三輪隆
楽天コーチ時代 (2014年、明治神宮野球場にて) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県柏市 |
生年月日 | 1969年12月1日(54歳) |
身長 体重 |
179 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト2位(逆指名) |
初出場 | 1994年6月23日 |
最終出場 | 2004年9月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 1992年 |
この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銅 | 1992 | 野球 |
三輪 隆(みわ たかし、1969年12月1日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、コーチ。
2004年のプロ野球再編問題では、オリックス・ブルーウェーブ最後の選手会長として労使交渉に疾走した[1]。バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]関東一高では、控え捕手として1986年春の第58回選抜大会に出場するが、1回戦で中村良二らのいた天理高に敗退[2]。 翌1987年春の第59回選抜大会に正捕手として連続出場。エース平子浩之(東洋大-日本通運)の好投もあって勝ち進み、準決勝で池田高を降し決勝に進出。立浪和義が主将として率いるPL学園と対戦するが、野村弘、橋本清の継投に抑えられ大敗、準優勝にとどまる[2]。この大会では四番打者として2本塁打を放った。 同年夏の東東京大会では準々決勝で修徳高に敗退。1年下のチームメートに二塁手の鈴木浩文がいた。
明治大学に進学。東京六大学リーグでは優勝に届かなかったが、リーグ通算70試合出場、254打数75安打、打率.295、7本塁打、41打点を記録、ベストナインに3回選出された。日米大学野球選手権大会日本代表2回、1991年インターコンチネンタルカップ日本代表。
卒業後は神戸製鋼に進む。1992年バルセロナオリンピックの野球競技・日本代表に選出され、後に同僚となる大島公一らと共に銅メダルを獲得。この結果を称え千葉県知事賞を受賞した。同年から2年連続で都市対抗に出場、1993年のインターコンチネンタルカップ日本代表にも選出される。 社会人屈指の捕手として、1993年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから2位指名を受けプロ入りを果たした。
プロ入り後
[編集]入団当初は高田誠・中嶋聡の控えに回るが、ヤクルトスワローズとの1995年の日本シリーズ第4戦(明治神宮野球場)、読売ジャイアンツとの1996年の日本シリーズ第4戦(本拠地・グリーンスタジアム神戸)では仰木彬監督からの指名で先発マスクを被る。
1997年には正捕手の座を獲得し73試合に先発出場する。
1998年のプロ野球脱税事件で懲役1年、執行猶予3年、罰金500万円の有罪判決を受け、開幕から1ヶ月以上の出場停止処分を科された。同年からは日高剛と併用され、2000年以降は段々と出場機会が減る。
2003年にはオールスターゲームに出場を果たす。これが現役中唯一のオールスターゲーム出場であった。同年は自身最多の8本塁打を放つなど打撃面で好成績を残し、規定打席未満ながら打率3割をマークした。同年7月28日のダイエー17回戦(福岡ドーム)では、26日、27日の同カード2日間に先発し22失点した日高に代わり先発スタメンを任されたが、1回裏に11失点するなど6回まで26失点して記録的大敗を喫してしまった。
2004年には選手会長となり、プロ野球再編問題で球団合併に反対、同年終了を以って現役を引退。
現役引退後
[編集]その後はオリックス・バファローズでコーチ業をスタート。2005年から2006年まで一軍バッテリーコーチ、2007年から2008年まで二軍バッテリーコーチ。2009年からは再び一軍バッテリーコーチを務めていたが、2010年4月8日に投手陣の不振の責任を取らされる形で二軍バッテリーコーチに降格となり[3]、同年自身の希望により退団[4]。
2011年からは東北楽天ゴールデンイーグルス一軍バッテリーコーチに就任し、他球団のユニフォームに初めて袖を通す。
2014年10月14日にコーチ契約を更新しないことが球団から発表された[5]が、翌2015年には、球団に在籍したままアマ・スカウト(関西地区担当スカウト)を務めた[6]。
2015年10月13日付で楽天を退団[7]。同月15日に、オリックスの一軍バッテリーコーチに復帰した[8]。
2016年4月28日に二軍育成コーチに異動となった。9月26日に第1回WBSC U-23ワールドカップの日本代表コーチを務めることが発表された[9]。
2020年限りでコーチを退任し、2021年からはオリックスのスコアラーを務める[10]。
人物
[編集]神戸製鋼時代は総務部に所属しており、野球中心の生活であったが、会社ではプロジェクトに関わったり、イベントの会議にも参加していた[11]。
指導者になってからは監督経験者である仰木彬、野村克也、落合博満の本を熟読し、選手指導の参考にしている[12]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1994 | オリックス | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1995 | 49 | 134 | 114 | 15 | 28 | 8 | 1 | 1 | 41 | 17 | 0 | 1 | 4 | 3 | 12 | 0 | 1 | 19 | 2 | .246 | .315 | .360 | .675 | |
1996 | 29 | 47 | 40 | 3 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 7 | 0 | .125 | .205 | .125 | .330 | |
1997 | 86 | 259 | 219 | 17 | 47 | 8 | 0 | 1 | 58 | 18 | 0 | 2 | 22 | 4 | 11 | 1 | 3 | 35 | 8 | .215 | .257 | .265 | .522 | |
1998 | 77 | 213 | 186 | 16 | 43 | 5 | 2 | 2 | 58 | 13 | 1 | 2 | 11 | 2 | 12 | 0 | 2 | 21 | 5 | .231 | .282 | .312 | .594 | |
1999 | 85 | 233 | 198 | 15 | 46 | 13 | 1 | 2 | 67 | 24 | 1 | 3 | 14 | 2 | 13 | 0 | 6 | 25 | 1 | .232 | .297 | .338 | .635 | |
