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三井山砦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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三井山砦
静岡県
別名 大坂砦
城郭構造 平山城
築城主 徳川家康
築城年 1579年天正7年)
主な城主 酒井重忠
廃城年 1581年(天正9年)
指定文化財 史跡等未指定[1]
登録文化財 未登録
位置 北緯34度44分12.5秒 東経138度00分40.7秒 / 北緯34.736806度 東経138.011306度 / 34.736806; 138.011306
地図
三井山砦の位置(静岡県内)
三井山砦
三井山砦
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三井山砦(みついさんとりで、英語: Fort Mitsuisan)は、静岡県掛川市大坂にあたる遠江国城東郡西大坂村にあった日本の城。別名大坂砦(おおさかとりで、英語: Fort Ōsaka[2][3]。現在は城跡が残る。高天神城を包囲するために築かれた「高天神六砦」の一つである[2][3]

沿革

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地図
高天神城と六砦の位置関係
1.小笠山砦2.能ヶ坂砦3.火ヶ峰砦4.獅子ヶ鼻砦5.中村砦6.三井山砦、7.高天神城
三井山砦を統轄した酒井重忠(『酒井重忠画像』)

遠江国城東郡西大坂村に立地する。高天神城よりに3キロメートルほど離れており[2]小笠山より連なる丘陵の南に張り出している台地の端に位置している[2]。この辺りは「三井山」と呼称されており[2]、そのからは東に小笠平野を望み[2]、南に遠州灘を望む[2]

1578年天正6年)より、三井山の周辺では武田勝頼方の軍勢と徳川家康方の軍勢との間で争いが起きていた[2]。その後、1579年(天正7年10月)に入ると、勝頼方の高天神城を攻略するために、家康により三井山砦が築城されたとされる[2]。ただし、前年より既に三井山周辺で争いが起きていたことから、最初の築城はもっと以前に遡る可能性も指摘されている[2]。なお、家康の家臣である松平家忠が記した『家忠日記』には、1580年(天正8年3月)の項に「大坂取出普請候」[4][注釈 1]との記述がみられることから、少なくともこの時点では既に砦が存在し堀などの普請がなされていたと考えられる。

この三井山砦は、小笠山砦能ヶ坂砦火ヶ峰砦獅子ヶ鼻砦中村砦とともに「高天神六砦」と称された[2][3]。築城後は、徳川家康に任じられた酒井重忠がこの砦を管轄し[2][3]、高天神城への兵糧弾薬の補給を遮断した[2]。その結果、高天神城の将兵は飢えに苦しみ、城に立てこもる岡部元信らは苦境に陥った。なお、1580年(天正8年10月)からは、松平家忠も廻番として布陣している[3]第二次高天神城の戦いにより高天神城が落城すると、役割を終えたこの砦も廃止されることになった。

その後、三井山には大浜公園が整備され、名所として親しまれるようになった[5]。三井山砦が立地していた一帯は茶畑として開墾されており[2][3]、主要部は段々畑となっている[3]。山腹に空堀土塁が残ってはいるものの[3]、往時を偲ばせる跡はほとんど残存していない[2]。ただ、三井山砦跡であることを示す標柱や説明板が建てられている[2]

名称

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この砦は三井山に位置することから、その名を取って「三井山砦」と呼ばれるようになった。なお、の名前の由来は、山上に3つの井戸があったからという説がある[3]。また、この砦は「大坂砦」とも呼ばれるが、これは立地する西大坂村と、それに隣接する東大坂村など附近一帯が「大坂」と呼ばれていたことに因む[注釈 2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「大坂」とは、「大坂砦」との異名を持つ三井山砦のことを指している。
  2. ^ 浜松県城東郡西大坂村は、1874年に浜松県城東郡東大坂村合併し、浜松県城東郡大坂村となった。

出典

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  1. ^ 「文化財」掛川市公式HP
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「高天神城と六砦」『静岡県掛川市 高天神城と六砦掛川市役所、2017年10月6日。
  3. ^ a b c d e f g h i 水野茂「大坂砦」『【静岡 古城を行く】大坂砦(掛川市大坂) - 産経ニュース産経デジタル、2015年9月20日。
  4. ^ 坪井九馬三・日下寛校訂『家忠日記』第2、吉川半七、1897年、6頁。
  5. ^ 「大浜公園」『静岡県掛川市 大浜公園掛川市役所、2017年10月6日。

関連人物

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関連項目

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外部リンク

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