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ヴァルデマール・クメント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァルデマール・クメント
Waldemar Kmentt
出生名 Waldemar Kmentt
生誕 (1929-02-02) 1929年2月2日
出身地 オーストリアの旗 オーストリア ウィーン
死没 (2015-01-21) 2015年1月21日(85歳没)
 オーストリア ウィーン
学歴 ウィーン国立音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 声楽家テノール
オペラ歌手
音楽教育者

ヴァルデマール・クメントドイツ語Waldemar Kmentt、1929年2月2日 - 2015年1月21日)はオーストリア声楽家テノール)。オペラ歌手。音楽教育者ワルデマールヴァルデマーワルデマーなど表記は一定しない[1]

生涯

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ヴァルデマール・クメントの墓

ヴァルデマール・クメントはウィーンで上流階級の家庭に生まれた。彼の母親は、画家のグレーテ・クメント=モンタンドン[2]。若かりし時にウィーン国立歌劇場の火災を通行人として体験している[3]。彼は1947年に彼の同級生のエーベルハルト・ウェヒターフリッツ・ウールと一緒に高校を卒業した[4]。彼は元々はピアニストを目指していたが、1949年からはウィーン国立音楽アカデミーで声楽を学び、エリーザベト・ラドーアドルフ・フォーゲルハンス・ドゥハンに師事した[5]。すでに21歳のとき、彼はカール・ベーム指揮の下、ベートーヴェン交響曲第9番のテノールパートを歌うよう招かれた。1951年からはウィーン国立歌劇場のメンバーとなり35年以上所属した。1951年6月26日、セルゲイ・プロコフィエフ三つのオレンジへの恋』王子役でデビュー[6]。彼はリング通りに面した国立歌劇場で、トータルで1480回の公演で79の役を演じている。1945年3月の爆撃で歌劇場の建物が破壊されたため、1955年に再開されるまでは、国立歌劇場の公演はアン・デア・ウィーン劇場またはウィーン・フォルクスオーパーを代替会場としてで行われた。彼が国立歌劇場に最後に出演したのは2005年11月25日リヒャルト・シュトラウスナクソス島のアリアドネ』召使いであった。

若い時はリリック・テノールとして、 ウィーン・モーツァルトアンサンブルのメンバーとして活躍した。 彼の長いキャリアのレパートリーは、リリックなものや、若々しい英雄的なものから性格俳優的なものまで、オペラオペレッタの役柄は80以上ある。彼はヨーロッパと日本アメリカのすべての主要なオペラハウスで歌ってきた。彼は長年ザルツブルク音楽祭に招聘された。バイロイト音楽祭エディンバラ・フェスティバルエクサン・プロヴァンス音楽祭にも出演。コンサート歌手として、ヘルベルト・フォン・カラヤンオットー・クレンペラーカルロス・クライバーカール・リヒターカール・ベームオイゲン・ヨッフムセルジュ・チェリビダッケレナード・バーンスタインとも共演した。

1978年から1995年まで、クメントはウィーン音楽芸術私立大学のオペラスタジオを主宰し、ヴォルフガング・バンクルマリン・ハルテリウスメアツァト・モンタツェリなど、今日の著名な歌手を数多く輩出している。

72歳の時、彼は『ナクソス島のアリアドネ』召使い役でメトロポリタン・オペラにデビューを果たした。その後、彼はウィーン・フォルクスオーパーの舞台で数年間性格俳優的な役を演じた。

クメントは2015年1月21日に生地のウィーンで85歳で亡くなり[7]ウィーン中央墓地(グループ33G、ナンバー83)に埋葬された。

受賞歴

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日本での公演

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ヴァルデマール・クメントはウィーン国立歌劇場とウィーン・フォルクスオーパーの日本公演で合計6回来日し、計46公演を行っている[1]

