コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

葛西稔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
葛西 稔
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 青森県弘前市
生年月日 (1967-05-05) 1967年5月5日(57歳)
身長
体重
180 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 1990年7月14日
最終出場 2001年8月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪神タイガース (2003 - 2008)

葛西 稔(かさい みのる、1967年5月5日[1][2] - )は、青森県弘前市出身[1][2]の元プロ野球選手投手)・コーチスカウト

来歴・人物

[編集]

高校時代まで

[編集]

実家は弘前城の近くで鮮魚店を営んでいた。弘前市立城西小学校時代に軟式野球の全国大会へ出場し、チームとしてベスト4の成績を残す[3]。その後、弘前市立第二中学校(弘前二中)を経て[1][3]宮城県東北高等学校へ進む[1][2][3]

東北高校では佐々木主浩の控え投手兼一塁手及び三塁手として活躍、2年次の秋季東北大会では不調の佐々木に代わり主戦投手として準優勝、春の選抜高校野球大会出場の原動力となる。3年次には主に6番・一塁手として夏の甲子園でチームをベスト8に導く[3]。高校時代の甲子園登板は2回戦の佐賀県立佐賀商業高等学校戦で9回に佐々木の後を受け登板した1試合のみ。なお、この試合で前打者の中前適時打が走者の三塁ベース踏み忘れでフイになったが、その後の佐々木が死球で満塁となり、その次の葛西が走者一掃の二塁打を放っている。県大会は4番をつとめたが、甲子園では佐々木に4番を譲り、自分は6番打者だった。

大学時代

[編集]

その後、法政大学へ進み[1][2][3]アンダースローに転向[4]。2度のベストナインに輝き、東京六大学通算18勝7敗の成績を残し、上級生になるとエースとしてリーグ4連覇に貢献[3]。しかしリーグ戦4連覇中、大学日本一の座には届かなかった。1987年、2年次の第18回明治神宮野球大会では4年生エース秋村謙宏擁するも筑波大学に敗れ準優勝。1988年、3年次の第37回大学選手権1回戦の対近畿大学工学部広島六大学)戦では史上4人目となるノーヒットノーランを達成。昭和最後となる第19回明治神宮野球大会は中止となる。1989年、4年次の第38回大学選手権にも出場したが、3年4年次の両大学選手権ではいずれも優勝した酒井光次郎投手擁する近畿大学に準決勝で敗れた。同89年秋は主軸に黒須陽一郎や3年山口高誉擁する立教大学が久々の優勝を果たし5連覇はならなかった。大学の投手陣には、2学年下に萩原康高村祐両投手がいた。

第17・18回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、特に17回大会では0勝1敗ながらも最高殊勲選手に選ばれる大活躍を見せた。ちなみに、六大学では打者として初打席初本塁打も記録している。

史上空前の大豊作ドラフトと言われた1989年のドラフト会議では野茂英雄の外れ1位で阪神タイガースに入団。

プロ入り後

[編集]

即戦力と期待されたが、入団当初は足に故障を抱えていたため活躍ができず、同年他球団にドラフト1位入団した野茂(近鉄)、西村龍次ヤクルト)、与田剛中日)、佐々岡真司広島)、潮崎哲也西武)、小宮山悟ロッテ)、酒井光次郎日本ハム)がルーキーイヤーからチームの中心選手として活躍をしたことと対照的な状態であった。

1991年は先発として活躍、特に対ヤクルトスワローズ戦で5連勝を飾り、「ツバメキラー」と呼ばれる[5]

1992年のヤクルトとの開幕戦では実績を買われ開幕投手に抜擢された。7月12日の中日戦(ナゴヤ球場)で小島弘務から通算で唯一となる本塁打を打っている。開幕からローテーションを守っていたが内容の悪さから8月末に先発を外され大接戦だった9月にリリーフで2試合の登板に終わった。

1993年も開幕からローテーションに入ったが、次第に打ち込まれるシーンが目立つようになり、先発失格の烙印を押され、リリーフにシフトチェンジしていった。

1996年にはリーグ最多の63試合に登板するなど、以降はリリーフ陣の1人として伊藤敦規遠山奬志弓長起浩らと共に活躍。

特に野村克也が監督だった2000年には、5月21日横浜ベイスターズ戦では一塁を守り、同い年の左のサイドスロー・遠山と交互に登板する変則的なワンポイント継投が行われた[6]。この継投は「野村スペシャル」「遠山・葛西スペシャル」「勝利の連立方程式」「遠山・葛西・遠山・葛西」などと呼ばれ、カルビープロ野球カードや月刊タイガースの表紙にも遠山と2人1組で起用された。同一試合で2人の選手が2度登板するのは2リーグ制以降では21年ぶり2度目だった(1979年8月19日の中日戦で阪神の山本和行(投→右→投)と池内豊(投→左→投)が記録[7])。この日以降、この変則継投はしばしば行われることとなった。

2002年には投手コーチ(一軍ブルペン担当[2])を兼任するも、試合には登板せずに実質コーチとして働き、同年、伊藤、遠山らとともに引退。

選手引退後

[編集]

2003年以降は二軍投手コーチとして、コーチ業に専念する(2005年からは遠山も二軍投手コーチとして復帰し、再びタッグを組むこととなった)。2003年、当時同じ二軍投手コーチであった山口高志の助言を受けた藤川球児のフォーム改造の指導にあたり、後の藤川の成長のきっかけを作った事でも知られる。

