一柳直堅
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝8年(1680年) |
死没 | 宝永2年4月20日(1705年5月12日) |
別名 | 帯刀(通称)[1] |
戒名 | 瑞光院実山道相[1] |
藩 | 伊予小松藩世嗣 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 |
一柳直治、分部嘉治娘・性善院 一柳頼徳 |
兄弟 | 頼徳、治良、直堅 |
一柳 直堅(ひとつやなぎ なおかた)は、江戸時代中期の伊予国小松藩の世嗣。
生涯
[編集]延宝8年(1680年)、小松藩2代藩主・一柳直治の三男(嫡男)として誕生[1]。母は正室の性善院(近江国大溝藩主・分部嘉治の娘)。
元禄12年(1699年)8月9日、男子のなかった14歳年長の庶長兄・一柳頼徳(のちに3代藩主となる)の養子となり[1]、同月26日に徳川綱吉に拝謁する[1]。ゆくゆくは4代藩主となることが予定されていたが、宝永2年(1705年)4月に父や兄に先立って早世した。享年26[1]。江戸・三田の中道寺に葬られた[1]。
頼徳は直堅の死の直後、宝永2年(1705年)閏4月に、直治から家督を譲られて藩主となる。頼徳は甥の一柳頼邦(次兄・一柳治良の長男)を養子に迎え、頼邦が4代藩主となった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)