2000 | 74 | 170 | 143 | 11 | 26 | 4 | 0 | 2 | 36 | 7 | 1 | 0 | 13 | 1 | 11 | 0 | 2 | 23 | 5 | .182 | .248 | .252 | .500 | |
2001 | 31 | 67 | 63 | 6 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 1 | .190 | .203 | .206 | .409 | |
2002 | 65 | 141 | 125 | 9 | 23 | 5 | 0 | 2 | 34 | 8 | 1 | 1 | 10 | 1 | 3 | 0 | 2 | 14 | 4 | .184 | .214 | .272 | .486 | |
2003 | 60 | 141 | 133 | 19 | 41 | 5 | 0 | 8 | 70 | 17 | 0 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 2 | 17 | 5 | .308 | .328 | .526 | .854 | |
2004 | 27 | 55 | 49 | 4 | 11 | 4 | 0 | 0 | 15 | 7 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 9 | 2 | .224 | .269 | .306 | .575 | |
NPB:11年 | 584 | 1461 | 1271 | 115 | 282 | 53 | 4 | 18 | 397 | 115 | 4 | 9 | 87 | 13 | 72 | 1 | 18 | 177 | 33 | .222 | .265 | .312 | .577 |
年度別守備成績
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
年 度 |
捕手 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 捕逸 | 守備率 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | |
1995 | 47 | 30 | 21 | 9 | .300 | ||||||
1996 | 24 | 19 | 14 | 5 | .263 | ||||||
1997 | 86 | 444 | 46 | 0 | 9 | 4 | 1.000 | 72 | 48 | 24 | .333 |
1998 | 77 | 423 | 42 | 2 | 5 | 4 | .996 | 53 | 35 | 18 | .340 |
1999 | 83 | 48 | 30 | 18 | .208 | ||||||
2000 | 72 | 36 | 23 | 13 | .361 | ||||||
2001 | 31 | 13 | 9 | 4 | .308 | ||||||
2002 | 59 | 39 | 28 | 11 | .282 | ||||||
2003 | 50 | 46 | 34 | 12 | .261 | ||||||
2004 | 10 | 4 | 4 | 0 | .300 | ||||||
通算 | 539 | 360 | 246 | 114 | .317 |
表彰
[編集]- 千葉県知事賞(1992年):バルセロナ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
記録
[編集]- 初出場:1994年6月23日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表にタイ・ゲイニーの代打で出場
- 初先発出場:1995年4月13日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、8番・捕手として先発出場
- 初安打:同上、4回表に池上誠一から
- 初本塁打・初打点:同上、8回表に清川栄治から左越ソロ
- オールスターゲーム出場:1回(2003年)
背番号
[編集]- 39 (1994年 - 1998年)
- 2 (1999年 - 2004年)
- 82 (2005年 - 2010年)
- 70 (2011年 - 2014年、2016年 - 2020年)
代表歴
[編集]- 1991 IBAFインターコンチネンタルカップ 日本代表
- 1992年バルセロナオリンピックの野球競技・日本代表
- 1993 IBAFインターコンチネンタルカップ 日本代表
コーチ歴
[編集]脚注
[編集]- ^ “日本プロ野球選手会 公式ホームページ”. jpbpa.net. 2021年4月13日閲覧。
- ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ “オリックスがバッテリーコーチ入れ替え”. 日刊スポーツ (2010年4月8日). 2011年11月29日閲覧。
- ^ “コーチ退団のお知らせ”. オリックス・バファローズ (2010年10月27日). 2011年11月29日閲覧。
- ^ 来季のコーチ契約に関して楽天球団公式サイト2014年10月14日配信
- ^ “<楽天>三輪スカウト退団”. 河北新報 (2015年10月14日). 2015年10月15日閲覧。
- ^ “スタッフ退団のお知らせ”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2015年10月13日). 2015年10月15日閲覧。
- ^ オリ来季コーチ陣 1軍は準総取っ替え デイリースポーツ 2015年10月15日閲覧
- ^ 侍ジャパンU-23代表の監督・コーチが決定 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2016年9月26日) 2016年10月2日閲覧
- ^ “オリックス小松投手コーチがスカウトに”. 日刊スポーツ (2020年12月15日). 2021年2月11日閲覧。
- ^ “楽天・三輪隆コーチ「野球中心の生活でしたが思い出もあります」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年4月13日閲覧。
- ^ “楽天・三輪隆コーチ「『海賊とよばれた男』が手放せません」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年4月13日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 三輪隆 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)