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上行寺 (横浜市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上行寺

地図
所在地 神奈川県横浜市金沢区六浦2丁目
位置 北緯35度19分41.3秒 東経139度37分06.4秒 / 北緯35.328139度 東経139.618444度 / 35.328139; 139.618444座標: 北緯35度19分41.3秒 東経139度37分06.4秒 / 北緯35.328139度 東経139.618444度 / 35.328139; 139.618444
山号 六浦山[1]
宗旨 日蓮宗
創建年 応安年間(1368〜75年)(寺伝)
開山 日祐(中山法華経寺3世)[1]
開基 妙法(日荷、寺伝荒井光吉)[1]
正式名 六浦山 上行寺
別称 六浦上行寺
文化財 日祐筆 題目曼荼羅・同 板曼荼羅・石造宝篋印塔(文和元年(1352年)銘)・木造日蓮上人坐像 附法華経・書写目録(以上横浜市指定有形文化財)
法人番号 6020005000715 ウィキデータを編集
上行寺の位置(神奈川県内)
上行寺
上行寺
上行寺 (神奈川県)
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上行寺(じょうぎょうじ)は、神奈川県横浜市金沢区六浦にある日蓮宗の寺院。山号は六浦山。旧本山は中山法華経寺

歴史

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六浦上行寺は、日祐開山、六浦妙法開基の日蓮宗寺院[1]。改宗以前は弘法大師開創の真言宗金勝寺であったといわれる。日蓮が下総から六浦津を経て鎌倉入りする際の船中で、乗り合わせた千葉氏の重臣・富木常忍を折伏して有力な信徒を獲得し、ここに着岸したことから「船中問答の霊場」と呼ばれる[注釈 1]

南北朝時代初期、六浦の豪族であった六浦妙法(荒井妙法)が自邸を寺院として下総国中山法華経寺3世の日祐に寄進し、自ら開基となって上行寺を開いた。日祐が書写した日蓮の『観心本尊抄』の写本の奥書には、建武4年(1337年)に「六浦坊」において書写したという記載があり、これが上行寺の前身であろうと考えられる[2]。上行寺本堂前にある妙法の石塔には文和2年(1353年)の刻銘があり、妙法はその頃死去したものと見られる。

什宝には、日祐の筆になる康安元年(1361年)の紙本墨書題目曼荼羅と、日祐の題目本尊を木板に刻み、漆塗金泥で仕上げた応安3年(1370年)の板曼荼羅がある(共に横浜市指定文化財)。板曼荼羅の下部および裏面には100名をこえる奉加者の名前が刻まれており、鎌倉の外港として栄えた六浦津の法華信徒の求めに応じて本尊として造立されたもので、日蓮宗の板曼荼羅の古い作例としても注目される。応安6年(1373年)の日祐譲状(法華経寺文書)では「武州六浦上行寺」が日尊に譲与されており、このころには寺号が定まっていたことが確かめられる。応永13年(1406年)には日蓮の木像(横浜市指定文化財)が造立され、納入された法華経および書写目録には十数名の僧侶の名が記されており、上行寺がかなりの規模をそなえた日蓮宗寺院に成長していたことを示す。

開基の六浦妙法は、称名寺の仁王像を独りでかついで身延山に寄進したという強力伝説で知られ、「日荷上人」という称号で足腰の守護神として身延山久遠寺ほか各地の日蓮宗寺院に祭られている。中山法華経寺に伝わる日祐自筆の記録(「一期所修善根記録」)によれば、妙法は正しくは六浦平次郎景光といい、出家して妙法と名乗った。上行寺の創建だけでなく、法華経寺に仏像(釈迦・四菩薩)を寄進し、身延山久遠寺には多宝塔を造立している。妙法は、莫大な財産をもつ六浦津の長者のひとりとして内乱期の六浦津の経済活動を支えながら、初期の日蓮宗教団の有力な外護者の役割を果たした[注釈 2]

関東大震災によって倒壊するまで、上行寺には本堂と祖師堂があり[1]、日蓮宗中山門流の古刹としての格式をそなえ、また足腰の守護神としての日荷上人に対する民間信仰で栄えた。上行寺の東側に続く山稜には、古くからやぐらが密集することで知られていたが、1984年ごろから開発のため発掘調査が実施され、大規模な岩窟(やぐら)群と寺院遺跡が発見され、おびただしい石塔と人骨が出土した。この遺跡は「上行寺東遺跡」(行政的には「上行寺東やぐら群遺跡」)と呼ばれ、地元住民・学会・研究者による大規模な保存運動が巻き起こったが、マンション開発のためほとんど削平され、消滅した。

境内

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船着場に近い場所に位置していたことから「舟繋ぎの松」の跡がある[3]

文化財

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日祐筆 題目曼荼羅・同 板曼荼羅・石造宝篋印塔(文和元年(1352年)銘)・木造日蓮上人坐像 附法華経・書写目録(以上横浜市指定有形文化財)・石造宝塔(文和2年(1353年)銘、六浦妙法墓塔)・榧樹(伝妙法手植)

脚注

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注釈

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  1. ^ 門前一帯が鎌倉時代の船着場であったと思われ、山門内に「船繋ぎの松」の史跡が残されている。
  2. ^ 六浦妙法は、日蓮宗を外護するだけでなく、六浦の瀬戸海峡にかかる瀬戸橋の再築を独力で行い、文和2年(1353年)4月27日に瀬戸神社の神前で行なわれた橋供養(開通式)で、称名寺4世長老の実真が、開通を目前に死去した妙法のために廻向を兼修している。(西岡芳文「六浦瀬戸橋をめぐる二、三の問題」『六浦文化研究』3号、1991年)

出典

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  1. ^ a b c d e 江戸名所図会.
  2. ^ 湯浅治久「六浦上行寺に関する新史料-多古町正覚寺『立正安国論』・『観心本尊抄』奥書」『六浦文化研究』4号、1993年)
  3. ^ 横浜金沢ガイドMAP”. 一般社団法人横浜金沢観光協会. 2022年12月16日閲覧。

参考資料

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  • 金沢区制五十周年記念事業実行委員会『図説かなざわの歴史』横浜市金沢区役所(2001年
  • 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山池上本門寺1981年
  • 『大日本史料』第6編40、応安7年(1374年)5月19日(日祐入寂の条)
  • 中尾堯『日蓮宗の成立と展開』吉川弘文館 (1973年
  • 斎藤長秋 編「巻之二 天璇之部 六浦山上行寺」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店、1927年、659ー664頁。NDLJP:1174130/335 

関連文献

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関連項目

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