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第135師団 (日本軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第135師団
創設 1945年(昭和20年)7月10日
廃止 1945年昭和20年)
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務 歩兵
所在地 満洲
編成地 満洲
通称号/略称 真心
補充担任 関東軍管区
最終上級単位 第5軍
最終位置 満洲 横道河子
戦歴 太平洋戦争
(ソ連対日参戦)
(牡丹江の戦い)
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第135師団(だいひゃくさんじゅうごしだん)は、大日本帝国陸軍師団の一つ。

沿革

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1945年(昭和20年)に入り、関東軍は南方へ兵力の過半数を引き抜かれていたが満洲居留邦人15万名、在郷軍人25万名を「根こそぎ動員」、さらに中国戦線から4個歩兵師団を戻してなんとか74万人の兵員を調達した。さらに以前関東軍特種演習により本土から輸送させた戦車200輌、航空機200機、火砲1000門も健在であった。

しかし兵員の半数以上は訓練不足、日ソ中立条約違反を想定していなかった関東軍首脳部の混乱、物質不足(砲弾は約1200発ほどで、航空部隊のほとんどが戦闘未経験者。また小銃が行き渡らない兵士だけでも10万名以上)のため事実上の戦力は30万名程度だったといわれている。

同年7月、「根こそぎ動員」の際に第135師団は、第2国境守備隊(綏芬河)及び第4国境守備隊(虎頭)の主力、第46兵站警備隊、独立混成第77旅団を基幹に編成され、第5軍に編入された。

同年8月9日のソ連対日参戦時に、第135師団は虎林から東安方面に所在していた。第5軍司令部は、第135師団と第126師団に掖河まで退却を命令した。両師団は第124師団ソ連軍との激しい戦闘を継続する中、牡丹江の防備を強化しソ連軍の攻撃を防ぎながら、牡丹江市街の在留邦人の脱出を助けた。

8月15日に第135師団と第126師団は第5軍司令部から命令を受け、8月17日には牡丹江北西の横道河子まで退却し、その地で停戦命令を受けた。

第135師団のほか、第134第136第137第138第139第148第149師団が同時に編成された。

師団概要

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歴代師団長

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  • 人見与一 予備役中将:1945年(昭和20年)7月16日 - 終戦 [1]

参謀長

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  • 井上敬助 大佐:1945年(昭和20年)7月26日 - 終戦[2]

最終司令部構成

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  • 参謀長:井上敬助大佐

最終所属部隊

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  • 歩兵第368連隊(満洲):飯塚文二大佐
  • 歩兵第369連隊(満洲):中山亮輔大佐
  • 歩兵第370連隊(満洲):多喜弘中佐
  • 砲兵第135連隊
  • 工兵第135連隊
  • 輜重兵第135連隊
  • 第135師団挺進大隊
  • 第135師団通信隊      
  • 第135師団兵器勤務隊
  • 第135師団病馬廠

脚注

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  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』264-265頁。
  2. ^ 『帝国陸軍編制総覧』1219頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 別冊歴史読本 戦記シリーズNo.32 太平洋戦争師団戦史』、新人物往来社、1996年。

関連項目

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