉妹都市

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関係者

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出身者

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居住その他ゆかりある人物

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脚注

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  1. ^ Dictionnaire historique des environs de Paris du docteur Ermete Pierotti
  2. ^ 【沢田康文の欧州リポート】欧州パターン委員会、今年の重賞格付け発表 6競走昇格&8競走降格”. スポーツナビ (2020年2月6日). 2020年2月7日閲覧。