不破整
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名前 | ||||||
カタカナ | フワ セイ | |||||
ラテン文字 | FUWA Sei | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1915年頃 | |||||
出身地 | 東京府 | |||||
没年月日 | 2004年以前 | |||||
身長 | 175cm[1] | |||||
体重 | 65kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
ユース | ||||||
早稲田大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
早稲田大学WMW | ||||||
代表歴 | ||||||
1936 | 日本 | 0 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
不破 整(ふわ せい、1915年頃 - 2004年以前)は、東京府出身のサッカー選手。ポジションはGK。
来歴
[編集]東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)を卒業して[1]、第一早稲田高等学院へ、その後早稲田大学に入学。ア式蹴球部に在籍した[2]。
不破が21歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された[1]が、同じ早稲田大学から代表に選出された佐野理平がスタメンを占めたため、出場機会は無かった[3]。
また、早稲田大学在学中の1938年に全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝、1939年には同大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で準優勝に貢献した。
1941年春に太平洋戦争のために召集され満州に配属された[4]。
なお、詳細な没年は不明であるが、2004年3月時点で故人となっている[5]。
後に日本電報通信社(現:電通)の専務取締役となる不破磋磨太が父にあたる。また、兄の活は1941年6月に中国の山東省で戦死している[4]。
所属クラブ
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年8月5日閲覧
- ^ “兄は社長に、弟は生涯一記者に”. 賀川サッカーライブラリー. 2016年8月5日閲覧。
- ^ 日本代表 試合別出場記録 Archived 2009年3月3日, at the Wayback Machine.
- ^ a b 「不破少尉戦死」朝日新聞 (1941年6月10日) 2016年8月5日閲覧
- ^ “加茂健氏 心不全のため死去”. 日刊スポーツ (2004年3月26日). 2016年8月5日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 不破整 - Olympedia