メルビン・バンチ
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州テクサーカナ |
生年月日 | 1971年11月4日(53歳) |
身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 195 lb =約88.5 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1992年 MLBドラフト15巡目 |
初出場 |
MLB / 1995年5月6日 NPB / 2000年4月1日 |
最終出場 |
MLB / 1999年6月25日 NPB / 2002年7月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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メルヴィン・リン・バンチ・ジュニア(Melvin Lynn Bunch Jr. , 1971年11月4日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。2000年から2002年まで中日ドラゴンズに所属していた。
来歴
[編集]MLB時代
[編集]1992年のMLBドラフトでカンザスシティ・ロイヤルズから15巡目で指名を受け入団[1]。1995年にメジャーデビューし、初勝利を挙げた。その後再びマイナーでプレーし、1999年にシアトル・マリナーズでメジャーに再昇格した。同年はマリナーズ傘下のAAA級タコマで主に先発として[2]21試合に登板し、10勝2敗、防御率3.10の成績を残していた[3]。
来日前はメジャーではさほど実績はなかったが、最高球速150 km/hの速球とスライダー、大きなカーブが武器で、制球力も安定している投手と評されていた[4]。本人も来日当初、最高球速150 km/hの速球とカーブが決め球であると語っていた[5]。
中日時代
[編集]1999年12月3日に星野仙一監督率いる中日ドラゴンズと年俸25万ドル、契約金10万ドルで1年契約を締結した[3]。背番号は42[6]。中日は同年オフ、サムソン・リーがMLB挑戦を目指して退団したことから新外国人を含めた投手が補強ポイントとなっていた[4]。
2000年の春季キャンプでは前に突っ込みすぎていた投球フォームの改善に取り組んだり、日本の野球に溶け込もうと選手たちに覚えたばかりの日本語で話しかけたり、ほとんどの外国人選手が敬遠していた長距離のランニングに積極的に取り組んだりしていた[7]。また打者の手元でやや曲がる速球やスプリットといった新球種も披露していた[8]。
開幕後の同年4月1日のヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で来日初登板初勝利を挙げた[9]。4月7日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)でノーヒットノーランを達成[9]。8月22日の横浜戦(ナゴヤドーム)で7回2/3を無失点に抑えて勝利投手となり、10勝目を挙げた[10]。この勝利によって、中日の外国人投手では1986年の郭源治以来14年ぶりに2ケタ勝利を挙げた[10]。また、中日の外国人投手が来日1年目で2桁勝利を達成したのは球団史上初であった[10]。最終的に14勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得したほか、リーグ4位の防御率2.98をマークした[11]。
オフに沢村賞の候補として名前が挙がったが[注 1][13]、完投数が少ないことなどを理由に選出は見送られ[注 2]、同年の沢村賞は該当者なしとなった[14]。
2001年、前年最多勝の実績を買われて開幕投手の打診を受けたが、右前腕痛のため辞退した[15]。前半戦は5勝にとどまったが、後半戦の開幕投手を任され、勝利を挙げた[15]。8月3日のヤクルト戦(明治神宮野球場)では、3回表に石井一久からプロ初本塁打を放った[1]。9月30日の阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)で勝利投手となり、2年連続2桁勝利を達成[16]。中日の外国人投手が来日1年目から2年連続で2桁勝利を達成したのは球団史上初のことであった[16]。
2002年、3月24日のオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦(ナゴヤドーム)で打球が右肘に直撃し緊急降板するというアクシデントに見舞われた[17]が、本拠地ナゴヤドームで開催された開幕3戦目となる4月2日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦でシーズン初登板[18]。8回1失点の好投でシーズン初勝利を挙げた[18]ほか、この年から監督に就任した山田久志監督に初白星をプレゼントした[18]。6月7日の巨人戦(福岡ドーム)[19]、7月30日の巨人戦(東京ドーム)[20]では、いずれも桑田真澄からソロ本塁打を放った。しかし、先発予定日である8月6日にナゴヤドームに向かう途中で体調不良を訴え、この日の先発を回避[21]。不整脈と診断され、同年11月23日に退団が発表され[22]、野球選手としても現役引退した[23]。
中日退団後に帰国して精密検査を受けたところ、心臓に異常はないという診断を受け、2003年5月時点ではテキサス州内で現役復帰を目指してトレーニングを続けていた[24]。このころには『大阪日刊スポーツ』が、当時星野が監督を務めていた阪神タイガースがバンチの獲得を目指していると報じたが[24]、結局は入団しなかった。引退後は地元テキサスに戻り造園業を営んでいる[25]。
選手としての特徴
[編集]投球
