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三木与吉郎 (12代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年明治8年)11月27日[1] - 1938年昭和13年)6月23日[2])は、日本の政治家実業家漢詩人衆議院議員貴族院議員徳島県松茂町出身。旧名は康治。号は天遊舎愛松。  

三木 与吉郎
みき よきちろう
生年月日 (1875-11-27) 1875年11月27日
出生地 日本の旗 徳島県板野郡松茂町
没年月日 (1938-06-23) 1938年6月23日(62歳没)
出身校 二松學舍
京都商業学校
所属政党 無所属
称号 正六位
勲二等
子女 長男・三木與吉郎(元参議院議員
親族 父・11代三木与吉郎(元貴族院議員)
孫・三木俊治(元徳島市長

当選回数 3回
在任期間 1918年9月29日 - 1938年6月23日

選挙区 徳島県郡部選挙区
当選回数 1回
在任期間 1915年3月25日 - 1917年1月25日
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経歴

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先代・三木与吉郎順治の長男として板野郡松茂町中来喜で生まれる。後に与吉郎の名を襲名し、藍商・酒造業を営む三木家の12代目となる。後に、藍商を改組して、三木商店を創業し、初代社長に就任。また、阿波製紙も創業し、初代社長を兼ねた。若年、詩を前塚芳南、中村三蕉らに学び、詩・俳句を能くした[3]。その後、二松學舎で学んだ。さらに、衆議院議員、貴族院議員を務める傍ら京都商業学校夜間部にも通い、同校を卒業した[4]

1915年大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に徳島県郡部から出馬し当選[2]1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し[5]、三期目の在任中に死去した[6]

また、三木商店社長の他にも多くの企業で重役を務めた。自身の詩集に「愛松遺稿」がある[3]1933年(昭和8年)から徳島和洋裁縫学校理事も兼ねた。

1938年(昭和13年)6月23日、64歳で没する[3]。死後、正六位勲二等を追贈された[7]

親族

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脚注

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  1. ^ 『人事興信録』第5版、み31頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』616頁。
  3. ^ a b c 『阿波人物志』p220
  4. ^ 『歴代国会議員名鑑 上巻』1186頁。
  5. ^ 『官報』第1848号、大正7年9月30日。
  6. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』222頁。
  7. ^ a b 『歴代国会議員名鑑 上巻』459頁
  8. ^ a b 『人事興信録』第14版 下、ミ14頁。

参考文献

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  • 『阿波人物志』原田印刷出版、1973年。
  • 『徳島市史』徳島市、1973年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第5版、1918年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。

関連項目

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