三浦明次
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保11年3月2日(1726年4月3日) |
死没 | 寛政9年12月5日(1798年1月21日) |
改名 | 政五郎(幼名)、明次、其次 |
戒名 | 立信院殿仁誉義興源道大居士 |
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 |
官位 | 従五位下玄蕃頭、兵庫頭、志摩守、備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 三河西尾藩主、美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 |
三浦明喬、鍋島吉茂養女 三浦義理 |
妻 |
松平輝規娘、内藤政樹娘 榊原氏 |
子 |
前次、守次、石川総孝正室、幸姫、 皆川庸清正室、矩次 |
特記 事項 | 一説に、徳川秀忠の庶子の末裔という[1] |
三浦 明次(みうら あきつぐ)は、三河国西尾藩2代藩主、美作国勝山藩初代藩主。美作勝山藩三浦家6代。
生涯
[編集]三河刈谷藩主・三浦明喬の三男。享保17年(1732年)2月28日、明喬の跡を継いだ叔父の三河西尾藩主・三浦義理の養嗣子となり、宝暦6年(1756年)8月24日に家督を継ぐ。
明和元年(1764年)6月21日、西尾から美作国2万3000石(真島郡92村、大庭郡1村)に移封され、勝山藩を立藩した[1]。高田城跡に勝山城を築いた。三井和親に書を学んだ優秀な書家であり、徳川将軍家や尾張徳川家の師範を務めたことがある。
安永元年(1772年)、養嗣子の矩次に家督を譲って隠居した。矩次は先代義理の長男で、血縁上では明次の従弟にあたる。
天明6年(1786年)10月に諱を其次(ことつぐ)と改めている。寛政9年(1797年)12月5日、72歳で死去した。
系譜
[編集]略系図
[編集]美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
三浦明敬 | |||||||||||||||||||
明喬 | 義理 | ||||||||||||||||||
明次1 | 矩次2 | ||||||||||||||||||
前次3 | 毗次4 | ||||||||||||||||||
誠次5 | |||||||||||||||||||
峻次6 | 義次7 | 弘次9 | |||||||||||||||||
朗次8 | 顕次10 | ||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- 数字は美作勝山藩主の代数を示す。
脚注
[編集]- ^ a b c 岡山県の歴史散歩編集委員会 2009, p. 266.
参考文献
[編集]- 岡山県の歴史散歩編集委員会 編『岡山県の歴史散歩』山川出版社〈歴史散歩33〉、2009年8月20日。ISBN 978-4-634-24633-1。