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上野勘一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野 勘一郎
生誕 1888年5月3日
日本の旗 日本 和歌山県
死没 (1974-11-30) 1974年11月30日(86歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1909年 - 1941年
1941年 - 1942年
1945年
最終階級 陸軍中将
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上野 勘一郎(うえの かんいちろう、1888年明治21年)5月3日[1] - 1974年昭和49年)11月30日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級[2]

経歴

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1888年(明治21年)に和歌山県で生まれた[1]陸軍士官学校第21期、陸軍大学校第33期卒業[1]1933年(昭和8年)8月、陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍高級副官に着任し[2]1935年(昭和10年)に歩兵第10連隊長に転じた[2]

1937年(昭和12年)8月2日、陸軍少将進級と同時に歩兵第29旅団長(上海派遣軍第3師団)に着任し[1][2]上海に出動[1]呉淞に敵前上陸を敢行し[1]、敵軍を制圧[1]。追撃戦に移行し[1]南京攻略徐州会戦武漢攻略に参加[1]1939年(昭和14年)3月9日留守第7師団司令部附を経て[1]6月2日樺太混成旅団長に就任し[1]10月2日に陸軍中将に進級した[2]1940年(昭和15年)9月1日第51師団長(東部軍)に親補され[1]1941年(昭和16年)7月5日予備役に編入された[1]。同年7月7日に召集され、留守第51師団長に就任し[1]1942年(昭和17年)4月1日に召集解除となった[1]1945年(昭和20年)3月31日に召集され、和歌山連隊区司令官兼和歌山地区司令官に就任した[3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 福川 2001, 116頁.
  2. ^ a b c d e 外山 1981, 264頁.
  3. ^ 第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900 
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」185頁。

参考文献

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  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026