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レイ・オルドニェス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レイ・オルドネスから転送)
レイ・オルドニェス
Rey Ordóñez
ニューヨーク・メッツ時代(1999年5月30日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地  キューバ
ハバナ州ハバナ
生年月日 (1971-01-11) 1971年1月11日(53歳)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1993年 アマチュア・フリーエージェントとしてニューヨーク・メッツと契約
初出場 1996年4月1日 セントルイス・カージナルス
最終出場 2004年7月19日 ミルウォーキー・ブルワーズ
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

レイナルド・オルドニェス・ペレイラReynaldo "Rey" Ordóñez Pereira , 1971年1月11日 - )は、キューバ共和国ハバナ出身の元プロ野球選手遊撃手)。右投右打。

経歴

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キューバ時代 - 亡命

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キューバ国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"では地元ハバナのチーム、ゲレーロス・デ・メトロポリタノスレオネス・デ・インダストリアレスに所属。インダストリアレスにはキューバ代表の正遊撃手ヘルマン・メサが在籍していた。

1993年7月12日、第19回夏季ユニバーシアード大会野球競技のB代表の一員としてアメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローに滞在中、宿舎を囲む高さ2.5メートルのフェンスをよじ登って脱出し、亡命した。亡命後は北米独立リーグノーザンリーグセントポール・セインツで15試合プレー。シーズン終了後の10月29日にMLBニューヨーク・メッツと契約を結び、入団した。

ニューヨーク・メッツ

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1995年マイナーリーグのAAA級ノーフォークでフルシーズンを過ごした。抜群の守備能力の高さを発揮し、メッツはこのシーズン限りで正遊撃手のホセ・ビスカイーノ二塁手コンバートした。

1996年4月1日の開幕戦の対セントルイス・カージナルス戦でMLB初出場。7回に出た左翼線を破る当たりでは外野深くまで移動、両膝を付く体勢で左翼手からの返球を受け取り、そのままの体勢から本塁へ送球して補殺を記録した。対戦したカージナルスの、のちにアメリカ野球殿堂入りする名遊撃手オジー・スミスはオルドニェスのプレーを見て、「私の後継者となる存在」と高く評価した。この年は151試合に出場し、打撃成績は打率.257・1本塁打・30打点で、OPSは.592とMLBの全規定打席到達者の中で2番目に低い数値だったが、守備成績は刺殺228・補殺450・併殺102を記録し、新人王の投票でも5位に入った[1]。ただし、27失策を喫し、まだ不安定であった。

1997年には120試合の出場で失策を9にまで減らし、初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後は3年連続で受賞した。特に1999年には154試合の出場で、守備機会639に対して失策はわずか4で、年間守備率は.994。遊撃手のシーズン守備率のナショナルリーグ記録を更新した。また、この年の6月14日から翌2000年3月29日にかけて101試合連続無失策の遊撃手MLB記録を樹立した。記録が途切れた3月30日の試合は記念すべきMLB史上初となる、北米以外で開催された公式戦開幕シリーズの第2戦であり、人工芝日本東京ドームでの試合であった。この連続無失策記録は2年後の2002年ボルチモア・オリオールズマイク・ボーディックが110試合に更新した[2]

2000年5月29日の対ロサンゼルス・ドジャース戦で走者との交錯プレーにより左腕を骨折し、以後のシーズンを欠場した。この年にチームはワールドシリーズに進出したが、出場する事が出来なかった。2001年4月3日に復帰したが、守備能力は大きく落ちた。

2002年は新たにロベルト・アロマーと二遊間コンビを組んだものの、2人ともプレーは以前のような精彩を欠いた。これに失望したメッツファンからのヤジに悩まされ、シーズン終盤のニューヨーク・ポスト紙のインタビューでは、「ここのチームのファンはあまりに愚かである。我々は機械では無いのだから、全ての試合を完璧にこなす事なんて不可能だ」と、契約が切れる翌2003年シーズン限りで他球団へ移籍する意向を明らかにした[3]。2002年12月15日にタンパベイ・デビルレイズへ移籍した。

ニューヨーク・メッツ退団後

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2003年はシーズンのほとんどを怪我で逃し、わずか34試合の出場に終わった。

2004年5月18日にシカゴ・カブスへ移籍。しかしここでも23試合の出場に終わり、7月23日には解雇された。8月にアメリカ合衆国の市民権を取得した[4]

2005年サンディエゴ・パドレススプリングトレーニングに参加したが契約には至らず、この年と翌2006年はMLBとマイナーリーグで1試合もプレーしなかった。

2006年11月14日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。2007年開幕直前の4月1日にトレードサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した。したがって、2004年7月19日の出場を最後にMLBではプレーしていない。

2013年3月にキューバ政府が自由化の一環で国民の海外渡航制限を緩和した事から、20年ぶりに故郷ハバナに帰郷した[5]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1996 NYM 151 530 502 51 129 12 4 1 152 30 1 3 4 1 22 12 1 53 12 .257 .289 .303 .592
1997 120 391 356 35 77 5 3 1 91 33 11 5 14 2 18 3 1 36 10 .216 .255 .256 .511
1998 153 548 505 46 124 20 2 1 151 42 3 6 15 4 23 7 1 60 11 .246 .278 .299 .577
1999 154 588 520 49 134 24 2 1 165 60 8 4 11 7 49 12 1 59 16 .258 .319 .317 .636
2000 45 155 133 10 25 5 0 0 30 9 0 0 4 1 17 2 0 16 4 .188 .278 .226 .504
2001 149 505 461 31 114 24 4 3 155 44 3 2 7 2 34 17 1 43 17 .247 .299 .336 .635
2002 144 499 460 53 117 25 2 1 149 42 2 2 9 4 24 11 2 46 19 .254 .292 .324 .616
2003 TB 34 124 117 14 37 11 0 3 57 22 0 2 2 2 2 0 1 12 3 .316 .328 .487 .815
2004 CHC 23 67 61 2 10 3 0 1 16 5 0 0 4 0 2 0 0 14 1 .164 .190 .262 .452
MLB:9年 973 3407 3115 291 767 129 17 12 966 287 28 24 70 23 191 64 8 339 93 .246 .289 .310 .599

選抜含むキューバリーグ通算打撃成績

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4シーズン 打率.261 出塁率.288 長打率.322 OPS.610
272試合 712打数 186安打 23二塁打 4三塁打 23四球(0敬遠) 6死球 76三振 4本塁打 71打点 19盗塁(20盗塁死) 

表彰 

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記録 

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背番号

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  • 0 (1996年 - 1997年)
  • 10 (1998年 - 2003年)
  • 13 (2004年)
  • 29 (2004年)

脚注

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  1. ^ Baseball Awards Voting for 1996” (英語). Baseball-Reference.com. 2013年6月22日閲覧。
  2. ^ Bordick to be inducted into Orioles' Hall of Fame” (英語). The Baltimore Sun. 2013年6月22日閲覧。
  3. ^ Ordonez angry with fans, wants out after 2003” (英語). ESPN.com. 2013年6月22日閲覧。
  4. ^ Robinson Cano becomes U.S. citizen (Photo)” (英語). Sports.yahoo.com. 2013年3月19日閲覧。
  5. ^ El pelotero Rey Ordóñez regresa a la Isla después de 21 años” (スペイン語). Diariodecuba.com. 2013年3月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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