コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

一柳頼徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳頼徳
一柳頼徳像
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文6年3月18日1666年4月22日
死没 享保9年10月4日1724年11月19日
改名 弁次郎(幼名)、直泰→直卿→頼徳[1]
別名 内記[1]、蝶庵(号)[2]
戒名 蝶庵祖覚[3]
墓所 東京都品川区の寿昌寺[1][3]
官位 従五位下因幡守[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
伊予小松藩
氏族 一柳氏
父母 父:一柳直治 母:正寿院
兄弟 頼徳治良直堅
直堅頼邦
テンプレートを表示

一柳 頼徳(ひとつやなぎ よりのり)は、伊予国小松藩3代藩主。直卿(なおあきら)の名でも呼ばれる。能書家として知られた。

生涯

[編集]

寛文6年(1666年)3月18日、第2代藩主・一柳直治の長男として小松に生まれる[1]。母は側室の正寿院。

延宝4年(1676年)、11歳で将軍徳川家綱に初謁[1]宝永2年(1705年)閏4月15日、父の隠居に伴い、40歳で家督を継ぐ。宝永6年(1709年)4月、従五位下因幡守に叙任[1]。同年9月には駿府加番となった。

頼徳に男子はなく、初めは三弟(正室所生)の直堅を養嗣子とし、将軍への御目見得も済ませていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)4月に早世している。その後正徳4年(1714年)9月に甥の頼邦(次弟・一柳治良の長男)を養嗣子に迎えている。

享保9年(1724年)10月4日、江戸にて死去、享年59[1]。江戸品川の寿昌寺に葬られた[1]。跡は養嗣子の頼邦が継いだ。

人物・逸話

[編集]
  • 詩歌に秀で、書家として諸侯随一とされ、多くの墨跡を遺した。その書は手本として将軍家に納められたという[2]
  • 宝永6年(1709年)、因幡守叙任に際して描かれた「一柳直卿公寿像」(一柳家所有、小松温芳図書館寄託)は、2007年(平成19年)3月に西条市有形文化財に指定された[4]。小松藩主の肖像画としては唯一のものである[4]

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.160、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.160。
  2. ^ a b 一柳頼徳”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月14日閲覧。
  3. ^ a b 一柳貞吉 1933, p. 51.
  4. ^ a b 支所だより 小松総合支所”. 広報さいじょう 2013年12月号. 西条市. 2014年4月1日閲覧。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]