中川久知
中川久知 なかがわ ひさとも | |
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生年月日 | 1859年4月23日 |
没年月日 | 1921年11月12日(62歳没) |
出身校 | 東京大学理学部中退 |
前職 | 農商務省農事試験場技手 |
現職 |
九州学院教授 済々黌博物学科嘱託教授 熊本医学専門学校講師 (現熊本大学医学部) |
所属政党 |
(無所属→) 中正倶楽部 |
親族 | 兄・中川久成(貴族院議員) |
選挙区 | 大分県郡部選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1903年3月 - 1903年12月11日 |
中川 久知(なかがわ ひさとも、1859年4月23日(安政6年3月21日[1][2])- 1921年(大正10年)11月12日[2][3])は、明治から大正期の博物学者、政治家。衆議院議員、九州博物学会終身会長[2]。青年期に一時、板倉久知を名乗る。熊本県近世博物学の開拓者[2]。
経歴
[編集]岡藩主・中川久昭の二男として生まれる[1][2][4][5]。藩校・由学館で漢籍を学んだ[5]。1871年(明治4年)上京し、丹羽家塾、逢坂学舎、東京英語学校、開成学校で学んだ[5]。1877年(明治10年)東京大学理学部に入学[2][3][5][6]。同年10月13日、旧安中藩主板倉家当主・板倉種子(板倉勝殷四女)の入夫となり家督を相続[4]したため東大を中退[2]。しかし、1880年(明治13年)1月17日に隠居し[4]、同月19日に離縁となり中川家に復籍した[1][4]。
1880年、麻布学農社[注釈 1]嘱託教師に就任[2][3][6]。以後、内務省地理局勤務、愛媛県師範学校教諭、福岡県師範学校教諭などを経て[2][3][5]、1890年(明治23年)第五高等中学校(第五高等学校)教授に就任[2][3]。この間、博物学の研究を行い[5]、1898年(明治31年)第五高等学校を辞職した[2]。
1902年(明治35年)農商務省農事試験場技手(九州支場)に就任[2][5]。同年8月、第7回衆議院議員総選挙の大分県郡部(無所属)で落選[7]。1903年(明治36年)3月の第8回総選挙(大分県郡部、中正倶楽部)で当選し[5][7]、衆議院議員に1期在任した[3][6]。
1904年(明治37年)農事試験場に復帰し技師となり、昆虫の研究を行った[5]。九州学院教授、済々黌博物学科嘱託教授、熊本県農会名誉会員などを務め[3][6]、1913年(大正2年)熊本医学専門学校講師に就任し解剖学を担当した[3][5]。1920年(大正9年)九州博物学会終身会長となった[2][5]。
その他、養蜂研究所を運営し[3]、有害動物の防除研究[2]、ビタミンの研究[3]に取り組んだ。
著作
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大分県歴史人物事典』355頁では麻布農学校。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 熊本日日新聞社・熊本県大百科事典編集委員会編『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上・下巻、霞会館、1996年。
当主 | ||
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先代 板倉種子 |
旧安中藩板倉家 板倉久知 1877年 - 1880年 |
次代 板倉種子 |