下河辺孫一
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下河辺 孫一(しもこうべ まごいち、1909年〈明治42年〉2月5日 - 1997年〈平成9年〉10月10日)は、日本の実業家で、下河辺牧場の創業者。下河邉 孫一の表記もある。
人物・来歴
[編集]1909年、元日本鉱業(現・ENEOS)社長・下河辺建二の長男として東京府(現・東京都)に生まれた[1][2][3][4]。東京帝国大学獣医科実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)卒業後宮内省に入省、御料牧場の獣医師として5年間勤務の後独立して成田市に下河辺牧場を開業し、サラブレッドの育成に努めた。戦後北海道沙流郡門別町(現・日高町)に支場を開設して長男の下河辺俊行が経営にあたった。1975年(昭和50年)成田空港建設に伴い牧場を香取郡栗源町(現・香取市)に移転した。1997年、死去。88歳没。孫一の死後、下河辺牧場は日高支場が中核となり、栗源町の本場は「下河辺トレーニングセンター」と改称した。
家族・親族
[編集]父・建二は大阪府の医師・下河辺俊斎の次男[1][2]、弟は芦田均の娘婿で日製産業(現・日立ハイテク)の社長を務めた下河辺三史[1][2][3][4]。妻・敏子は三沢信一の次女[4]。三沢の三女はイギリス文学者の藤島昌平に嫁いだため[5]、孫一と昌平は義兄弟となった。小説家・評論家の藤島泰輔は昌平の甥[5]。孫一・敏子夫妻の次女・牧子はドイツ文学者の小沢俊夫に嫁いだ[3][4][6]。ミュージシャンの小沢健二は俊夫・牧子夫妻の次男なので下河辺孫一の孫にあたる[6]。山下汽船(現・商船三井)常務や山栄船舶社長等を歴任した漆野寿一は孫一の義弟[1][4]。都市計画家の下河辺淳は従弟[脚注 1]。
参考文献
[編集]- 『人事興信録 第14版 上』 人事興信所、1943年(昭和18年)10月1日発行、シ85頁
- 『人事興信録 第15版 上』 人事興信所、1948年(昭和23年)9月1日発行、シ20頁
- 佐藤朝泰 著 『閨閥:日本のニュー・エスタブリッシュメント』 立風書房、1981年(昭和56年)10月30日第1刷発行、292-294頁
- 『財界家系譜大観 第6版』 現代名士家系譜刊行会、1984年(昭和59年)10月15日発行、432頁
- 『財界家系譜大観 第7版』 現代名士家系譜刊行会、1986年(昭和61年)12月10日発行、382頁
- 『財界家系譜大観 第8版』 現代名士家系譜刊行会、1988年(昭和63年)11月15日発行、404頁
- 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年(昭和62年)10月5日発行、ISBN 4-8205-0693-5、856頁
- 小谷野敦 著 『日本の有名一族近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2007年(平成19年)9月30日第1刷発行、ISBN 978-4-3449-8055-6、47-49頁
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]- ある光 - 下河辺の孫・小沢健二が下河辺の死に際して捧げた楽曲で、小沢の17枚目のシングルでもある。