  1. 1959年4月10、15日 ウィーン国立歌劇場 モーツァルトドン・ジョヴァンニ』ドン・オッタヴィオ フェスティバルホール
  2. 1959年4月12、13日 ウィーン国立歌劇場 モーツァルト『フィガロの結婚』ドン・バジリオ フェスティバルホール
  3. 1959年4月18、20、21日 ウィーン国立歌劇場 モーツァルト『フィガロの結婚』ドン・バジリオ 産経ホール
  4. 1959年4月23、25、27日 ウィーン国立歌劇場 モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』ドン・オッタヴィオ 産経ホール
  5. 1979年6月13日 ウィーン国立フォルクスオーパー ヨハン・シュトラウス2世こうもり』アイゼンシュタイン 名古屋市民会館大ホール
  6. 1979年6月16、18日 ウィーン国立フォルクスオーパー ヨハン・シュトラウス2世『こうもり』アイゼンシュタイン 大阪厚生年金会館大ホール
  7. 1979年6月21、25、26、28日 ウィーン国立フォルクスオーパー ヨハン・シュトラウス2世『こうもり』アイゼンシュタイン 東京文化会館
  8. 1982年6月11日 ウィーン国立フォルクスオーパー ヨハン・シュトラウス2世『こうもり』アイゼンシュタイン NHKホール
  9. 1982年6月13日 ウィーン国立フォルクスオーパー ヨハン・シュトラウス2世『こうもり』アイゼンシュタイン 神奈川県民ホール大ホール
  10. 1982年6月24日 ウィーン国立フォルクスオーパー ヨハン・シュトラウス2世『こうもり』アイゼンシュタイン 福岡サンパレスホール
  11. 1986年3月16、24日、4月8日 ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』元帥夫人の家令 東京文化会館
  12. 1986年3月29日 ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』元帥夫人の家令 名古屋市民会館
  13. 1986年4月1、4日 ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』元帥夫人の家令 フェスティバルホール
  14. 1986年4月6、10、12日 ウィーン国立歌劇場 ワーグナートリスタンとイゾルデ』牧童 NHKホール
  15. 1994年10月9、13、16、19日 ウィーン国立歌劇場 ヨハン・シュトラウス2世『こうもり』ブリント博士 NHKホール
  16. 1994年10月7、10、12、15、18、20日 リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』ヴェルテンベルク家の家令 東京文化会館
  17. 2000年10月22、25、28日 ウィーン国立歌劇場 リヒャルト・シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』執事長 神奈川県民ホール
  18. 2000年11月1、4、7、10日 レハールメリー・ウィドウ』ミルコ・ツェータ男爵 東京文化会館

ディスコグラフィー・フィルモグラフィー

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参考文献

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  • グレゴール・ハウザー:魔法の音。戦後のオーストリアのテナー Verlag Der Apfel 2020 ISBN 978-3-85450-019-3 P.126-146

外部リンク

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出典

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  1. ^ a b 検索結果 - クメント | 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター”. opera.tosei-showa-music.ac.jp. 2020年8月18日閲覧。
  2. ^ Gregor Hauser: Magische Töne. Österreichische Tenöre der Nachkriegszeit. Verlag Der Apfel 2020、ISBN 978-3-85450-019-3. S. 127f.
  3. ^ Gregor Hauser: Magische Töne. Österreichische Tenöre der Nachkriegszeit. Verlag Der Apfel 2020、ISBN 978-3-85450-019-3. S. 129.
  4. ^ Waldemar Kmentt ist 80. orf.at、5. Februar 2009; abgerufen am 21. Jänner 2015.
  5. ^ Kammersänger Waldemar Kmentt gestorben. derstandard.at、21. Jänner 2015、APA-Meldung; abgerufen am 21. Jänner 2015.
  6. ^ a b Kammersänger Waldemar Kmentt gestorben. orf.at、21. Jänner 2015; abgerufen am 21. Jänner 2015.
  7. ^ Zum Tod von Waldemar Kmentt: Ein Wiener „Haustenor“ von Weltgeltung. In: Kurier、21. Jänner 2015; abgerufen am 21. Jänner 2015.
  8. ^ Liste der Träger des Ehrenzeichens für Verdienste um die Republik Österreich (PDF) Abgerufen am 21. Jänner 2015.