ランチア・ベータ・モンテカルロ・ターボ
ランチア・モンテカルロ・ターボ(1981) | |
カテゴリー | グループ5 |
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主要諸元 | |
シャシー | モノコック+鋼管構造材の混成[1] |
サスペンション(前) | マクファーソン・ストラット,ビルシュタイン製ダンパー[1] |
サスペンション(後) | マクファーソン・ストラット,ビルシュタイン製ダンパー[1] |
全長 | 4600 mm[1] |
全幅 | 1900 mm[1] |
全高 | 1100 mm[1] |
トレッド | (前)1440/(後)1570 mm[1] |
ホイールベース | 2300 mm[1] |
エンジン | 14.78T[1] 1425,9 cc[1] 直列4気筒[1] シングルターボ[1] ミッドシップ |
トランスミッション | 前進5段+後退[1] コロッティ Duo-Bloc 50%LSD[1] |
重量 | 890 kg[1] |
タイヤ | (前)225/25 VR16,(後)305/50 VR16,ピレリP7[1] |
主要成績 | |
チーム | ランチア・コルセ、ジョリークラブ、GSチューニング |
ランチア・ベータ・モンテカルロ・ターボ(Lancia Beta Montecarlo Turbo)とは、ランチアが1979年のメイクス世界選手権・ディビジョン2(2リッター以下クラス)参戦のために開発・製作したグループ5レーシングカーである。
概要
[編集]1976年、ランチアはストラトスでスポーツカーレースに参戦したものの、期待した結果を残すことは出来なかった。しかし1979年、ランチアはベータ・モンテカルロ・ターボを開発し、再びスポーツカーレースの舞台に復帰することになった。
ベータ・モンテカルロ・ターボは、1979年のメイクス世界選手権(WCM)でディビジョン2(2リッター以下クラス)のタイトル獲得を始め、1980年のWCMと1981年の世界耐久選手権(WEC)で2年連続で総合・ディビジョン2の両タイトルを連覇。更に1980年のドイツレーシングカー選手権(DRM)でのドライバーズタイトル獲得と、ランチアに多くのタイトルをもたらした。
マシン
[編集]シャシー
[編集]シャシー、サスペンションの開発はダラーラが請け負い、空力開発はピニンファリーナのロレンツォ・ラマチョッティが担当。エンジン開発はランチアのチーフエンジニア、ジャン二・トンティ自ら開発を指揮した[2]。
シャシーはベータ・モンテカルロのボディシェルのうちセンターセクションのみを使用し、前後に接続したスペースフレームにサスペンション、エンジンを装備[3][4]。サスペンションは、ベースモデルに準じて前後ともマクファーソンストラットを使用[5]。タイヤはピレリのラジアルタイヤを装備していた[6]。ボディカウルにはケプラーを使用し、FRPより約3割の軽量化を達成した[7]。
ベータ・モンテカルロ・ターボにおいて先進的だったのは、パーツの耐久性を考慮してセッションごとに各コンポーネンツを交換していたことで、この時代ではF1でのみ行われていたレース戦略だった[3]。
エンジン
[編集]ベータ・モンテカルロ用のNA直4エンジンをベースにターボ化され、横置き・ミッドシップに搭載された。排気量2リッター以下のディビジョン2のレギュレーションに対応するため排気量を2,000ccから1,425ccに縮小、ターボはKKK製を採用した[4]。エンジンヘッドは、フィアットアバルト131と共通のDOHC16バルブヘッド採用。エンジン自体を前傾させ低重心化を図った[7]。エンジン出力は370ps/8800rpmを発生し、最終的には473ps/9500rpmまでパワーアップした[8]。
戦績
[編集]1979年
[編集]ベータ・モンテカルロ・ターボは1978年夏に開発がスタートし、9月には設計を完了。12月18日、ピニンファリーナのファクトリーでプレス発表を行った。この時点ではWRCで活躍中のフィアット・アバルト131用のNAエンジンを搭載していたが、1979年4月22日、ヴァレルンガで改めてターボ搭載車を公開した[9]。
メイクス世界選手権
