コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

下河辺建二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年明治11年)10月30日[1] - 1964年昭和39年)2月28日)は、日本実業家大阪府平民[2]

経歴

[編集]

大阪府下・下河辺俊斎二男[2]。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職[3]。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える[3]。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長[4]、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。

戦後、公職追放となった[5]

家族・親族

[編集]

下河辺家

[編集]
大阪府[2]東京市外大久保町西大久保[2](現・東京都))

参考文献

[編集]

脚注・出典

[編集]
  1. ^ 『人事興信録 第22版 上』人事興信所、1964年、し88頁。
  2. ^ a b c d 『人事興信録 第7版』、し87頁。
  3. ^ a b 『次代を背負ふ財界人』人物評論社編 昭和12
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『財界家系譜大観』、第6版 - 第8版。
  5. ^ 公職追放の該当事項は「日本鉱業取締役社長日産取締役社長」総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、570頁。NDLJP:1276156 
  6. ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』、シ85頁。
  7. ^ a b c 『人事興信録 第15版 上』、シ20頁。
  8. ^ a b c d 『閨閥』、293頁。
  9. ^ a b c 『日本の有名一族』、47-49頁。