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三統理平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三統 理平
時代 平安時代前期
生誕 仁寿3年(853年
死没 延長4年4月4日926年5月18日
官位 従四位下式部大輔
主君 宇多天皇醍醐天皇
氏族 三統宿禰
父母 父:三統弥継
公忠、元夏
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三統 理平(みむね の まさひら)は、平安時代前期の貴族文人宿禰[1]中宮亮三統真浄の曾孫で、三統弥継の子とする系図がある。官位従四位下式部大輔

出自

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三統氏(三統宿禰)は、もと日置氏(日置宿禰)を称したが承和11年(844年)に三統真浄ら一族が改姓した。その出自は明かでないが、出雲氏(出雲臣)の一族とする説や[2]高句麗渡来人である伊利須使主の子孫とする系図がある[3]

経歴

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文章得業生を経て、寛平3年(891年文章博士藤原春海を問者として対策を受験するもこの時は及第できず、愁状を提出して昌泰2年(899年)及第する[4]。この間少内記を経て、寛平8年(896年)『日本三代実録』編纂のために少外記に遷ると[5]、寛平10年(898年)大外記と文官を歴任する一方で、備中権掾と地方官も務めた。

昌泰4年(901年)に従五位下越前介に叙任され地方官に転じるが、この際に国史編纂事業の任務を離れたと見られ[6]、同年8月に『日本三代実録』が完成するがその序文に撰進者として名前を連ねることはなかった。その後、醍醐朝において『延喜式』『延喜格』などの編纂に携わる。延喜年間前半(906年908年頃)に大内記兼周防権介官職にあった。延喜10年(910年)に文章博士に任ぜられた。延長4年(926年)4月4日卒去享年74。最終官位式部大輔従四位下

人物

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紀長谷雄と共に大蔵善行門下の優れた文人であり[7]漢詩作品が『和漢朗詠集』『本朝文粋』『類聚句題抄』『雑言奉和』などに採録されている。

歌人でもあり、『日本紀竟宴和歌序』を作成したほか、和歌作品が『新古今和歌集』に2首入集している[8]。家集『統理平集』があったとされるが[9]、散逸して現存しない。

官歴

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系譜

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  • 父:三統弥継[3]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:三統公忠(?-949)
    • 男子:三統元夏[16]

脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』序
  2. ^ 太田[1963: 5903]
  3. ^ a b 鈴木真年『百科系図稿』巻8,朝鮮
  4. ^ a b 『類聚符宣抄』9
  5. ^ 山本信吉「三代実録、延喜格式の編纂と大蔵善行」『歴史教育』14巻6号、1966年
  6. ^ 工藤[1978: 4]
  7. ^ 『雑言奉和』
  8. ^ a b 『勅撰作者部類』
  9. ^ 『江談抄』第5
  10. ^ 『日本紀略』
  11. ^ a b c d e 『外記補任』
  12. ^ 『西宮記』2-264
  13. ^ 『延喜式』序
  14. ^ 『本朝文粋』第3
  15. ^ 『二中歴』
  16. ^ 読みは「もとなつ」

参考文献

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  • 甲田利雄『校本江談抄とその研究 下』続群書類従完成会、1988年
  • 工藤重矩「大蔵善行七十賀宴と時平 -寛平延喜期の文人の周辺-」『福岡教育大学紀要』第28号第1分冊、1978年
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
  • 本朝世紀
  • 台記