一色昭孝
時代 | 戦国時代、江戸時代 |
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生誕 | 永禄8年1月17日(1565年2月17日) |
死没 | 慶長20年7月7日(1615年8月30日) |
改名 | 唐橋在通→一色昭孝→唐橋昭孝 |
別名 | 一色駿河守、一色民部少輔 |
官位 | 駿河守、民部少輔、従五位上、少納言ほか |
幕府 | 室町幕府、江戸幕府高家 |
主君 | 足利義昭、徳川家康 |
氏族 | 菅原氏唐橋氏→一色氏 |
父母 | 父:唐橋在名、母:一色左京大夫某女 |
子 | 在村、女子、在種、女子、昭房、通規、女子 |
一色 昭孝(いっしき あきたか)は、戦国時代から江戸時代にかけての公家、武将。江戸幕府高家[1]。
唐橋家の出身で、初めは唐橋在通を名乗り、晩年には唐橋家に復した。『寛政重修諸家譜』(寛政譜)は、一色氏(菅原氏)の項の冒頭で、「元は唐橋たり。在通武家につかふるの際は外家(母の実家[3])の号一色を称し」と記している[1]。系図は
生涯
[編集]唐橋在名(唐橋在数の子)の二男[2]として生まれた[4]。母は、一色左京大夫某の娘[1]。
足利義昭に仕え、諱の字と家紋を与えられた[1]。義昭没落後は徳川家康に仕え、采地1000石を与えられ、高家となった[1]。
慶長年間(1596年〜1615年)、京都において唐橋家を相続し、以後、隔年で在府した[1]。
元和元年(1615年)7月2日、死去[1]。秋庵光忍月窓院と号した[1]。
唐橋在通
[編集]永禄8年(1565年)1月17日、唐橋在名の二男として生まれた[2][4]。母は家女房[2]。
天正6年(1578年)4月16日、14歳のとき元服し、同日、正六位上に叙された[4][5]。同日、文章得業生となった[6]。
慶長16年(1611年)4月21日、48歳のとき、従五位下、同17年(1612年)1月5日、従五位上に叙される[4][6]。同月11日には民部少輔に任じられた[6][4]。
慶長20年(1615年)7月7日、死去(『大日本史料』所収「唐橋家譜」)[5](『日本古典全集』所収「諸家伝」では7月2日[4]、『大日本史料』所収「土御門泰重卿記」および「言緒卿記」では、7月3日となっている[2])。52歳[4]。
父親について
[編集]在通の父親について、寛政譜では、唐橋在数の二男としている[1]。しかし、『大阪府史』によれば、在数は明応5年(1496年)1月7日、49歳のとき、九条政基・尚経父子に殺害されている[7]。在通の生年を考慮すると、在数ではなく、在名を父とするのが適当とする。また、寛政譜で、在通は足利義昭に仕えたとしており、この点でも、在数の時代とは隔たりがある。
子女
[編集]出典は『寛政重修諸家譜』による[1]
- 在村
- 女子
- 在種
- 女子
- 昭房
- 通規
- 女子
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 東京帝国大学文学部史料編纂掛 編『大日本史料』 第十二編之二十三、東京帝国大学、1922年3月10日。NDLJP:3450643。
- 正宗敦夫 編「諸家伝第十二」『日本古典全集』日本古典全集刊行会、1940年7月17日。NDLJP:1912987。(要登録)
- 堀田正敦等 編「巻第千四百八十九」『寛政重修諸家譜』 第二十二(新訂)、続群書類従完成会、1966年4月30日。NDLJP:2974578/132。(要登録)
- 大阪府史編集専門委員会 編『大阪府史』 第4巻《中世編 Ⅱ》、大阪府、1981年5月30日。NDLJP:9574696/318。(要登録)