三浦誠次
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天明2年5月15日(1782年6月25日)[1] |
死没 | 天保2年2月14日(1831年3月27日)[1] |
改名 | 文之助[2](幼名)、邳次[1][2]、盈次[2]、誠次 |
別名 | 玄蕃[2]、虎丘[2][3](号) |
戒名 | 常楽院殿前志州刺吏実誉至真誠山大居士 |
墓所 | 岡山県真庭市勝山の安養寺 |
官位 | 従五位下備後守、兵庫頭[1][2]、志摩守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 |
三浦前次、稲垣昭央娘 三浦毗次 |
兄弟 | 誠次、唯次、勝、安部信操室ら |
妻 | 鍋島斉直養女登[1]、岩淵氏 |
子 | 峻次、義次、弘次ら |
三浦 誠次(みうら のぶつぐ[1])は、美作国勝山藩5代藩主。美作勝山藩三浦家10代。
第三代当主前次の子、第四代当主で兄毘次の養嗣子。渡辺玄対に画を学び、「虎丘」と号していた[2][3]。
生涯
[編集]天明2年(1782年)、第3代藩主・三浦前次(ちかつぐ)の長男[1]として出生した。
文化14年(1817年)11月15日、第4代藩主・毗次(てるつぐ)の養嗣子となる。文政13年(1830年)7月6日、毗次の隠居により、49歳で家督を継いだ[1]。しかし家督相続から1年足らずの天保2年(1831年)2月14日に死去した[1]。享年50。跡を長男の峻次(としつぐ)が継いだ。
系譜
[編集]『平成新修旧華族家系大成』には以下の3男が記されている[1]。いずれも美作勝山藩藩主となった。
- 長男:三浦峻次(1821-1839) - 第6代藩主。母は鍋島斉直の養女登
- 三男:三浦義次(1826-1883) - 第7代藩主。母は岩淵氏
- 四男:三浦弘次(1827-1886) - 第9代藩主。三浦朗次の養子
略系図
[編集]美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
三浦明敬 | |||||||||||||||||||
明喬 | 義理 | ||||||||||||||||||
明次1 | 矩次2 | ||||||||||||||||||
前次3 | 毗次4 | ||||||||||||||||||
誠次5 | |||||||||||||||||||
峻次6 | 義次7 | 弘次9 | |||||||||||||||||
朗次8 | 顕次10 | ||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- 数字は美作勝山藩主の代数を示す。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)