上山雅輔
上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま まさすけ)、1905年(明治38年)2月23日[1] - 1989年(平成元年)4月11日[2])は、日本の劇作家・小説家。姉は童謡詩人の金子みすゞ。
来歴
[編集]1905年(明治38年)2月23日、山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)にて、父・金子庄之助、母・ミチとの間に生まれる。姉のみすゞとは2歳違いである。
父・庄之助は、妻(姉弟の母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、雅輔が1歳のときに清国で不慮の死をとげる。家計が逼迫したため、1907年(明治40年)1月19日、母の妹(雅輔にとっては叔母である)の嫁ぎ先である上山家に養子に出される。叔母の死後、雅輔の養父・上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。家業を継ぐために下関商業学校に通ったが、内心では音楽家に憧れていた。長兄の堅助も含め、文芸好きの兄弟3人は仲が良く、サロンを形成していた。
1923年(大正12年)、下関商業学校を卒業[3]。上京するが、半年で帰郷する。1925年(大正14年)に徴兵検査に合格。そのときに初めて松蔵が養父であったことを知った。
姉みすゞの結婚については、夫・宮本啓喜の放蕩無頼ぶりと夫婦間の不和から、終始反対していた。最終的には家出に至り、父松蔵と姉夫婦の関係悪化を招く。1928年(昭和3年)に再上京し、菊池寛が経営する文藝春秋社の「映画時代」編集部に入る。入社にあたっては、姉みすゞが古川ロッパに送った手紙が後押しとなった。1930年(昭和5年)3月、姉みすゞを亡くす。
その後、「映画時代」で得た人脈から喜劇作家に転向し、1933年(昭和8年)創立の古川ロッパ一座「笑の王国」の文芸演出部長として活躍する[4]。また、轟夕起子が1943年(昭和18年)に歌ったヒット曲「お使ひは自轉車に乗つて」の作詞もしている。戦後は、宮田洋容・布地由起江の漫才台本も手掛けた[5]。
1949年(昭和24年)4月、妻・深山容子(本名:上山五百子)、娘・八重垣緑(本名:上山七重)と共に劇団若草を立ち上げる。多忙な劇団経営の傍ら、姉の遺稿を世に残そうと努力した。児童文学者の矢崎節夫らの協力もあり、遂に1984年(昭和59年、遺稿集が出版され、世にみすゞの存在を知らしめる事となった。
劇団若草からは、石橋蓮司、吉岡秀隆、桃井かおり、飯塚雅弓など数多くの俳優・声優を輩出した。
1989年(平成元年)4月11日、東京の自宅にて死去。享年84。
関連作品
[編集]- 伝記小説
上山雅輔を演じた俳優
[編集]- 山本耕史 - NHKスペシャル『こころの王国・童謡詩人金子みすゞの世界』(NHK制作。1995年8月27日放送[6])
- 三宅健 - 『明るいほうへ 明るいほうへ』(TBS制作。2001年8月27日放送)
- 加瀬亮 - 『みすゞ』(映画。紀伊國屋書店制作。2001年)[7]
- 今井翼 - 『金子みすゞ物語〜みんなちがってみんないい〜』(TBS制作。2012年7月9日放送)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 金子みすゞ年譜参照。
- ^ 金子みすゞ甦りまでの年譜参照。
- ^ 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 神保喜利彦 (2020年3月3日). “東京漫才を彩った人々 宮田洋容・布地由起江”. 東京漫才のすべて. 2020年3月4日閲覧。
- ^ “こころの王国 童謡詩人 金子みすゞの世界”. テレビドラマデータベース. 2021年5月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月31日閲覧。
- ^ みすゞ(Yahoo!映画)
外部リンク
[編集]- 劇団若草HP 会社概要 - ウェイバックマシン(2018年2月5日アーカイブ分)