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中尾銑治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中尾銑治
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市伏見区
生年月日 1935年7月3日
死没 (2010-01-16) 2010年1月16日(74歳没)
騎手情報
所属団体 国営競馬
日本中央競馬会
所属厩舎 鈴木甚吉・京都(1953年-1954年)
武田文吾・京都(1954年-1956年)
橋本正晴・京都(1956年-1962年)
元石正雄・中山(1962年-1964年)
菊池一雄・中山(1964年-引退)
初免許年 1956年
騎手引退日 1970年
通算勝利 1122戦75勝
調教師情報
初免許年 1973年
調教師引退日 2006年2月28日定年
重賞勝利 5勝
G1級勝利 2勝
通算勝利 5122戦350勝
経歴
所属 中山競馬場(1973年-1978年)
美浦T.C.(1978年-引退)
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中尾 銑治(なかお せんじ、1935年7月3日 - 2010年1月16日)は、日本国営競馬および日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手調教師。調教師時代のおもな管理馬に、1997年の皐月賞東京優駿を制したサニーブライアンがいる。京都府京都市出身。

長男・俊秀と三男・得治は調教助手、次男・篤吏は装蹄師。それぞれ調教師の中尾謙太郎は実兄、中尾正は実弟、中尾秀正は甥。義兄に騎手・調教師の宮本悳がいる。

経歴

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1935年、京都競馬場厩務員をしていた中尾嘉蔵の次男として生まれる。2歳年上の兄に謙太郎、1938年に弟の正が生まれている。1941年末に勃発した太平洋戦争の激化とともに、一時父の実家である奈良県に疎開、その後、父の軍事徴用に伴って妹と共に軍港のあった広島県呉市に移った。同地で終戦を迎えたあとに京都へ戻り、中学校卒業後1953年に騎手候補生として鈴木甚吉厩舎に入った。鈴木は日本のホースマンの祖として一系を成し、武田文吾などを育てた名伯楽であったが、当時すでに病身であり、銑治はその最後の直弟子となった。

翌1954年に鈴木の健康状態が悪化し、兄弟子の武田文吾厩舎へ移籍。1956年2月に武田厩舎から騎手としてデビューした。しかし体重が重かったため数多く騎乗できず、目立った活躍はなかった。騎手生活の後半は父の勧めで関東に移り、1970年に騎手を引退した。通算1122戦75勝。

1973年に調教師免許を取得し、翌1974年中山競馬場において厩舎を開業した。初出走は同年10月5日福島競馬第3競走のトウフクバンブーで5着、初勝利は1975年1月6日東京競馬第8競走のエリモシャープでのべ30頭目であった。

1982年のアラブ大賞典(秋)をハイロータリーで制して重賞競走初勝利を挙げた。中尾厩舎からデビューし、当時も所属していた大西直宏が騎乗しており、大西にとっても重賞競走初勝利となった。

GI競走には長く縁がなかったが、1997年皐月賞において、大西騎乗のサニーブライアンが逃げ切り勝ちを収め、GI競走・クラシック競走初制覇を果たした。同馬は続く東京優駿(日本ダービー)も制して二冠を達成し、銑治はダービートレーナーの称号を得た。ダービーでは1987年にサニーブライアンの伯父・サニースワローで2着の経験があり、このときの雪辱ともなった。

ナリタブライアン以来の三冠馬誕生となるか注目されたが、競走後に骨折が判明し、秋の菊花賞を断念、三冠を逃した。同馬はその後、復帰を目指すも新たな故障もあり、そのまま引退となった。

2006年2月に定年により調教師を引退した。調教師としての成績は5122戦350勝。重賞5勝、うちGI競走2勝。謙太郎、正も調教師としてGI競走を制覇している。

2010年1月16日、逝去。74歳没。

調教師通算成績

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通算成績 1着 2着 3着 4着以下 出走回数 勝率 連対率
平地 332 359 398 3,954 5,043 .066 .137
障害 18 16 17 154 205 .088 .166
350 375 415 4,108 5,248 .067 .138

※数字は中央競馬成績のみ

主な管理馬

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主な厩舎所属者

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※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

参考文献

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  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
  • 優駿』1997年7月号(日本中央競馬会)「杉本清の競馬談義147 中尾銑治調教師」