コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

上杉神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上杉神社

拝殿
所在地 山形県米沢市丸の内1丁目4-13
位置 北緯37度54分33.5秒 東経140度6分14.7秒 / 北緯37.909306度 東経140.104083度 / 37.909306; 140.104083 (上杉神社)座標: 北緯37度54分33.5秒 東経140度6分14.7秒 / 北緯37.909306度 東経140.104083度 / 37.909306; 140.104083 (上杉神社)
主祭神 上杉謙信
社格 別格官幣社
創建 明治4年(1871年
例祭 4月29日
地図
上杉神社の位置(米沢市街内)
上杉神社
上杉神社
上杉神社 (米沢市街)
上杉神社の位置(山形県内)
上杉神社
上杉神社
上杉神社 (山形県)
テンプレートを表示
上杉謙信像
上杉鷹山像(参道に立つもの)

上杉神社(うえすぎじんじゃ)は、山形県米沢市にある神社松が岬公園米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。

歴史

[編集]

上杉謙信天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封されたのに合わせ、謙信の祠堂も米沢に遷された。

以後、米沢城二の丸の法音寺を首席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。

併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。

明治35年(1902年4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。

大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼し、大正12年(1923年)、米沢市出身の伊東忠太博士の設計により、現在の本殿と宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」が再建された[1]

境内

[編集]
  • 本殿
  • 拝殿
  • 稽照殿(宝物殿)
  • 上杉謙信公像 参道を右手に入ったところに立つ。
  • 上杉鷹山公像 参道沿いに立つ。
  • 上杉景勝公と直江兼続公像(天地人像) 参道沿いに立つ。
  • 春日神社
  • 福徳稲荷神社
  • 赤穂事件殉難追悼碑 - 木村東介建立

摂社

[編集]
  • 松岬神社 上杉鷹山ほか計6柱を祀る。境内東側に鷹山の像がある(意匠は上杉神社参道に立つ像と異なる)。
  • 春日神社(境内) 上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社
  • 福徳稲荷神社(境内)

主な神事・年中行事

[編集]

文化財

[編集]
毘沙門天像(平安時代後期)
色々威腹巻 兜・壺袖付 附黒漆鎧櫃(伝 上杉謙信所用)

重要文化財

  • 絹本著色毘沙門天像
  • 紫綾金泥両界曼荼羅図
  • 絹本著色阿弥陀三尊像 高麗時代 元の至大二年(1309年)在銘(1987年盗難)
  • 太刀 伝 倫光作 表に備前国(以下不明)裏に興国三年云々の銘あり
  • 剣 無銘 梵字及び七星の金銀象嵌あり 十二支蒔絵鞘付(伝 上杉謙信 所用)
  • 太刀 無銘 伝 元重
  • 長巻 無銘 伝 則包 拵(こしらえ)付
  • 長巻 無銘 伝 片山一文字 拵付
  • 長巻 無銘 伝 片山一文字 拵付
  • 鑓(やり) 銘城州埋忠作 文禄二年十二月日 10本
  • 色々威腹巻 兜・壺袖付 附黒漆鎧櫃(伝 上杉謙信所用)
  • 服飾類(伝 上杉謙信 上杉景勝所用)(明細は後出)
  • 浅葱地花葉文緞子胴服(伝 直江兼続所用)
  • 綜芸種智院式 附:輪羯磨蒔絵箱
  • 紺紙金字後奈良天皇宸翰般若心経(1987年盗難)
  • 太刀 銘助宗 拵革柄革包太刀 上杉景勝所用(摂社松岬神社所有)
  • 明国箚付(みんこくさっぷ) 上杉景勝宛(1幅)、明冠服類(みんかんぷくるい)(文禄五年上杉景勝受贈)(紗帽(展角付)、犀角帯、大紅刻糸胸背斗牛円領、緑貼裏、靴)[2]

その他の文化財

  • 金小札浅葱糸威二枚胴具足 付属兜(直江兼続所用、通称「愛」の兜)

鯉供養

[編集]

上杉鷹山が海から遠い米沢で、貴重なタンパク源を得るために、藩士に鯉を飼わせ、鯉を食べることを奨励したことから、米沢では鯉の食文化が根付いている。鯉の消費拡大を図るために制定された5月1日の「鯉の日」に、米沢鯉商組合では1960年(昭和35年)から、鯉の供養と商売繁盛を祈念して「米沢鯉供養祭」を開催している。供養祭では、上杉神社宮司による神事のあとに、鯉が境内の池に放生(ほうじょう)される。

米沢鯉供養祭が初開催された昭和35年、上杉神社境内には鯉供養之碑が建立された。そこには文化7年(1810年)に、米沢藩支藩の家臣を江戸本所に派遣して鯉の飼育方法を学ばせたことや、その後、上杉鷹山が隠居後に住んだ餐霞館に苗鯉池を設け、鯉を薬用魚として販売していくため、相馬から稚魚を取り寄せたことなどが書かれている[3]

交通アクセス

[編集]

鉄道

[編集]

バス

[編集]

道路

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 伊東忠太”. 米沢観光NAVI. 米沢市観光キャンペーン推進協議会(米沢市観光課内). 2023年12月28日閲覧。
  2. ^ 重要文化財「服飾類(伝 上杉謙信 上杉景勝所用)」の一部として指定されていたものから2018年に分割指定(平成30年10月31日文部科学省告示第206号)
  3. ^ 鯉の日(5/1)、上杉神社境内で鯉供養祭”. 米沢日報デジタル (2023年5月2日). 2023年12月28日閲覧。

関連図書

[編集]
  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、13頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版1979年、52頁

関連項目

[編集]