一柳頼徳
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一柳頼徳像 | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛文6年3月18日(1666年4月22日) |
死没 | 享保9年10月4日(1724年11月19日) |
改名 | 弁次郎(幼名)、直泰→直卿→頼徳[1] |
別名 | 内記[1]、蝶庵(号)[2] |
戒名 | 蝶庵祖覚[3] |
墓所 | 東京都品川区の寿昌寺[1][3] |
官位 | 従五位下因幡守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉、家宣、家継、吉宗 |
藩 | 伊予小松藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳直治 母:正寿院 |
兄弟 | 頼徳、治良、直堅 |
子 | 直堅、頼邦 |
一柳 頼徳(ひとつやなぎ よりのり)は、伊予国小松藩3代藩主。直卿(なおあきら)の名でも呼ばれる。能書家として知られた。
生涯
[編集]寛文6年(1666年)3月18日、第2代藩主・一柳直治の長男として小松に生まれる[1]。母は側室の正寿院。
延宝4年(1676年)、11歳で将軍徳川家綱に初謁[1]。宝永2年(1705年)閏4月15日、父の隠居に伴い、40歳で家督を継ぐ。宝永6年(1709年)4月、従五位下因幡守に叙任[1]。同年9月には駿府加番となった。
頼徳に男子はなく、初めは三弟(正室所生)の直堅を養嗣子とし、将軍への御目見得も済ませていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)4月に早世している。その後正徳4年(1714年)9月に甥の頼邦(次弟・一柳治良の長男)を養嗣子に迎えている。
享保9年(1724年)10月4日、江戸にて死去、享年59[1]。江戸品川の寿昌寺に葬られた[1]。跡は養嗣子の頼邦が継いだ。
人物・逸話
[編集]- 詩歌に秀で、書家として諸侯随一とされ、多くの墨跡を遺した。その書は手本として将軍家に納められたという[2]。
- 宝永6年(1709年)、因幡守叙任に際して描かれた「一柳直卿公寿像」(一柳家所有、小松温芳図書館寄託)は、2007年(平成19年)3月に西条市有形文化財に指定された[4]。小松藩主の肖像画としては唯一のものである[4]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。
- 増川宏一著、北村六合光原典解読『伊予小松藩会所日記』 集英社新書 2001年 ISBN 4087201007