[編集]長身から投げ下ろす最高球速150 km/h前後の速球と、速球と同程度の球速で落ちるSFFなどの多彩な変化球を武器としていた。
打撃
[編集]投手でありながら打撃も良く、中日時代に通算3本塁打を放った。
人物
[編集]陽気な性格で普段から名古屋弁を話し周囲を和ませ、チームメイトからも親しまれた[26]。「投げる試合は全て勝ってみせる」と豪語し、キャンプの打ち上げで足腰が立たなくなるぐらいビールを飲み続け「テキサス男は豪快」というイメージを守ろうとするなど、豪快で強気な面があった一方、2年目のオフに帰国した際、祖父に日本のお土産として自身のノーヒットノーランのビデオを送るなど、細やかな気配りもできる選手だった[27]。トランスワールドスポーツの野球特集において、外国人選手が日本人とトラブルを起こさず日本で活躍するには「自我を抑え和をもってチームメイトと接すれば活躍できる。バンチはそれができていたため活躍できた」と報じられた。またバンチ自身も日本の文化である「協調性」は欧米では有り得ないとした上で、「日本で活躍するには協調性が必要」と話している。
中日時代に同僚だった岩瀬仁紀と山本昌によれば、バンチは同時期に抑えとして活躍したエディ・ギャラードとは仲が悪かったという[28]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1995 | KC | 13 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 175 | 40.0 | 42 | 11 | 14 | 1 | 0 | 19 | 6 | 0 | 25 | 25 | 5.62 | 1.40 |
1999 | SEA | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 55 | 10.0 | 20 | 3 | 7 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 13 | 13 | 11.70 | 2.70 |
2000 | 中日 | 27 | 25 | 2 | 1 | 0 | 14 | 8 | 0 | -- | .636 | 756 | 184.0 | 141 | 12 | 77 | 2 | 3 | 168 | 4 | 0 | 67 | 61 | 2.98 | 1.18 |
2001 | 25 | 24 | 1 | 0 | 0 | 10 | 8 | 0 | -- | .556 | 684 | 160.0 | 158 | 14 | 63 | 6 | 5 | 151 | 2 | 1 | 64 | 60 | 3.38 | 1.38 | |
2002 | 17 | 15 | 2 | 0 | 0 | 7 | 7 | 0 | -- | .500 | 472 | 112.2 | 112 | 14 | 27 | 1 | 4 | 97 | 6 | 0 | 45 | 41 | 3.28 | 1.23 | |
MLB:2年 | 18 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | *0 | .250 | 230 | 50.0 | 62 | 14 | 21 | 1 | 0 | 23 | 6 | 0 | 38 | 38 | 6.84 | 1.66 | |
NPB:3年 | 69 | 64 | 5 | 1 | 0 | 31 | 23 | 0 | -- | .574 | 1912 | 456.2 | 411 | 40 | 167 | 9 | 12 | 416 | 12 | 1 | 176 | 162 | 3.19 | 1.27 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「-」は記録なし
- 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す
タイトル
[編集]- NPB
- 最多勝利:1回 (2000年)
表彰
[編集]- NPB
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2000年5月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2000年)
- 愛知トヨタドラゴンズクラウン賞 : 1回 (2000年)
記録
[編集]- NPB投手記録
- 初登板・初先発・初勝利:2000年4月1日、対ヤクルトスワローズ2回戦(ナゴヤドーム)、7回2/3を無失点
- 初奪三振:同上、2回表にロベルト・ペタジーニから
- 初完投勝利・初完封勝利:2000年4月7日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム) ※史上68人目のノーヒットノーラン
- オールスターゲーム出場:1回 (2000年)
- NPB打撃記録
- 初安打:2000年4月7日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、3回表に川村丈夫から中前安打
- 初打点:2000年7月13日、対阪神タイガース16回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に湯舟敏郎から左前適時打
- 初本塁打:2001年8月3日、対ヤクルトスワローズ16回戦(明治神宮野球場)、3回表に石井一久から右越ソロ[1]
背番号
[編集]- 50 (1995年)
- 31 (1999年)
