三浦峻次
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政4年1月26日(1821年2月28日)[1] |
死没 | 天保10年7月18日(1839年8月26日)[1] |
改名 | 甚太郎(幼名)、峻次 |
墓所 | 岡山県真庭市勝山の安養寺 |
官位 | 従五位下壱岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 | 三浦誠次、鍋島斉直養女登 |
兄弟 | 峻次、義次、弘次[1]ら |
三浦 峻次(みうら としつぐ[1])は、美作国勝山藩6代藩主。美作勝山藩三浦家11代。
生涯
[編集]文政4年(1821年)、第5代藩主・三浦誠次(のぶつぐ)の長男[2]として生まれる。母の登(なる)は佐賀藩主鍋島斉直の養女(鍋島治茂の娘で斉直の妹)。
天保2年(1831年)、父の死去により、11歳で跡を継いだ。しかし天保10年(1839年)6月18日、大坂加番中に19歳で死去した。嗣子はなく、跡を弟の義次が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)