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中本浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中本 浩
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1966-08-22) 1966年8月22日(58歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手指名打者
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 1992年
獲得メダル
男子 野球
日本の旗 日本
オリンピック
1992 野球

中本 浩(なかもと ひろし、1966年8月22日 - )は日本の元アマチュア野球選手外野手)、野球指導者。広角打法に定評のある中距離打者だった[1]

経歴

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中学時代は大阪東ジャガーズで全国優勝を果たし[2]、監督の山本泰(前PL学園監督)の誘いで進学した大産大高校では3年夏にエースとして大阪府大会決勝まで進んだが、2年生桑田真澄清原和博擁するPL学園高校に0-4で敗れ、甲子園への切符は掴めなかった[2]

高校卒業後は亜細亜大学に進学。4年まで投手も務めた。同期に主将の生田勉(のち亜大監督)やPL出身の北口正光(のち東農大監督)、2年上に阿波野秀幸佐藤和弘、1年上に与田剛(のち中日監督)、2年下に小池秀郎高津臣吾(のちヤクルト監督)らがいた。

1989年松下電器に入社すると、外野手に専念して同年の都市対抗で若獅子賞を受賞し、指名打者として社会人ベストナインにも選ばれた。1990年IBAFワールドカップ右翼手として起用され、佐藤真一に次ぐチーム2位の打率を記録した。また、前年に続き社会人ベストナインを受賞している。

1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に選ばれ、予選の対キューバイタリア戦では右翼手台湾戦では指名打者として先発出場した。途中出場も含め4試合の11打席で4四死球出塁率は低くなかったが、代表の野手で唯一ノーヒットに終わっている[3]1994年日本選手権で打率.636を記録し、首位打者賞を獲得した。

現役引退後は野球部長を務めたほか、ボーイズリーグの生駒ボーイズのコーチとして元山飛優などを指導している[4]

2021年にパナソニック野球部の副部長に就任。2022年からはGMを務め、2023年からは総監督を兼務する[5]

脚注

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  1. ^ 毎日新聞、1992年7月20日付朝刊、P.19
  2. ^ a b “打倒PL”に燃えた'84年の大産大高。最強の古巣に挑んだ監督の物語。”. Number Web (2016年7月1日). 2021年2月27日閲覧。
  3. ^ 別冊宝島、1545号、P.82
  4. ^ 大友良行 (2020年4月15日). “仙台六大学の“ドラフト候補生“はこの3人!プロ注目の「杜の都の三銃士」を紹介”. THE DIGEST. 2021年2月27日閲覧。
  5. ^ 来季新体制ご報告”. パナソニック スポーツ (2023年1月26日). 2023年4月25日閲覧。

関連項目

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