一柳直頼
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長7年7月23日(1602年9月8日) |
死没 | 正保2年4月28日(1645年5月23日)[1] |
別名 | 鍋(幼名)、蔵人[2][1] |
戒名 | 佛心寺殿機岳宗活居士[1] |
墓所 | 愛媛県西条市の佛心寺[1] |
官位 | 従五位下因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 伊予小松藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 一柳直盛、常法院 |
兄弟 | 本多忠朝正室、直重、直家、直頼、直良、直澄 |
妻 | 高橋元種娘、小出吉親娘青龍院 |
子 | 直治、小出吉直 |
一柳 直頼(ひとつやなぎ なおより)は、江戸時代前期の大名。伊予国小松藩初代藩主。
生涯
[編集]慶長7年(1602年)7月23日、伊勢神戸藩主(のち伊予西条藩主)一柳直盛の三男として、伊勢神戸に生まれる[2]。
大坂の陣では人質として江戸に留められた[2]。元和4年(1618年)、徳川秀忠に初謁[2]。徳川家光の上洛のたびごとに、父とともに随行している[2]。寛永10年(1633年)には父や兄とともに、九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を命じられている[2]。
寛永13年(1636年)、西条に入封する途次に父が没し、遺領6万8600石が3人の子で分割された際に、直頼は1万石を相続[2]。周布郡新屋敷村に陣屋(小松陣屋)を構え、小松藩を立藩した。小松の地名は、陣屋付近に背の低い松が群生していたことに由来するという[3]。
その後の藩政においては、小松陣屋町の構築や家臣団の編成、三嶋神社や仏心寺建立などを積極的に行なうなどして藩政の確立を目指した。
正保2年(1645年)4月28日、江戸で死去。享年44[1]。跡を長男・直治が継いだ。
遠見山に葬られ、直治が菩提寺として佛心寺を建立した[4]。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。
- 増川宏一著、北村六合光原典解読『伊予小松藩会所日記』 集英社新書 2001年 ISBN 4087201007