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リカルド・オドノポソフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リカルド・オドノポソフ
基本情報
生誕 (1914-02-24) 1914年2月24日
出身地 アルゼンチンの旗 アルゼンチンブエノスアイレス
死没 (2004-10-26) 2004年10月26日(90歳没)
学歴 ベルリン音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 ヴァイオリニスト
担当楽器 ヴァイオリン

リカルド・オドノポソフ(Ricardo Odnoposoff、1914年2月24日 - 2004年10月26日)は、アルゼンチンブエノスアイレス生まれのヴァイオリニストである。

経歴

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1914年、ブエノスアイレスでユダヤ系ロシア移民の子として生まれた。13歳の時、ベルリン音楽大学に入学し、1928年から1931年までカール・フレッシュにヴァイオリンを学び、パウル・ヒンデミットに作曲を学んだ。1931年、エーリヒ・クライバー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏のソリストとしてデビューした。

1932年、ウィーンのコンクールで第1位を獲得し、1937年のウジェーヌ・イザイ・コンクールで、ダヴィッド・オイストラフと優勝を争い、第2位を獲得した。このコンクールでは、オイストラフがソ連政府のチームを引き連れてコンクールの数週間前から開催地であるブリュッセル入りし、完璧な準備を整えていたのに対し、オドノポソフは当時ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターを務めており、コンクールの前日、ウィーンでの演奏会を終えた後、夜行列車でブリュッセルへ向かい、休みをとらないままコンクールに臨んだという。

1934年1月1日、ウィーン国立歌劇場総監督のクレメンス・クラウスによって、ウィーン国立歌劇場管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに採用される。総監督のクラウスの責任で弾いていた試用期間を経て、1935年9月1日に正式にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任した。ナチスによるオーストリア併合の影響により、1938年9月1日に歌劇場およびウィーン・フィルを退団し、ウィーンを離れた。

1944年、カーネギーホールの演奏会でアメリカ・デビューを果たし、アメリカではアルトゥーロ・トスカニーニブルーノ・ワルターエルネスト・アンセルメレナード・バーンスタインフリッツ・ブッシュアンドレ・クリュイタンスなどと共演した。

1956年にウィーンに戻り、1957年にウィーン音楽アカデミーの教授に就任、後にウィーン・フィルハーモニーの団員となるパウル・グッゲンベルガー(第1ヴァイオリン奏者)、オルトヴィン・オットマイヤー(第2ヴァイオリン奏者)、エドヴァルト・クドラク(ヴィオラ奏者)らを育てた。1973年にウィーン音楽アカデミー教授を退任し、1975年から1984年までチューリヒ音楽院でヴァイオリンの教授を務めた。

1994年2月24日に80歳の誕生日を迎え、翌25日にウィーン楽友協会大ホール壇上での記念式典でウィーン・フィルハーモニーの名誉リングが贈られた。

2004年、ウィーンで没した。

参考文献

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  • ヨーアヒム・ハルトナック「二十世紀の名ヴァイオリニスト」(白水社松本道介訳)

脚注

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外部リンク

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