第51師団 (日本軍)
第51師団 (日本軍) | |
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創設 | 1940年(昭和15年)7月10日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 宇都宮-満州-華南-ラバウル-ニューギニア |
編成地 | 宇都宮 |
通称号/略称 | 基 |
補充担任 | 宇都宮師管・宇都宮師管区 |
最終上級単位 | 第18軍 |
最終位置 | ニューギニア クッシャム |
戦歴 |
関特演-日中-太平洋戦争 (香港の戦い) (ニューギニアの戦い) |
第51師団(だいごじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。茨城・栃木・群馬の三県を徴兵区とする常設師団として、1940年(昭和15年)7月10日に留守第14師団を基幹に宇都宮で編成された
沿革
[編集]1940年(昭和15年)8月から常設師団のうちの8個師団が満州に永久駐屯することになり、代替の常設師団として同年7月10日に第51師団・ 第52師団・第54師団・第55師団・第56師団・第57師団の計6個師団がそれぞれ留守師団を基幹に編成された[1]。第51師団の管轄区域は宇都宮師管と称した。
師団は編成後当初は東部軍に所属し宇都宮に在ったが、1941年(昭和16年)7月に関東軍特種演習参加のため満州へ派遣された[2]。宇都宮師管の管区業務は留守第51師団が引き継いだ。
同年9月には華南に進出し第23軍に編入され、歩兵第66連隊基幹の荒木支隊が12月の香港の戦いに参戦する。その後も第23軍隷下広東に駐屯していたが、1942年(昭和17年)10月20日に南東方面の第17軍の戦闘序列に編入となった[3]。11月16日には新設の第18軍に移り[3]、ニューギニア戦線に転用され、ラバウルに進出した。
1943年(昭和18年)1月2日に東部ニューギニアのブナの日本軍が玉砕し、師団は連合国軍の次の目標地であろうラエを守るべく2月28日にラバウルを出航した(八十一号作戦)。しかし、3月2日・3日にダンピール海峡で連合軍の空襲を受け、輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻が撃沈されダンピールの悲劇といわれる多大な犠牲を出した(ビスマルク海海戦)。その後小規模に分かれた舟艇や駆逐艦による輸送により上陸した1個連隊ほどの兵員もラエ・サラモアの戦いに敗れ、サラワケット越えを敢行しての撤退は悲惨を極め、さらに連合国軍の飛び石作戦に翻弄され飢餓との戦いを続け、約16,000名の人員が終戦時には2,754名であった。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]- 上野勘一郎 中将:1940年(昭和15年)9月1日 - 1941年(昭和16年)7月1日
- 李王垠 中将:1941年(昭和16年)7月1日 - 1941年(昭和16年)11月16日
- 中野英光 中将:1941年(昭和16年)11月16日 - 終戦
参謀長
[編集]- 渡辺勝 大佐:1940年(昭和15年)9月1日[4] - 1941年7月15日
- 大橋熊雄 大佐:1941年(昭和16年)7月15日 - 1942年4月17日[5]
- 本郷忠夫 大佐:1942年(昭和17年)4月17日 - 1943年7月3日戦死[6]
- 青津喜久太郎 大佐:1943年(昭和18年)7月5日 - 1944年9月9日[7]
- 荒木勝利 大佐:1944年(昭和19年)9月9日 - 終戦[8]
最終所属部隊
[編集]- 第51歩兵団:川久保鎮馬中将
- 捜索第51連隊
- 野砲兵第14連隊:渡辺左之大佐
- 工兵第51連隊:安東英夫中佐
- 輜重兵第51連隊:江崎義雄大佐
- 第51師団通信隊:小泉茂大尉
- 第51師団兵器勤務隊:喜多川儀平中尉
- 第51師団衛生隊:小桜八太郎少佐
- 第51師団第1野戦病院:谷口慶亮軍医少佐
- 第51師団第2野戦病院:本間博軍医少佐
- 第51師団第3野戦病院:佐伯正之進軍医少佐
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『陸軍軍戦備』(戦史叢書)、朝雲新聞社、1979年。