- 42 (2000年 - 2002年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c “バンチ 夢空砲 プロ初アーチも、7勝目も吹っ飛ぶ”. 中日スポーツ (2001年8月4日). 2002年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ 『読売新聞』1999年11月13日東京朝刊スポーツA面17頁「中日がダイエー・工藤と交渉 16日、都内のホテルで/プロ野球」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 『読売新聞』1999年12月4日東京朝刊スポーツC面18頁「中日に新外国人選手 3Aのバンチ投手と契約/プロ野球」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 「竜 バンチ獲得へ マリナーズの150キロ右腕」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年11月12日。オリジナルの2001年3月5日時点におけるアーカイブ。
- ^ 『読売新聞』2000年2月1日大阪朝刊スポーツA面29頁「中日の新外国人、バンチ「内角攻める投球を」/プロ野球」(読売新聞大阪本社)
- ^ 『読売新聞』1999年12月26日東京朝刊スポーツC面47頁「中日、新人ら背番号発表/プロ野球」(読売新聞東京本社)
- ^ 「バンチ カーブ絶品 3回5奪三振」『中日スポーツ』中日新聞社、2000年2月20日。オリジナルの2001年2月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「バンチ、47球キラリ キャンプ初日いきなりブルペンへ」『中日スポーツ』中日新聞社、2000年2月2日。オリジナルの2001年2月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b “バンチ ノーヒットノーラン 「マシンガン」ばっちり抑えた”. 中日スポーツ (2000年4月8日). 2001年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ a b c “バンチ10勝 球団初外国人1年目2ケタ”. 中日スポーツ (2000年8月23日). 2001年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ “年度別成績 2000年 セントラル・リーグ”. NPB(一般社団法人日本野球機構). 2022年4月20日閲覧。
- ^ a b 「沢村賞に広島・ジョンソン 外国選手は64年のバッキー以来2人目 (1/2ページ)」『SANSPO.COM』産業経済新聞社、2016年10月24日、1面。オリジナルの2020年6月15日時点におけるアーカイブ。2020年6月15日閲覧。
- ^ a b 「「沢村賞」該当者なし」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2000年10月25日。オリジナルの2001年1月11日時点におけるアーカイブ。2001年1月11日閲覧。
- ^ 「沢村賞該当者なしは選考基準緩めた89年以降2度目」『日刊スポーツ』スポーツニッポン新聞社、2019年10月21日。オリジナルの2020年6月15日時点におけるアーカイブ。2020年6月15日閲覧。
- ^ a b “バンチ 初回2失点で目が覚めた”. 中日スポーツ (2001年7月28日). 2002年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ a b “バンチ10勝 竜7連敗でストップ”. 中日スポーツ (2001年10月1日). 2002年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ “バンチ打球直撃 右ひじ打撲で緊急降板”. 中日スポーツ (2002年3月25日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ a b c “バンチ 吠えた!! 「山田監督、心からおめでとう」”. 中日スポーツ (2002年4月3日). 2004年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ この本塁打は公式戦で福岡ドームで投手が打った初めての本塁打となった。
- ^ “バンチ続投 なぜだ”. 中日スポーツ (2002年7月31日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ “バンチ緊急入院 不整脈?きょう午後検査結果発表”. 中日スポーツ (2002年8月7日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』2002年11月24日東京朝刊スポーツ1面23頁「中日のゴメス、バンチ、呂が退団(プロ野球短信)」(朝日新聞東京本社)
- ^ 足木敏郎『ドラゴンズ裏方人生57年』、268-269頁。
- ^ a b 「星野阪神Vの使者 新外国人に前中日バンチ急浮上 00年ノーヒットノーラン&最多勝「星野監督の役に立ちたい」」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2003年5月20日。オリジナルの2003年6月6日時点におけるアーカイブ。2003年6月6日閲覧。
- ^ 足木敏郎『ドラゴンズ裏方人生57年』、269頁。
- ^ 足木敏郎『ドラゴンズ裏方人生57年』、267-8頁。
- ^ 足木敏郎『ドラゴンズ裏方人生57年』、266-267頁。
- ^ 『週刊ベースボール』2021年6月14日号(第76巻第26号、通巻:第3709号)11頁「昇竜の記憶 中日ドラゴンズ85年史 鉄腕サウスポー2人がドラゴンズを語り尽くす 山本昌×岩瀬仁紀」(ベースボール・マガジン社)
参考文献
[編集]- 足木敏郎『ドラゴンズ裏方人生57年』中日新聞社、2009年。ISBN 9784806206040。