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一柳直堅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳 直堅
時代 江戸時代中期
生誕 延宝8年(1680年
死没 宝永2年4月20日1705年5月12日
別名 帯刀(通称[1]
戒名 瑞光院実山道相[1]
伊予小松藩世嗣
氏族 一柳氏
父母 一柳直治分部嘉治娘・性善院
一柳頼徳
兄弟 頼徳治良直堅
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一柳 直堅(ひとつやなぎ なおかた)は、江戸時代中期の伊予国小松藩の世嗣。

生涯

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延宝8年(1680年)、小松藩2代藩主・一柳直治の三男(嫡男)として誕生[1]。母は正室の性善院(近江国大溝藩主・分部嘉治の娘)。

元禄12年(1699年)8月9日、男子のなかった14歳年長の庶長兄・一柳頼徳(のちに3代藩主となる)の養子となり[1]、同月26日に徳川綱吉に拝謁する[1]。ゆくゆくは4代藩主となることが予定されていたが、宝永2年(1705年)4月に父や兄に先立って早世した。享年26[1]。江戸・三田の中道寺に葬られた[1]

頼徳は直堅の死の直後、宝永2年(1705年)閏4月に、直治から家督を譲られて藩主となる。頼徳は甥の一柳頼邦(次兄・一柳治良の長男)を養子に迎え、頼邦が4代藩主となった。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.161、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.161。

参考文献

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