一柳頼親
表示
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 寛政3年1月11日(1791年2月13日) |
死没 | 天保3年4月7日(1832年5月7日) |
別名 | 兵庫[1] |
墓所 | 愛媛県西条市の仏心寺山 |
官位 | 従五位下、因幡守、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府駿府加番 |
藩 | 伊予小松藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 |
父:一柳頼欽 母:一柳末栄の娘・琴松院 |
妻 |
正室:秋月種徳の娘・照子(潤性院) 継室:一柳氏 |
子 | 養子:頼紹 |
一柳 頼親(ひとつやなぎ よりちか)は、江戸時代後期の大名。伊予小松藩の第7代藩主。
生涯
[編集]寛政3年(1791年)1月11日[2][3]、第6代藩主・一柳頼欽の長男として江戸で生まれる。母は同族の播磨小野藩主・一柳末栄の娘[1]。寛政8年(1796年)、父の死去により、6歳で家督を継ぐ[1]。文化3年(1806年)12月に叙任。
頼親治世の小松藩では、文教政策の振興が図られた。享和2年(1802年)、奉行人・竹鼻正脩の提言によって藩の学問所「培達校」が設置された。翌享和3年(1803年)には朱子学者・近藤篤山が小松に招聘され、培達校は「養正館」と改名している[4]。養正館は藩士子弟のみならず農家や商家の者であっても入校を許すという、当時としては画期的な方針の藩校であった。また、文化5年(1808年)には、伊能忠敬の測量に協力している。
幕府の役職では、文化7年(1810年)に駿府加番を務めている。
天保3年(1832年)4月7日に死去[2][3]。享年42。跡を従弟にあたる養嗣子の頼紹が継いだ。
家族・親族
[編集]夫人は日向高鍋藩主秋月種徳の娘、照子(寛政7年(1795年)5月 - 弘化2年(1845年)1月27日)[3]。
従弟の一柳頼紹を養子に迎えた。
参考文献
[編集]- 増川宏一著、北村六合光原典解読『伊予小松藩会所日記』 集英社新書 2001年 ISBN 4087201007
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四