[編集]1979年のWCMには、ワークスのランチア・コルセのみが参戦。リカルド・パトレーゼとカルロ・ファセッティ、ワルター・ロールを中心にドライバー陣を編成した。第4戦 シルバーストーン6時間でデビューし、次戦のニュルブルクリンク1000kmでディビジョン2クラスの4位に入賞し初ポイントを獲得。第6戦 コッパ・フローリオではポルシェ・935使用チームが出場していなかったこともあり、総合で2位に入賞しクラス優勝も達成した。その後第8戦 ブランズハッチ6時間でもクラス優勝した。79年、ベータ・モンテカルロ・ターボはシーズン途中からの参戦ながら5戦2勝でディビジョン2タイトルを獲得し、総合ランキングでも2位に入る活躍を見せた[1][10][5][6]。
ジーロ・アウトモビリスティコ・ディターリア
[編集]シーズンオフに開催されたジーロ・ディターリアにはジル・ヴィルヌーヴ、ワルター・ロール/クリスチャン・ガイストドルファー組とリカルド・パトレーゼ、マルク・アレン/イルッカ・キビマキ組の2台をエントリーさせた。2台のベータ・モンテカルロ・ターボはレースを支配していたものの、イモラ‐ミサノ間のリエゾン区間で高速道路を走行するレギュレーション違反により、2台とも失格に終わった[1][11]。
1980年
[編集]1980年仕様車は、エンジン出力が410hpと前年より30hp向上。車重は前年より40㎏軽量化され、一段と競争力を向上させた[12]。更にサスペンション・ジオメトリーの改良や[13]、フロント15インチ、リア19インチとタイヤサイズの変更も行われた[1]。マシン名はベータの呼称が外れ、モンテカルロ・ターボとなった[1]。
メイクス世界選手権
[編集]1980年のWCMのメイクスラウンドに、ワークスはパトレーゼとロールを主力ドライバーとしてエディ・チーバー、ミケーレ・アルボレート、ピエルカルロ・ギンザーニ、ジャンフランコ・ブランカテリ、テオ・ファビらの若手イタリアンを抜擢。加えてハンス・へイヤーなど開催国の地元ドライバーも起用された[1]。セミワークスのジョリークラブもカルロ・ファチェッティ、マルティーノ・フィノットの両ドライバーを擁して選手権に参戦した[1]。
WCM開幕戦 デイトナ24時間にワークスは参戦しなかったが、ジョリークラブがクラスウィンの好成績を上げた。第2戦 ブランズハッチ6時間で、ワークスは総合で1‐2フィニッシュを記録し、第3戦 ムジェロ6時間では2リッター以上クラスのディビジョン1にもマシンをエントリーさせ、2戦連続で総合の1‐2フィニッシュを達成した。その後第8戦 ワトキンズ・グレン6時間でも総合で1‐2フィニッシュで優勝した。ランチアはディビジョン2で10戦全勝、総合・ディビジョン2の両部門でタイトルを獲得した[1][10][13][14]。
ドイツレーシングカー選手権
[編集]ランチアは1980年シーズン、WCMに加えてドイツレーシングカー選手権(DRM)にも進出した。GSチューニングのハンス・へイヤーがディビジョン2で13戦中2勝をあげ、BMW・320ターボに乗るハンス=ヨアヒム・スタックやフォード・カプリ・ターボを駆るクラウス・ルートヴィッヒらを抑えて総合タイトルを奪取した[1][15][16]。
ジーロ・アウトモビリスティコ・ディターリア
[編集]1980年のジーロ・ディタリアにはグループ6仕様で参戦。#698 リカルド・パトレーゼ、マルク・アレン/イルッカ・キビマキ組が優勝。#699 ミケーレ・アルボレート、アッティリオ・ベッテガ/アルナルド・ベルナッキーニ組も2位に入り1‐2フィニッシュを飾った[17]。#699には、通常のターボエンジンではなくスーパーチャージャー装備エンジンが搭載されていた。このエンジンはその後037ラリーに転用され、1983年WRCでマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。またヨーロッパラリー選手権で1983年から1985年にかけて3年連続でチャンピオンを輩出した[17]。
1981年
[編集]1981年も世界耐久選手権(WEC)と改称されたスポーツカー世界選手権のディビジョン2のメイクス戦に参戦を継続。2リッター以上のディビジョン1用に490psを発揮する1,773ccターボエンジンも用意された[15][18]。
世界耐久選手権
