中井三郎兵衛 (3代)
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3代 中井 三郎兵衛(なかい さぶろべえ、1821年 - 1899年)は、日本の実業家。三井家別家当主。日本紙パルプ商事創業者[1]。国際紙パルプ商事も、中井三郎兵衛の興した会社から分離した組織がもとになっている。第8代三井八郎右衛門の要請で三井家大元方(三井全事業統括機関)総元締に就任、三井銀行・三井物産の設立に深く関与する。
だいさんだい なかいさぶろべえ 第3代 中井三郎兵衛 | |
---|---|
生誕 |
1821年 日本 |
死没 | 1899年 |
国籍 | 日本 |
別名 | 中井三平 |
民族 | 日本人 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 19世紀 |
団体 | 三井家(別家) |
著名な実績 | |
影響を受けたもの | 第8代 三井八郎右衛門 |
影響を与えたもの |
三井財閥 三井銀行 三井物産 日本紙パルプ商事 三井家 三井グループ 四日市製紙 前田製紙 |
活動拠点 | 京都 |
子供 | 中井三郎兵衛 (4代) |
親 | 中井三郎兵衛 (2代) |
親戚 | |
補足 | |
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略歴
[編集]京都の中井家に、父・中井清吉 (第2代中井三郎兵衛)、母・きんの二男として生まれる。出生名は中井三平。1832年、12歳で三井家京本店に奉公。1845年、「三井越後屋呉服店」(三越) で番頭をしていた三平は「三郎兵衛」の名跡を相続、同年、京都に和紙商越後屋三郎兵衛商店 (のちの日本紙パルプ商事) を開業。この時、「丸に越」の暖簾 (現在の三越のロゴマーク) の使用を同族以外で特別に認められた。1859年には、「丸に井桁三」の暖簾 (現在の三井グループのシンボルマーク) の使用も特別に許されている。1870年、三井に再奉公し、重責を果たすことになる。中井三郎兵衛は、第一銀行四日市支店長であった八巻道成が提唱により、八巻のほか第一銀行頭取の渋沢栄一、東京の製紙会社有恒社(後に初代王子製紙に合併される)の関係者、四日市の九鬼紋七らとともに出資して、1887年、四日市製紙を設立した。さらに、中井三郎兵衛は、敦賀の銀行家大和田荘七、大倉財閥の渋谷喜助とともに、出資して、前田製紙 (薩摩藩出身、農商務省次官の前田正名が創業者) を設立。第8代三井八郎右衛門の要請で三井家大元方 (三井全事業統括機関) 総元締に就任、三井銀行・三井物産の設立に深く関与する[2]。
系譜
[編集]- 子 (養嗣子) - 中井慈眼 (第4代中井三郎兵衛)は、和洋紙問屋・中井商店(のちの、日本紙パルプ商事)の社長。1884年京都紙商組合をつくり、京都織物・東京印刷・京津電気軌道・王子製紙などの役員、京都府会議員を歴任した。東京府 (東京市) 日本橋区にも居所があった[3]慈眼の別邸の庭園は京都市指定・登録文化財 (名勝)[4]となった。田中源太郎、内貴清兵衛らとともに、京都四天王と呼ばれた。
- 同妻 - つた
- 孫 - ぎん子
- 孫 - ふみ子 (仁保亀松に嫁す)
- 同妻 - つる
- 子 - 中井三次郎 (菊之助、三越喜左衛門方に一旦養子に)
- 同妻 - 貞 [7]
脚注
[編集]- ^ “日本紙パルプ商事”. https://kotobank.jp. 2018年10月8日閲覧。
- ^ 多田哲久、「三井の別家に見る株的性格 日本家族企業の先行条件」 ソシオロジ 2000年 45巻 1号 p.55-71, doi:10.14959/soshioroji.45.1_55
- ^ “時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (東京府(東京市)の二十九(人員通計三百二十七名) 日本橋区の七(人員十二名通計八十五名))”. www.lib.kobe-u.ac.jp. 2018年4月26日閲覧。
- ^ “新指定・登録文化財 第32回京都市文化財”. www.city.kyoto.lg.jp. 2018年10月22日閲覧。
- ^ 今江秀史「京都市指定名勝中井家の庭の築造過程と地割構造の解明」京都市文化財保護課研究紀要 第3号155頁註20(2020年3月)
- ^ 人事興信録 第13版下 2018年10月8日閲覧。
- ^ 多田哲久、「三井の別家に見る株的性格 日本家族企業の先行条件」ソシオロジ 2000年 45巻 1号 p.55-71, doi:10.14959/soshioroji.45.1_55