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ロナルド・アジェノール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロナルド・アジェノール
Ronald Agenor
基本情報
フルネーム Ronald Jean-Martin Agenor
国籍 ハイチの旗 ハイチ
出身地 モロッコの旗 モロッコ・ラバト
居住地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ビバリーヒルズ
生年月日 (1964-11-13) 1964年11月13日(60歳)
身長 180cm
体重 81kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1983年
引退年 2002年
ツアー通算 3勝
シングルス 3勝
ダブルス 0勝
生涯通算成績 247勝315敗
シングルス 221勝257敗
ダブルス 26勝58敗
生涯獲得賞金 2,014,601 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 2回戦(1990)
全仏 ベスト8(1989)
全英 2回戦(1989・93)
全米 4回戦(1988)
4大大会最高成績・ダブルス
全仏 1回戦(1986・88)
全米 1回戦(1986)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 22位
ダブルス 111位

ロナルド・ジャン・マルタン・アジェノールRonald Jean-Martin Agenor, 1964年11月13日 - )は、ハイチの元男子プロテニス選手。モロッコラバト生まれ。ハイチ最大のテニス選手として、1989年全仏オープン男子シングルスでベスト8に入り、ATPツアーでシングルス3勝を挙げるなど、数々の業績を残した選手である。シングルス自己最高ランキングは22位。ギタリストとしても有名で、これまでに2枚のオリジナル・アルバムを発表している。

名前の表記

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彼の名前に関しては日本語のテニス文献資料が少なく、「ロナルド・アゲナー」でも www.ne.jp と protennis66.web.fc2.com しかヒット元がない。“Agenor”という名前の著名人は、ブラジルのサンバ歌手カルトーラの本名がよく知られていることから、本記事名は「ロナルド・アジェノール」で記述する。

経歴

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父親のフレデリック・アジェノールハイチの農業大臣で、元国連外交官を務めた政治家であった。ロナルドが6人兄弟の末っ子として生まれる前に、家族はハイチの首都ポルトープランスからモロッコの首都ラバトに引っ越し、ロナルドはモロッコで生まれた。故国ハイチとは違う地に誕生したのは、末っ子のロナルドだけだったという。彼は10歳までモロッコで生活した後、4年間ザイール(現コンゴ民主共和国)に住み、14歳でフランスボルドーに定住した。ボルドーに落ち着いた14歳の時、彼は初めてテニスと出会い、兄の手ほどきで本格的な訓練を受けた。1983年に19歳でプロ入りすると、アジェノールは直ちに「ハイチのセンセーション」としてテニス界の注目を集めるようになった。

1986年全仏オープン4大大会にデビューした。1986年ウィンブルドン選手権の2週間後、彼は在住地のボルドー・オープンダブルスでマンスール・バーラミと組んで決勝に進出する。ハイチ人選手による初のATPツアー決勝では、ホルディ・アレッセ/ダビド・デ・ミゲル組に5-7, 4-6で敗れて準優勝になった。1987年にはシングルスで3度の準優勝を記録する。7月上旬は2週連続でエミリオ・サンチェスとの決勝に敗れ、10月のスイス・インドア決勝ではヤニック・ノアに6-7, 4-6, 4-6で敗れた。この試合はATPツアー史上初の「黒人選手どうしの決勝戦」として注目を集めた(公式サイト内に“Black Tennis History”の紹介がある)。1988年、彼は全仏オープン全米オープンで2度の4回戦に進出し、プロテニス選手の出場が認められたソウル五輪にも出場した。こうして「ハイチのセンセーション」は、各地で当地のテニス史上初の偉業を打ち立てていく。

1989年4月10日、アジェノールはアテネ・オープン決勝でケント・カールソンを6-3, 6-4で破り、この地でハイチ人選手初のプロテニスツアー優勝を達成した。5月8日付で、彼の世界ランキングは自己最高の「22位」に上がる。6月の全仏オープン男子シングルスで、彼はハイチ人初のベスト8進出を果たし、準々決勝で当時17歳3ヶ月のマイケル・チャンに4-6, 6-2, 4-6, 6-7で敗れた。続くウィンブルドン選手権では、2回戦でチャンに連敗する。1990年、アジェノールはプッリャ国際選手権ヨーロピアン・インドア選手権で年間2勝を挙げた。

ハイチは1988年から男子テニス国別対抗戦デビスカップに参加し始めたが、最初はジャマイカ代表に5戦全敗の成績で、1989年は出場できなかった。1990年にアジェノールが初めてデビスカップハイチ代表入りをしてから、ハイチはデビスカップに毎年参加できるようになり、現在に至るまでアメリカン・ゾーン・グループ3に所属している。

その後、アジェノールは長期間の低迷で世界ランキングを大幅に落とし、1997年夏には600位台まで落ちたこともあった。そこからのカムバックを目指し、1999年11月に33歳で再び世界トップ100に復帰を果たす。2000年全豪オープンでは、1995年以来5年ぶりの4大大会復帰も果たした。2001年全仏オープンでは「35歳の最年長出場者」として新聞の話題になるが予選2回戦敗退に終わる。彼は波乱の多いテニス人生を送ったが、38歳を迎える2002年まで現役を続行し、2008年には44歳で7年ぶりのデビスカップに出場した。

ロナルド・アジェノールは著名なロック・ギタリストとして、2枚のオリジナル・アルバム“Kids On The Road”(1990年)“Waves of Love”(2003年)を発表するなど、多方面の音楽活動にも携わっている。

参考文献

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  • ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (英語、ツアーの公式ガイドブック。サイト内から一部の伝記情報が消滅したため)

外部リンク

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