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松永行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松永 行
名前
カタカナ マツナガ アキラ
ラテン文字 MATSUNAGA Akira
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1914年9月21日
大日本帝国の旗 大日本帝国, 静岡県志太郡
没年月日

(1943-01-20) 1943年1月20日(28歳没)[1]

イギリス保護領ソロモン諸島, ガダルカナル島
身長 170cm[2]
体重 64kg[2]
選手情報
ポジション FW
ユース
チーム
日本の旗 志太中学校
1935-1937 日本の旗 東京文理科大学
代表歴
1936 日本の旗 日本 2 (1)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 1943年1月20日)は、静岡県志太郡出身のサッカー選手。

来歴

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静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫および松永碩は実弟であった。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した[2]。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる

フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。

1936年のベルリンオリンピック日本代表に選出。8月4日の本大会1回戦、優勝候補のスウェーデン代表戦で、後半40分に相手ゴールキーパーの股下を抜く逆転ゴールを決め、のちに「ベルリンの奇跡」と称される勝利の立役者となった。

1937年、同校3年の時に陸軍に従軍して静岡の連隊に配属された。なお、その際に松永は「戦争には行きたくない。もう一度ドイツに行って蹴球(サッカー)を学び、指導者になりたい」と妹に語ったと伝わっている[1]オランダ領東インド方面へ転戦した後、1943年1月に東海林部隊(歩兵第230連隊)の中隊長としてガダルカナル島で戦死した[1]

ベルリン五輪で松永が着用した日本代表のユニフォームが今日まで残っており、現存する最古の代表ユニフォームとして日本サッカーミュージアムに保管されている。


所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 2試合 1得点 (1936)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1936 2 1 2 0 4 1
通算 2 1 2 0 4 1

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1936年08月04日 ドイツの旗ベルリン  スウェーデン ○3-2 鈴木重義 オリンピック
2. 1936年08月07日 ドイツの旗ベルリン  イタリア ●0-8 オリンピック

得点数

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# 年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1 1936年8月4日 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ベルリン スウェーデンの旗 スウェーデン 3-2 ベルリン五輪

提言

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ベルリン五輪終了後、松永はスポーツ誌『体育と競技』に寄稿した「オリムピック蹴球の回顧」と題した記事の中で、将来の日本サッカー界を担う後輩たちに対して提言を残している。

『扨て日本蹴球は、果たして世界のレベルに達してゐるかといふ疑問は自然起る。前述の如く、精神的方面に於ては断然世界レベル以上だ。して又スピードを持ったショートパスに於てもレベル以上だ。このショートパスに関して、独逸の或権威者は、これだけは日本より学んだと言ってゐる。

これだ、ショートパスの速攻法をあくまでも伸ばし、之に加へるに遅攻法をとり、緩急よろしきを得て、始めて日本蹴球の完成の時は来るのであると同時に、この時こそ世界蹴球覇者たり王者たる時なのである。

個人技を練磨せよ。

これこそ日本蹴球人に輿へられた唯一の課題なのである。』

(大日本体育学会編、目黒書店発行 『体育と競技』 v.15 no.11 1936.11 p.69-72)

脚注

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  1. ^ a b c 「W杯ドイツ大会「ベルリンの奇跡」戦死のサッカー元代表遺族、試合見守る」朝日新聞、2005年8月18日、2014年7月9日閲覧
  2. ^ a b c 「オリムピックへ十六選手決定す」朝日新聞 (1936年4月23日) 2016年9月11日閲覧

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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