[編集]1981年のランチア・コルセは、デイトナ24時間、モンツァ1000㎞、シルバーストン6時間と3戦連続で全滅とシーズン前半は極度の不振だったが、ジョリークラブなどプライベーターがクラス優勝を続けポイントを重ねていった。メイクスラウンド第4戦のニュルブルクリンク1000㎞でも、GSチューニングのハンス・へイヤー/ピエルカルロ・ギンザーニ組がクラス優勝し、プライベーターの活躍によって4連勝を飾った[19]。
ランチア・コルセはル・マン24時間に3台をエントリーさせ、グループ5クラス2位(2リッター以下クラス優勝)とようやく好成績を残した[20]。その後メイクスラウンド最終戦のワトキンズ・グレン6時間でも、パトレーゼ/アルボレート組、アンドレア・デ・チェザリス/アンリ・ペスカロロ組により1‐2フィニッシュで優勝した[20]。
結果、ランチアはメイクスタイトルの掛かった6レースを全勝し、ディビジョン2のメイクスタイトルを3連覇することになった。総合でも第7戦 ニュルブルクリンクでのディビジョン1クラスで獲得した6ポイントの加算により、連覇を果たした[17][10][21][22][20]。
ドイツレーシングカー選手権
[編集]81年のDRMは競争力が増したフォード・カプリ・ターボがシリーズを支配し、チャンピオンマシンとなった。ランチアはへイヤー2勝でドライバーズ・ランキング4位。ジークフリート・ミューラー・ジュニアはランキングに5位終わった[22][20]。
ワークスを中心としたWEC、DRMでの活動は1981年限りで終了したが、ベータ・モンテカルロ・ターボに搭載されていたエンジンは、新たなフィールドで活躍を続けた。1982年のWECにフルエントリーしたグループ6マシン、LC1にはベータ・モンテカルロ・ターボのエンジンが流用された[23]。LC1は1982年のWECで3勝を上げ、ポルシェ・956に対抗できる唯一のマシンとして、最後までドライバーズ・タイトルを争った[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Deganello 2005, p. 61.
- ^ Canata 2017, p. 77.
- ^ a b Deganello 2005, p. 57.
- ^ a b 大内 2013, p. 93.
- ^ a b Ozawa 2017, p. 62.
- ^ a b 檜垣 2022, p. 104.
- ^ a b Deganello 2005, p. 59.
- ^ 檜垣 2022, p. 103.
- ^ Deganello 2005, p. 60.
- ^ a b c d 大内 2013, p. 94.
- ^ 檜垣 2022, pp. 104–105.
- ^ 三重宗久「混迷のスポーツカー・レース」『レーシングカー'80』、二玄社、1980年、181頁。
- ^ a b Ozawa 2017, p. 64.
- ^ 檜垣 2022, pp. 105–106.
- ^ a b Ozawa 2017, p. 65.
- ^ 檜垣 2022, pp. 106–107.
- ^ a b c Deganello 2005, p. 63.
- ^ 檜垣 2022, p. 106.
- ^ 檜垣 2022, pp. 106‐107.
- ^ a b c d 檜垣 2022, p. 107.
- ^ Canata 2017, p. 78.
- ^ a b Ozawa 2017, p. 67.
- ^ 檜垣和夫「SPORTSCAR PROFILE SERIES Ⅱ」『CAR GRAPHIC』第468巻、二玄社、2000年、172頁。
参考文献
[編集]- Elvio Deganello「LANCIA BETA MONTECARLO Gr.5 TURBO」『Car Magazine』第323巻、ネコ・パブリッシング、2005年。
- 大内明彦「Gr.C前哨戦となったシルエット計画」『RACING ON』第462巻、三栄書房、2013年。
- Kensuke Ozawa「Lancia Beta Monte Carlo」『RACING ON』第488巻、三栄書房、2017年。
- Anna Canata「VSポルシェ・序章」『RACING ON』第488巻、三栄書房、2017年。
- 檜垣和夫「スポーツカー・プロファイル・シリーズ ランチア・ベータ・モンテカルロ グループ5篇」『CAR GRAPHIC』第737巻、カーグラフィック、2022年。