2009年からスカウトへ転任。2012年より東北北海道地区を担当[8][9]。兵庫県から生まれ育った弘前に転居して活動している[8]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1990 阪神 4 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 31 5.2 10 1 5 0 0 0 0 0 6 6 9.53 2.65
1991 17 15 6 0 1 8 8 0 -- .500 385 93.0 86 9 24 1 4 52 0 0 44 39 3.77 1.18
1992 21 17 1 1 0 6 8 0 -- .429 460 105.2 116 16 35 3 5 61 1 0 52 45 3.83 1.43
1993 10 7 1 0 0 2 3 0 -- .400 183 43.0 43 4 12 2 4 19 0 0 21 19 3.98 1.28
1994 11 3 0 0 0 2 1 0 -- .667 97 22.1 20 2 12 0 2 16 1 0 12 9 3.63 1.43
1995 16 4 0 0 0 0 3 0 -- .000 119 26.1 32 1 9 0 2 19 0 0 18 14 4.78 1.56
1996 63 1 0 0 0 1 1 1 -- .500 349 81.2 77 5 36 2 5 54 0 1 34 30 3.31 1.38
1997 44 0 0 0 0 6 3 10 -- .667 249 59.2 50 3 25 7 1 36 2 1 16 10 1.51 1.26
1998 51 0 0 0 0 1 3 0 -- .250 243 54.1 54 2 28 2 5 44 3 0 24 23 3.81 1.51
1999 19 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 100 20.1 34 2 8 1 1 11 0 0 19 14 6.20 2.07
2000 43 0 0 0 0 7 6 17 -- .538 186 44.0 37 2 18 8 1 26 0 0 14 12 2.45 1.25
2001 32 0 0 0 0 1 2 1 -- .333 124 28.0 31 1 11 3 1 14 0 0 13 12 3.86 1.50
通算:12年 331 48 8 1 1 36 40 29 -- .474 2526 584.0 590 48 223 29 31 352 7 2 273 233 3.59 1.39

年度別守備成績

[編集]




投手 一塁
























1990 阪神 4 0 1 0 0 1.000 -
1991 17 3 18 0 0 1.000 -
1992 21 5 17 0 0 1.000 -
1993 10 2 9 0 2 1.000 -
1994 11 3 3 0 0 1.000 -
1995 16 0 5 0 0 1.000 -
1996 63 5 18 1 0 .958 -
1997 44 5 19 0 2 1.000 -
1998 51 4 14 0 2 1.000 -
1999 19 0 4 0 0 1.000 -
2000 43 2 9 0 1 1.000 5 2 0 0 0 1.000
2001 32 2 6 0 0 1.000 -
通算 331 31 123 1 7 .994 5 2 0 0 0 1.000

表彰

[編集]

記録

[編集]
投手記録
  • 初登板:1990年7月14日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(阪神甲子園球場)、6回表から4番手で救援登板、1回1失点
  • 初先発登板:1990年8月8日対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤ球場)、3回1/3を5失点で敗戦投手
  • 初勝利・初完投勝利:1991年6月30日、対ヤクルトスワローズ16回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1992年6月9日、対中日ドラゴンズ8回戦(阪神甲子園球場)
  • 初セーブ:1996年6月12日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、12回裏から4番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 1球勝利投手:2000年8月3日、対中日ドラゴンズ19回戦(阪神甲子園球場)、9回表1死から6番手で救援登板・完了、レオ・ゴメスを併殺打 ※史上12人目

背番号

[編集]
  • 13 (1990年 - 2002年)
  • 82 (2003年 - 2008年)

登場曲

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 『プロ野球人名事典2001』(2001年、日外アソシエーツ発行・紀伊國屋書店発売。編著者:森岡浩。コード:ISBN 4816916695
  2. ^ a b c d e 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』(『ホームラン』2002年3月号増刊。2002年3月31日、日本スポーツ出版社発行)P112掲載「葛西 稔」
  3. ^ a b c d e f 外部リンク(猛虎人国記)を参照。
  4. ^ 『ファミスタ64公認ガイドブック』(1998年1月、小学館発行。書籍コード:ISBN 4091026060)より、阪神タイガース選手名鑑内葛西稔のプロフィールを参照。
  5. ^ 猛虎人国記(5)~青森県~スポニチ 2012年3月27日掲載
  6. ^ 大阪日刊スポーツ・なにわWEBに掲載された、2000年5月21日の戦績記事 - インターネット・アーカイブ2002年6月12日付保存キャッシュより。
  7. ^ 21年前も阪神 野村克也監督 必死の防戦2投手が2度投げた
  8. ^ a b 阪神・葛西スカウト、弘前で活動 - 47NEWS 2012年5月14日付(ソース:東奥日報)
  9. ^ 阪神スカウト・葛西さん 出身地弘前で活動 - 陸奥新報 2012年5月15日付(リンク先は、インターネット・アーカイブ2012年5月16日付保存キャッシュ)
  10. ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). https://www.sanspo.com/gallery/20161122-JEYGFEERFFNUPIAFIRRQJ3A66A/ 2017年9月8日閲覧。 
  11. ^ 月刊タイガース2000年5月号P45

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]