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上野義秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野 義秋
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県
生年月日 (1920-12-11) 1920年12月11日
身長
体重
170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手外野手
プロ入り 1940年
初出場 1940年3月16日[1]
最終出場 1952年10月13日[2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

上野 義秋(うえの よしあき、1920年12月11日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手捕手一塁手外野手)。

来歴・人物

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福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に5回(春2回〈1937年1938年〉、夏3回〈1937年1938年1939年〉)出場[3][4]。最高成績は1939年夏のベスト8(それ以外の大会は、全て初戦負け)だが、同校の甲子園初出場及び黄金時代(福岡工は2014年春終了現在、春5回,夏4回出場しているが、上野がいた時代に春2回,夏3回出場。)に貢献した。福岡工時代のチームメイトに、大崎憲司千頭久米夫伴勇資(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。

1940年3月15日名古屋金鯱軍に入団[5]。翌日の開幕戦・南海戦(甲子園球場)に「7番・一塁手」で先発出場した[1]。持ち前のシュアな打撃と選球眼の良さでレギュラーに定着し、一塁手の他には捕手外野手左翼手中堅手右翼手全てで試合出場経験あり)を守ったユーティリティープレイヤーでもあった。

1941年に金鯱軍は翼軍と対等合併して大洋軍となり、上野もメンバーとして登録されるが、試合出場はなかった[6]。6年のブランクがあることから、応召された可能性が高い[6]が、詳細は不明である。

1947年に現役復帰。この年創設された、西日本鉄道硬式野球部に所属して戦後のスタートを切った。翌1948年第19回都市対抗野球大会では、「3番・一塁手」としてチームの優勝に貢献[6]。この時のチームメイトには、先述の大崎,千頭,伴の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。1950年にこの年新設された 西鉄クリッパースに入団し、プロ野球界に復帰した。俊足を活かし、主に1番や2番、9番打者で活躍[7]して、16盗塁をマークした。しかし、シーズン終盤に故障して、翌1951年には僅か1試合出場に終わると、1952年広島カープに移籍して、この年限りで現役を引退した。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1940 金鯱 65 210 176 12 37 5 0 0 42 16 7 -- 4 0 29 -- 0 21 -- .210 .322 .239 .561
1950 西鉄 102 342 289 29 70 7 5 2 93 17 16 7 9 -- 41 -- 3 40 2 .242 .342 .322 .664
1951 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1952 広島 79 123 103 14 24 2 1 1 31 8 3 5 2 -- 18 -- 0 12 1 .233 .347 .301 .648
通算:4年 247 675 568 55 131 14 6 3 166 41 26 12 15 0 88 -- 3 73 3 .231 .337 .292 .629

背番号

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  • 27 (1940年)
  • 8 (1941年)
  • 6 (1950年 - 1951年)
  • 11 (1952年)

脚注

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関連項目

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外部リンク

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