三浦覚一

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三浦 覚一(覺一、みうら かくいち、1870年6月26日(明治3年5月28日[1][2])- 1930年昭和5年)1月31日[3])は、明治後期から昭和初期の水産技術者、漁業家、政治家衆議院議員

経歴[編集]

豊後国大野郡、のちの大分県[3]大野郡赤嶺村[4](三重村、三重町を経て現豊後大野市三重町赤嶺)で、三浦喬三の長男として生まれる[2][4]。1891年(明治24年)法律を学ぶため上京したが[4]村田保と面会すると日本の水産業振興の重要性を説かれ[4]、水産伝習所(のち東京水産大学、現東京海洋大学)に入学した[4]。1894年(明治27年)水産伝習所を卒業[2][3]北海道に渡り水産業の視察、研修を行う[4]

1896年(明治29年)に帰郷し[4]大分県庁に入庁して大分県技手、同県水産試験場長、同水産試験業技師、大分県技師、勧業課長などを歴任し[2][3][4]、水産業、特に遠洋漁業の振興に尽力した[4]。1906年(明治39年)県庁を退職し[4]、会社を設立して朝鮮近海などの遠洋漁業に従事した[4]。その他、中外証券信託取締役、東北水産取締役、日本耐酸塗料取締役などを務めた[3]

1907年(明治40年)立憲政友会に入党[4]。1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(大分県郡部、立憲政友会)で初当選[4][5]。1912年(明治45年)5月の第11回総選挙(大分県郡部、立憲政友会)では次点で落選したが[5]秋本豊之進の辞職に伴い1913年(大正2年)2月8日に繰上補充となり[3][6][7]、衆議院議員に2期在任した[3][4]。その間、大分港修築、日豊本線豊肥本線の実現に尽力した[4]

1930年1月、病のため東京で死去した[4]

国政選挙歴[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院『第二十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報号外〉、1908年、27頁。
  2. ^ a b c d 『人事興信録 第4版』ミ15頁。
  3. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆院議員名鑑』218頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『大分県歴史人物事典』470頁。
  5. ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』75頁。
  6. ^ 『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』247頁。
  7. ^ 『官報』第158号、大正2年2月10日。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第15回』32頁。

参考文献[編集]

  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。