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中山源夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中山 源夫(なかやま もとお、1899年明治32年)5月26日[1][2] - 1979年昭和54年)12月13日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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鹿児島県出身[1][2][3]東京で陸軍大尉・中山左源二の長男として生まれる[1]。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる[1][3]。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し歩兵第7連隊中隊長に就任した[1][2][3]

1931年(昭和6年)5月、東京警備参謀に就任し、参謀本部員を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵少佐に進級した[1]。1936年(昭和11年)3月、陸軍省人事局課員に就任し、参謀本部員(戦史課)、軍務局課員(軍事課)を務め、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に昇進[1]。1939年(昭和14年)3月、関東軍参謀に転じ、1940年(昭和15年)8月、歩兵大佐に進み参謀本部編制動員課長に就任した[1][3]

1941年(昭和16年)9月、台湾軍参謀に転じ、同年11月、第14軍参謀として太平洋戦争に出征し、フィリピンの戦いに参戦した[1][2][3]。1942年(昭和17年)6月、軍務局付となり帰国[1]。同年8月、総力戦研究所員に就任[1][2][3]。1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に進み陸軍兵器本廠付となる[1][2][3]。同年10月、第12軍参謀長に発令され日中戦争に出征し、終戦を迎えた[1][2][3]。1946年(昭和21年)7月に復員した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

親族

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  • 弟 大島瑞穂(陸軍少佐)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、64頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』537頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』437-438頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。